芸術に権利がある国

悪い芸術

 広大な湖の畔を一台のバギーが走っていた。全地形対応車とも呼ばれるその車には、一人分の股座式シート、棒状のハンドル、かなり大きくてデコボコした車輪が四つ付いていた。座席後部には鉄パイプを組み合わせたキャリアが設けられていて、薄汚れたバックパックや寝袋、水や食料などの旅荷物が満載されていた。

 往来が盛んなことを示すのか、道の土はしっかりと踏み固められて平らに均され、バギーの荒々しい車輪が猛スピードで通過しても、砂埃が巻き上がることはない。

 運転手は年端のいかない少女だった。陽に透かせば煌めいて見えるほどの白髪を一本に結わえ、風圧で暴れる前髪を大きなピンで留めていた。軍隊で使われるようなツナギを着込み、腰の銃火器を始めとして武装していた。少女の体躯は細く、小さく、見栄えはよくない。

 少女はバギーをかなりの速度で走らせていた。背後では太陽が昇ったばかりで、朝靄が薄く煙る中、少女の進路に向かって細長い影を伸ばしている。

「………………」

 話し相手のいない一人旅なので少女は終始無言だった。時々何かを言うように唇を開くが、言葉の代わりに凍り付いた吐息が背後に流れるだけだった。正午を迎えるまで休憩も挟まずにバギーを走らせ、食事のために一度だけ休んだ。地図を確かめると次の国まではもうすぐのはずなのに、国を囲む壁は視えてこない。

(道を間違えましたか)

 怪訝に思いながらも進路は変えず、日没間際になって、ようやく壁が見えてきた。


「芸術の都へようこそ、旅人さん」

 入国審査官の青年が、はち切れそうな、屈託のまるでない笑顔で旅人の少女を歓迎した。

「入国の目的は何でしょうか。旅の人数と滞在日数、希望する宿泊施設ホテルのグレード、その他諸々ご不明な点があれば何なりとお申し付けください」

「観光と休養です。一人、三日間、シャワーとベッドがあってなるべく安いところを」

「かしこまりました。我が国では無償でガイドを付けることができますが、希望しますか」

「無料なら、お願いします」

 念押しするように『無料』と繰り返して少女は入国した。門を潜ってすぐの広場で、ガイドである青年に引き合わせられる。茶色い縮れ毛の痩せぎすな青年だった。

「初めまして、旅人さん。案内人のナユタといいます。まずはホテルに向かいましょう」

 大きなトラックの荷台にバギーを載せ、助手席に少女が座り、ナユタがハンドルを握った。移動の間に見えてきた国内の様子は、審査官が『芸術の都』と表した通りだった。

 石畳のメイン道路の両脇には等間隔で彫像が並べられ、道中で通り過ぎた公園にはアクリル板で保護された絵画がいくつも展示されていた。通りに立ち並んだ店の大半は美術商であり、賑やかす人々の波は引きそうにない。絵画、彫像、宝飾品、工芸品、文学、その他様々な芸術品が幅広く扱われ、そのどれもに、人々は熱を寄せていた。

「旅人さんのお名前は何でしょうか」

 運転する傍ら、これまでの旅で出会ってきた人々と同じように、ナユタが訊ねた。

「名前はありません」

 これまでと同じように少女は返す。怪訝な顔をされることだろうと思っていた少女は、ナユタが小さく噴き出したことに驚き、目を細めた。

「いえ、失礼。この前の旅人さんにも同じことを言われたので、流行っているのかと」

「この前?」

「三週間ほど前のことです。初老の旅人さんでした。『名前はない。余計な詮索はしないでもらいたい』とそれはそれはご立腹の様子でした。あの時はぼくも肝を冷やしたものですが、二度目ともなるとおかしさの方が先立ちますね。まぁ、事情がおありだったのでしょう」

「ごめんなさい。私は、自分の名前に対してあまりよい思いをしていないので」

「いえいえ、謝らないでください。誰にだって隠しておきたい事情はあるでしょう。それが名前ともなると些か以上に不便である感じがしますが、さておき、名前を呼べないとなると、代わりに『旅人さん』でいいのでしょうか」

「はい。それでお願いします、ナユタさん」

「承知しました、旅人さん。もうすぐホテルに着きます。積もる話はその後で」

 少女が要望を出した通りの簡素なホテルだった。ベッドが置かれているだけで手狭に感じるほどの広さの部屋と、バスタブとトイレが一緒になったシャワールーム。

「せっかくですので、旅人さんには我が国最高峰のホテルをご案内したかったのですが、仕方ありませんね。それでも、ここのホテルの食事は馬鹿にできないですよ? 何しろ、曲がりなりにも『芸術家』が作っていますので」

「……芸術家ですか?」

「はい。我が国では料理も芸術の内でして、芸術家だけが作ることを許されています」

「それでは後で堪能してみることにします。明日の予定を立ててもいいですか」

「もちろんです。観光と休養でしたよね」

「それと、換金屋を案内して欲しいのです」

 すると、そこでナユタの表情が僅かに曇った。彼は「失礼」と前置きしてから部屋の扉を開き、廊下に誰の姿もないことを確かめると扉を閉め、鍵をかけ、窓のカーテンを引いた。

