第10話 荊州の失陥
「冗談ではないぞ。お主まで出て行かれては、さすがに人手が足らん」
僕は関羽に捕まってしまっていた。
「わしの幕僚として、その身を捧げてみないか」
がしっと僕の両手をとり、じりじりと顔を寄せてくる関羽の要請を断る勇気は無かった。これが当代最強武将の迫力なのだろう、逃げ出そうにも身体が動かない。完全に蛇に睨まれたカエルだ。
断ったら殺られる。そう思った。
僕は、がくがく、と頷く事しかできなかった。
「まあ、心配するな。攻撃は最大の防御と、かの
関羽は竹簡を繰りながら不敵に笑う。
そ、そうでしたっけ。僕は兄と違って『孫子』なんか読んでいないので分かりませんけど。
って。ちょっと待て。
「どこを攻撃するつもりなんですか!」
☆
この関羽の暴走には理由があった。
劉備は蜀を手に入れ、漢中王を称した。
そして関羽を含め、功の有った武将たちを上将軍、通称『五虎大将軍』に任じたのだが、どうもそれが気に入らなかったらしいのだ。
義弟の張飛については異論はない。
だが新参者の馬超と、よぼよぼの老将、黄忠も同列にされるとは。これを屈辱と言わずして何という。
「なるほど、劉兄はまだわしの功が足らぬと思し召すか」
怒り狂った関羽は、単独で曹操が政庁を置く
北伐の手始めは、
「あの、将軍。でしたら後方を安泰にしておくのが常道ですけれど」
ギロ、と関羽は顔を真っ赤にして僕を睨みつけた。
これもつい先日の事だ。
呉の孫権から使いが来た。要は『娘さんを下さい』だった。
縁戚同士になって仲良くやりましょう、という意味なのだが、関羽は即座に断ったのだ。
「そこは、劉備さまに相談してからにしませんか」
僕は思わず横から口を出した。
しかし。
「ふざけるな。江東の
とっとと帰れ、この
関羽は逆上して叫んでいた。
蒼白になった呉の使者になおも怒鳴り続ける関羽を見ながら、こいつただの親バカじゃないのか、そう僕は思った。
「なあに。こちらが優勢であれば、呉の連中も手出しはできぬ。つまり」
関羽は凄惨な笑顔を見せた。
「勝てば良いのだ」
☆
関羽の悪い所は、人への好悪が激しすぎる所だろう。
僕のように格下の人間に対しては比較的優しいが、同格に近い者には異常なまでに厳しく、少しのミスも許そうとしなかった。関羽自身が優秀なだけに、その舌鋒は容赦が無かった。
呉に備えるために東方に駐屯させている、
原因は、兵糧の輸送が命令より数日遅れただけだったのに。
「貴様らの首を、樊城の城門の飾りにしてやる。覚えておけ」
そう言うと、関羽は背を向けた。
これはまずい。
けれど僕が声を掛けるより早く、二人は逃げるように退出していった。
☆
関羽の樊城攻撃は順調に進んでいた。
樊城を守る
報を受け、曹操は戦慄した。
「これは、遷都せねばならんかな」
しかしまだ、そう言って笑い飛ばすだけの余裕が曹操にはあった。
関羽の進出を受け、曹操は
「さすが于禁。隙がない」
なんとか兵を再集結させた関羽は舌を巻いた。さらに、精強な于禁の軍の中でも
「奴を倒さねばならんが……」
関羽が僕を見た。
僕なんかに、いったい何を期待しているんだ、絶対無理でしょうが!
「まさか。何か策はないかと思っただけだ」
ああ、よかった。でも策なんて有りませんけど。
「あの孔明どのの弟なのにか」
関羽がため息をついた。これはさすがに傷ついた。
「分かりましたよ」
僕は言った。本当は人を傷つけるような事に頭を使いたくはないのだけれど。
「この地形をご覧下さい」
少し高い位置に布陣した関羽軍から見ると、樊城は小高い丘に囲まれているのが分かった。しかもすぐ傍を大きな河が流れている。
水攻めにします。僕は言った。
☆
濁流によって于禁の精鋭軍は壊滅した。
すかさず総攻撃を加え、龐徳は討ち死にし、大将の于禁は激闘の末に降伏した。
関羽軍の大勝利だった。
しかし。
「樊城の周囲が泥沼になってしまって、攻撃できないではないか」
関羽はそれでも余裕の笑みを浮かべていた。
そこへ、後方からの急使が届いた。
密書を読んだ関羽の表情が凍り付いた。
「どうしたのですか、関将軍」
僕は関羽の顔を見上げた。彼は、血の気を失っていた。初めて見る表情だった。
関羽は、ゆっくりと僕の方を見て言った。
「
事実上の荊州失陥だった。
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