第8話 越えられない一線
暗闇の中、遙か対岸に一つの火柱があがった。それは次々に連鎖し拡がっていき、やがて吹き上がる炎は対岸を埋め尽くした。
長江の水面は、炎の照り返しで朱く染まっていた。
陣中が騒がしくなった事に気付き、宿舎から外に出た僕と
身体が震えて止まらなかった。地獄だ、と思った。
「やあ、蓮理どの。作戦は大成功ですよ」
騎馬で駆けてきたのは呉軍の総督、
「曹操ご自慢の巨艦を自らの鎖で繋がせ、火を放ったのです。まさに『連環の計』。なんと素晴らしい眺めなのでしょう」
高らかに笑うと、総攻撃の指揮を執るために船へ向かった。
これは呉軍の大勝利なのだろう。
呉と、劉備。そして、孔明の。
だが、あの炎の下に
いや。どこにも喜ぶ理由が無かった。
彼らの陣営から優しく送り出して貰ったのは、まだほんの一週間ほど前だ。
僕にとって、彼らは敵ではない。……そして、もちろん蓮理さんにとっても。
「私のせいだ」
蓮理さんは悲鳴を押し殺したような声で言った。
「あの時、ちゃんと、火に弱いという事を言っておけば……こんな」
手で涙を拭うと、部屋に駆け込んでいった。
僕が後を追って部屋に入ると、蓮理さんは両手で耳を塞ぎ、壁際にうずくまっていた。周囲の歓声を聞きたくなかったのだろう。
うっ、うっと肩を震わせ、嗚咽している。
「
僕は蓮理さんの前にしゃがみ込んだ。
「曹操さんだけじゃありません。あそこには……」
蓮理さんは、涙に濡れた顔をあげた。
「いったい何人の夫がいたんですか。何人の父が、息子が、兄、弟が……」
ごほごほ、とむせる。
「これが私のせいじゃ無いと言うのなら…」
じゃあ、誰が悪いんですか!
「船を繋いだら火攻めに弱い事くらい、普段の曹操さんなら気付いていたと思います。だから、誰が悪いかといえば……」
一瞬、孔明の顔が浮かんだ。曹操が体調を崩した原因は、あの男の変な文章のせいなのだから。
だけど、それを口にする訳にはいかない。
「誰も悪くないんです。強いて言えば、運が…悪かったとしか…」
苦しい言い訳のように聞こえただろうか。
でも、蓮理さんの表情が少しだけ緩んだ。
「そうですね。ご免なさい、
この様子だと、僕が孔明を非難しようとして止めた事に気付いてくれたのかもしれなかった。
「均くん。お願いがあります」
「はい」
蓮理さんは、僕の目を真っ直ぐ見て言った。
「私、今夜はいけない事をしようと思います。付き合ってください」
僕たちは寝台に並んで腰掛け、思い詰めた表情で見つめ合っていた。
二人の間にあるのは、僕が持って来た酒壺と茶碗。
「これからヤケ酒をします」
蓮理さんは宣言した。
言葉とは裏腹に、蓮理さんは茶碗一杯の酒であっけなく眠ってしまった。赤い顔で寝息をたてる彼女に布団をかけて、僕は部屋を出ようとした。
でも僕は足を止め、もう一度寝台に歩み寄る。そして、蓮理さんの顔をのぞき込んだ。やめろ、と心の中で声がしていたけれど。
「蓮理さん……」
少しだけ開いた柔らかそうな唇から目が離せなかった。
僕はかがみ込み、そっと唇を重ねた。
☆
「あれれ、いつの間にか寝ちゃってました」
蓮理さんの声がした。
本当に、いつの間にか朝になっていた。結局、僕はあれから部屋の反対側で布団にくるまっていたのだ。あれ以上何もできず、かといって部屋を出ることもできずに。
「どうしたんですか? 均くんですよね」
僕は彼女の方を振り向いた。
メガネを外した蓮理さんが、僕を睨み据えていた。
「ああっ、ご免なさい。本当に出来心なんですっ!」
思わず白状してしまった。
「ま、まあ。若気の至りという言葉もありますし、私も、その、油断したというか。だけど、もうしないで下さいね。お願いしますよ」
どうにか今回は事故として許してもらう事ができた。
☆
「曹操さんたち、無事だといいですね」
蓮理さんは祈るように言った。呉軍にいて言う事ではないが、僕もそう思う。
でも、どうやら、その願いは届いたようだ。
孔明の指示で曹操を追撃した関羽だったが、結局捕捉することは出来ず逃走を許してしまったらしい。
一時期、関羽は捕虜として曹操の許にいた事がある。その時に厚遇された恩を返したのだと言う者もいたが、それは本人たちにしか分からないことだ。
ただ、惨めに敗走する曹操を討ったとて、それを栄誉と思う男ではない事は確かだ。それだけ自尊心の強い男なのだ。関羽という男は。
「関羽さんって、いい人ですものね」
蓮理さんは安堵したように微笑んだ。
☆
一方、全然いい人ではない男たちもいる。
その関羽の主君劉備と、参謀になった孔明である。
赤壁の大戦は呉軍の大勝利だったはずだ。
なのに、荊州の主要な城を押さえたのは劉備たちだった。周瑜と曹操配下の将が争っている合間を縫って、次々と城を占領して行ったのだ。
「これぞ、『
「さすがは孔明先生。やることがお
「いやいや、劉備どのには敵いませんとも」
わははは、と二人して笑っている。
この二人には、越えてはいけない一線など無いらしい。
今からでも曹操軍に投降しようかな、僕は思った。
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