第9話 蜀を望む

 いつも用事も無いのにやって来ては、蓮理れんりさんの淹れたお茶を飲んで帰っていった劉備たちだったが、なぜか最近は顔を見なくなった。

 あんな連中でも来ないと少し淋しい気がして、つい玄関先へ目をやってしまう。


「劉備どのはしょくに向かったのだ」

 孔明が教えてくれた。

「蜀、ってあの蜀ですか」

 蓮理さんらしくもない、ふわっとした問いだった。確かに僕も、蜀と言われても何の知識も無かった。

 漢中地方を含め、巴蜀はしょくとも呼ばれるのだか、何だかいつも深い霧に包まれた密林地帯のようなイメージしかない。

「まだ、海の底の竜宮城に向かったと言われる方が納得しやすいですけど」

 蓮理さんは困ったように、彼女の夫を見た。


「蜀はそんな幻想的な場所じゃない」

 孔明は笑って言った。

劉璋りゅうしょうという普通の男が治めている、ごく普通の土地だよ」

 でも、これからは普通の男ではやっていけない時代になるからな。孔明はそう言ってお茶を飲んだ。


 蜀に向かったのは劉備の他、魏延ぎえん黄忠こうちゅうといった荊州出身の武将。さらに参謀として、呉の工作員から転向した龐統ほうとうだった。

 生え抜きと言っていい関羽、張飛、趙雲ちょううん、そして孔明は荊州に残る事になった。

「ちょっと、蜀軍を甘く見過ぎじゃないかと思うんだけどね」

 孔明は肩をすくめた。控え部隊とまでは言わないが、荊州兵は弱い。実戦経験少ないからね、と不安そうに呟く。


 ☆


「蓮理、話がある」

 その日、襄陽じょうようの政庁から戻って来た孔明は、暗い顔で彼女を手招きした。

 孔明が話したい内容は僕にも見当がついた。案の定、劉備の蜀攻略が上手く行っていないのだ。国都である成都を目前にして蜀軍の頑強な抵抗に遭い、劉備軍は動けなくなっていた。悪いことに、作戦を立案してきた龐統も流れ矢によって命を落としたという。


「わたしは荊州を離れなければならん」

 龐統に代わって自分が劉備の許へ行く。

「そこで、だ」

 僕は嫌な予感がした。

 

 孔明は複雑な表情を浮かべて僕を見た。

「正直、お前が劉備どのの許で上手くやって行けるとは思えない。ここで家を守ってくれるのが一番良いと、わたしは思うのだけれどもな」

「何だか、含みのある言い方ですが」

 うむ、と孔明は頷いた。


「お前は関羽どのに仕えてくれ」


 局面を打開するため、劉備は主力軍を蜀へ投入する事を決意したのだ。荊州には最低限の兵力だけを残し、すべて蜀へ移動させる。


 問題は誰を残すかだった。軍の統括はもちろん、曹操や孫権を向こうに回した政治的駆け引きまで必要となる大役なのだ。

 最近頭角を現して来たとはいえ、まだ若手の趙雲では政治的な面での押さえが効かない。かと言って孔明ら文官を最前線に立たせる訳にもいかなかったし、張飛は最初から問題外だった。


「たしかに、関羽さんしか居ませんね」

 蓮理さんも納得するしかなかった。あの人なら、何となく文武ともに得意そうなイメージがあるし。

「まあ、畑仕事の合間でいいから、関羽どのを手伝ってやってくれ」

 合間にって、どれだけ人手が足りてないんですか。劉備軍って。


 続々と軍勢が出立していくのを、僕と蓮理さんは見送った。

 孔明はいつもの道服に白羽扇を持ち、怪しげな馬車で襄陽を離れて行った。

 蓮理さんは涙を浮かべ、手を振っている。

「早く、また一緒に暮らせるといいのですけど」


 だけど、その日は結構早く訪れた。


 孔明がどれだけ働いたのかは分からないが、ともかく大軍を投入しただけの事はあったようだ。張飛と趙雲、二手に分かれた劉備軍は瞬く間に蜀の東部を制圧する。そしてそのまま劉備の待つ成都郊外へ到着した。

 

 同じ頃、劉備の陣営に馬超ばちょうという男が加わった。あの曹操を何度も追い詰めた、天敵ともいうべき男だ。

 呂布亡き後、中原最強の武将のひとりと言っていいだろう。常に白銀の鎧を身に纏い、きん馬超と呼ばれるほどの美形でもある。

 劉備は彼の父、馬騰ばとうの武骨な顔を思い出し、首をかしげていた。


 馬超も、武名でいえば、『万人の敵』と恐れられる関羽、張飛にも匹敵する。

 この万人の敵とは、一人で一万人を相手に出来る、という意味なので、念のため。


 この馬超の襲来が決定打になったのだろう。ついに劉璋は降伏に応じた。形としては、益州牧の地位を譲るという事になる。


 劉備は蜀の主となった。

 そして、僕と蓮理さんも蜀の成都へ居を移す事になる。


 そのはず、だったのだけれど……。



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