「失礼ですが、換金したい品物を見せて頂けますか?」

 少女はどこか訝しみながらも肯き、バックパックの底から紺色の布袋を取り出した。中身は金銀を用いた宝飾品。前に訪れた国で、仕事の報酬として貰い受けたものだ。

 ナユタはポケットから手袋を取り出して手にはめると、少女の見せた宝飾品を念入りに調べ始めた。ルーペで細部の造りを眺め、重さを量り、電灯に透かす。胸ポケットから取り出した小さな端末機器で何かしらを調べ、手帳に短い文言を書き付けていく。十五分程、黙々と作業していたナユタは貌を上げ、宝飾品を手早く布袋に入れると旅人の少女に差し出した。

「隠してください。さ、早く。決して国内で出してはなりません。バックパックの奥に。や、そのタオル、それで包んでください。厳重に。零れたりしないように」

 舌の廻りもおざなりになって急き立てるナユタの言う通りにしてから、少女は首を傾げた。

「一体どうしたのですか。ここは芸術の国だと聞きました。これらの品々は高く売れるものだと期待していたのですが……」

「芸術の国⁉ 確かにそうでしょう。けれど、付け加えて憶えておいてください。この国は――芸術に権利がある国なのです」

 それはどういうことなのかと訊ねた少女に対して、ナユタは明日ご説明しますと言い置いて帰っていった。去り際に、くれぐれもご忠告申し上げたことを忘れないようにと繰り返して。



 翌朝、日の出とともに起きた少女はシャワーを浴び、じっくりと筋肉をほぐすように軽い運動をした。それから食事を済ませ、食後のお茶を楽しんでいるとナユタが現れた。

「おはようございます、旅人さん。昨夜はよく眠れましたか」

「ええ、とても。食事も美味しかったです」

「それはよかった。では、行きましょう」

「どこへ行くのですか?」

「芸術の国で観光すべきところなど決まっています。美術館です」

 国立公園の中央に、その建物はあった。菱形のパネルを何枚も組み合わせ、全体として逆三角錐の形をした、前衛的な建造物だった。

「本来ならばぼくがいろいろと解説するべきなのですが、昨夜の答えを知って頂くためにも、旅人さんだけでご覧になる方がいいでしょう。さあ、どうぞ、お入りください」

『国立美術展覧会』と横断幕の張られた門扉を潜って中に入る。そこには絢爛かつ煌びやかな芸術品の数々が展示されていた。作品の隣には、この作品は××の技法が素晴らしいだの、作者は××に師事して××な人生を送っただの、感性の出処は××だろうといった解説が長々と書かれたパネルが設置されており、ナユタの案内がなくても十分理解できた。

 とても広く、そして十三階建てととても高い美術館を律義に全て観覧し終え、昼過ぎになってようやく建物から出ると、ナユタがバスケットを片手に待っていた。

「そこの露店で仕入れました。お昼はこれにしましょう」

 七層の野菜のテリーヌを食べながら、ナユタの運転するトラックに揺られる。これも芸術家が作っているのですかと訊ねれば、そうですとだけ返された。

「どこに行くのでしょうか?」

「ぼくの家です。ここから先の話は、あまり外に漏らしてはいけないもので」

 自宅に着くと、ナユタはお茶を淹れてくれた。

「飲み物を淹れることだけは市民にも許されています。どうぞ」

 礼を述べてから少女は口に含み、途端に複雑な表情をした。

「ハハ、不味いでしょう。ぼくは芸術家じゃないから、味もそこそこなんです」

 快活に笑声を上げ、それから青年は表情を引き締めると「さて――」と切り出した。

「美術館を観てもらいましたが、どうだったでしょうか。率直な感想で構いません。旅人さんがあれらの『芸術品』を観てどう思ったのか、何を感じたのか、話してもらえませんか?」

「……そうですね。私は美術商ではありませんし、鑑定眼などというものを磨いてきた覚えもありませんから、全くの素人意見、直感をそのまま言い表すことしかできませんが――あれらのものは、本当に別の人間が作ったのですか?」

 少女の言葉を受け、それこそが望んでいた答えだったと言わんばかりにナユタは首肯する。

「私には全てが同じもののように見えました。描かれているものが違っても、書かれているものが違っても、造られているものが違っても、奏でられているものが違っても、どれもこれも似通っていました。個性なんてものが介在することを許されているようには見えませんでした」

「……旅人さんに、見せたいものがあります」

 神妙な面持ちで告げ、ナユタは椅子から立ち上がると部屋の奥に進む。隙間もなく本が詰め込まれた棚の前で立ち止まると、何冊かの本を半分だけ取り出しては元に戻す動作を繰り返す。すると発条ぜんまいが回る音とともに本棚が独りでに動き、背後に隠されていた扉を露わにした。

「ぼくの工房アトリエです。どうぞ、中を見てください」

 扉の向こうには絵描きの世界が広がっていた。塗料と木炭、紙と木の香りが綺麗に調和した部屋の中では、壁を埋め尽くすように何枚もの絵画が飾られていた。それでも飾り切れないものは棚に収められ、キャンバスが立てられている僅かなスペースを除いては、足の踏み場にも困るような混沌とした場所だった。

「本当はもっと広い工房が欲しいけれど、これが限界なんです」

 寂しそうに笑ったナユタを背に、少女は部屋の中に進み、飾られた絵を見つめる。

「あなたが描かれたのですか?」

「はい。全て、ぼくの作品です。かれこれ十年になります。誰かが見てくれるわけでもなければ、評価が得られるわけでも、心を動かせるわけでもない。無反応と無感動の狭間に溺れながら、それでもぼくの心は、描かずにはいられなかった。表現せずには、いられなかった」

「あなたは芸術家なのですね」

「いいえ、ぼくは芸術家ではありません」

 少女の評価を、青年は否定する。苦しそうに、口惜しそうに一掃する。

「でも…………」

 旅人の少女は工房を見渡す。ここに隠された絵の群れは、紛うことなく芸術ではないのか。

「はい。重ねて、ぼくは芸術家ではありません。ぼくは権利を持っていませんから」

 芸術に権利がある国だと、ナユタの言葉が思い出される。

「かつて、ぼくが生まれるよりもずっと前のこと、この国では国民全員が思い思いに芸術活動を楽しんでいました。芸術に打ち込むことこそが人生の意義であり、何よりも尊ばれるべきことだとされていました。そうですね、その頃は、生後二ヶ月の赤ん坊が紙に引いた一本の線までもが、崇高な芸術品として持て囃されていました。その後、何が起こったのかは想像に難くないでしょう。技術と経験を磨いた芸術家が唯一無二の独創性アートを生み出す傍らで、烏合の衆が未熟を恥じることもなくのさばり続けたために、我が国の芸術品の価値は失墜しました。国民は焦りました。このままでは、我が国を芸術の都として発展させてきたご先祖様に顔向けできない。そこで、良い芸術を定義し、それに当てはまらない悪い芸術を排除することにしました」

「はい?」

 黙って聞いていた少女が素っ頓狂な声を上げる。

「芸術に良いとか悪いとかあるのですか?」

「旅人さんが換金屋を紹介して欲しいと言ったとき、ぼくは止めました。それは、あれらが悪い芸術だからです。悪い芸術品を売買することはできません。単純所持でも重い刑罰が科せられます」

「その、良いとか悪いというのはどうやって決めたのですか?」

「国民全員の投票により選ばれた、各分野の芸術家、十五名の作品を分析して決めました。例えば、貴金属類、宝飾品では、選出された芸術家達が七二・八五から三四五九・九一グラムまでの作品しか作っていなかったので、それが重量の範囲となりました。七二・八五グラムより軽かったり、三四五九・九一グラムより重かったりすれば悪い芸術となります。他には、絵画モデルの身長は一五六・四二センチより高くなければいけないとか、小説は三人称視点でのみ書かなければいけないとか、ドレミの中でもラが一番多く奏でられないとダメだとか。

 こんな風に芸術活動の指標が事細かに定められ、それを全て守っているものが良い芸術として認められ、作者には芸術の権利が与えられます。逆にひとつでも違反していれば権利は与えられず、芸術活動を行うことは許されません。違法行為と見做され、発覚すれば逮捕されます」

「それでは、ナユタさんは?」

超現実主義シュルレアリスム――夢と現実の矛盾した状態を表現すること。哲学的な思考をキャンバスに落とし込み、意外な並列と不条理を追求するもの。それがぼくの絵であり、ぼくの表現する美術であり、この国では悪い芸術と見做されるものです」

「虚しくはならないのですか。あなたの実力があれば、国が定めた基準を守りさえすれば、称賛を得られると思います。少なくとも、私にはその可能性が感じられます」

 ナユタは驚いたように息を詰まらせ、それから、唇の端に僅かな笑みを浮かばせた。称賛、名声、栄誉、成功。社会からの、他人からの反応を切望していることは明らかで、事実彼は、万人に与えられるものではない扉の前に立つ権利を勝ち取っている。飽くことのない欲求と尽きることのない努力、創造への執念、一握りの才能が彼を扉の前へと至らせた。後はただ傅くだけ。社会という、国という巨大なうねりに迎合するだけ。自分を殺すだけでいい。

「いいえ。ぼくはそれを望みません」

 されど、彼は否定する。

「自分の信じる美を捻じ曲げてまで生み出した芸術に、価値など宿らないから」

 自分の信じた価値を、自分自身の手で捨ててしまわないために。彼の結論、決意を、少女は正しいとも間違っているとも断じなかった。代わりに、囁くように告げる。

「私は好きです。あなたの絵を美しいと感じます」

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