第7話 赤壁は燃えているか

 曹操の本営では夏候惇かこうとんが出迎えてくれた。曹操の側近中の側近で、片目に眼帯を着用した強面こわもての将軍だ。


 この眼帯は、噂では目に刺さった矢を抜いたら一緒に眼球までとれちゃったから、という背筋が凍るような逸話があるのだが。

「ああ。これ実は『ものもらい』だったのですけどね」

 とか言って笑っている。元々は目の周りが腫れたのを隠すためだったらしい。


「相手をいかにしてビビらせるか、我ら武人はいつも苦労しているのです」

 彼は眼帯を上げるとイタズラっぽく、まばたきして見せた。思いの外、効果があったのでそのままにしているのだという。


「ですから、これは内緒ですよ」

 言いませんよ、そんな事。

「とってもお似合いです」

 蓮理さんに褒められて、夏候惇は照れたように頭を掻いた。


 ☆


「先日は失礼した」

 曹操は寝台に横たわったまま、片手をあげた。

「あれ以来、気分が優れなくてな。この有様なのだ」

 確かに顔色が悪く、声に力がない。

 うちの兄のせいで、こんな事に。申し訳なくて言葉もない。


「孔明どのの所へ行きたいのか。いいぞ、送ってやれ夏候惇」

「いや、それは無理でしょ。敵陣ですぞ」

 ああ、そうだった、と曹操は苦笑いした。どうやら判断力まで鈍っているらしい。親衛隊長らしい大男が、そっと目頭を押さえていた。

「…許すまじ、諸葛孔明。この許褚が必ずや仇を…」

 みたいな事を小さく呟いている。僕は聞こえない振りをした。


「陣中に病が流行しているようですが」

 余計な事かと思ったが、訊いてみた。

「ああ。引き連れて来た兵士達の殆どが船酔いなのだ。船から降ろす訳にもいかず、苦慮しているところでな」

 さらにはこの土地の風土病もあるそうだ。なるほど、大軍にはそれなりの悩みがあるものだ。


「船を揺らさないようにするだけなら、方法はありますよ」

 蓮理さんが言った。なに、と曹操は身体を起こした。

「ただ、その場合問題があって……」

その時。

「お、お待ち下さい!」

 彼女の言葉を遮るように、外で大声がした。

 なんだか、すごく慌てた様子で一人の男が飛び込んで来た。


「閣下に進言致したいことが有りますっ!」

 この男、見た事がある。確か兄の友達の一人ではなかったか、名前は忘れたけれども。…まあどうせ、ろくな奴じゃないだろう。だって、あの兄の友達だもの。


「と、ともかく人払いをっ」

 どうしても僕たちを追い出したいらしい。しっ、しっと手を振っている。

 曹操に断って、退出することにした。

「では夏候惇、陣を出るところまで送って差し上げろ」

 蓮理どのの顔を見たら、少し気分が良くなったよ、そう言って曹操は笑った。


 ☆


「あ、思い出した」

 僕の言葉に蓮理さんがこっちを見る。曹操陣営を遠く離れた船の上だった。

「さっき入って来た男ですよ。やはり兄の友達で、龐統ほうとうという人です」

 しばらく、蓮理さんは記憶を辿っていた様子だった。ああ、と呟く。

「それで、どこか見覚えがあったのですね。でも失礼な方です」

 追い出されたのがよほど気に入らないらしい。珍しく不機嫌だった。


「そういえば、何を言おうとしていたんですか。船が揺れないように、とは」

 蓮理さんは肩をすくめた。簡単なことですよ、そう言った。

「船をね、繋ぎ合わせるんです」

 太い鎖を使って全ての巨船を繋げば、揺れが減殺されるというのだ。

 僕は感心した。さすが蓮理さん。理にかなっている。

 でも、問題があるとも言っていた。


 蓮理さんは大きく頷いた。

「ええ、すごく弱くなるんです。ある事に対しては……」


 ☆


 軍を率いているのは周瑜しゅうゆという男だ。

 通称、『美周郎びしゅうろう』という。

 軍事の天才にして、容姿に秀でた青年である。さらに音楽にも造詣が深く、どんなに酔っていても演奏の間違いに気付いたというから、今で言う絶対音感の持ち主でもあったのだろう。

 彼はいま、曹操軍に送り込んだ工作員の報告を受けていた。


「そうですか。曹操は船を固定する事に同意しましたか」

 ふうーっ、と息をつく。

 これで第一段階は成功だ。


 そこで周瑜は、その男の様子がおかしいのに気付いた。

「どうしたのです、龐統どの」

 その男、龐統はしきりと汗を拭っていた。

「ええ、もう少しでこの献策の欠点を曹操に知られる所でしたので」

「どういう事です。わが策を見抜いたものが居るのですか」

 はあ。と龐統はため息をついた。


「おそるべし、孔明。奥方を使って揺さぶりを掛けるとは。これは一刻も早く消えてもらわねばなりませんね」

 曹陣営でのやり取りを知った周瑜は、ぎりっ、と歯がみした。


 ☆


「蓮理ーっ」

 みなとの突端に立ち、長江に落ちそうになるまで身体を乗り出して手を振っている男がいた。無駄に背が高いうえに、白い道衣に白羽扇。遠目でも孔明だと分かった。

「もう、孔明さまったら」

 蓮理さんは両頬を押さえ、涙ぐんでいる。

 まあ、いいけど。夫婦なんだし。


貴女あなたが孔明どのの奥さまですか。初めまして、私が美周郎こと周瑜です」

 周瑜は自分が一番格好良く見える、左45度の角度で蓮理を迎えた。ごく自然に彼女の手をとって口づけする。

「まあ、そんな事をなさってはいけません」

 さすがに蓮理さんも照れて赤くなった。見ると、孔明が服の袖を咥え、きーっ、と変な声を上げている。

 周瑜もそれに気付き、かすかに笑った。


 ☆


 周瑜の策はあと一歩のところで決め手を欠いていた。

 曹操軍の巨船を繋ぎ合わせたことで、敵襲に対する機動性を奪う事には成功した。あとはこれを一挙に葬る方法がないのだ。

「どうすればいい」

 周瑜は自問するが、容易に答えは出なかった。

 仕方ない。あの男に意見を訊こう。周瑜は孔明を訪ねた。


「わたしごときに何のご用ですか、色男の周瑜将軍ともあろう方が」

 孔明は皮肉っぽく言った。

 どうもあれ以来、蓮理の態度が上の空のような気がするのだ。


「これは、本当の事をおっしゃる。ですが今日はそんな事ではないのですよ」 

 周瑜は表情を改めた。

「あなたの考えをお聞きしたいのです」

 いかにして、曹操の大水軍を壊滅させるかを。


「わたしの気持ちですか」

 孔明は周瑜の話などろくに聞いていなかった。

「それを一言で表しても宜しいか、周瑜どの」

 語気強く周瑜に迫る。周瑜は思わず身を引いていた。お、おう、と頷く。

「で、では、私も考えていることがありますので」

 手のひらに書いて、一緒に見せ合いましょう。


 二人は、それぞれに手のひらに文字を書いた。

「では」

 差し出した手には、同じ文字が書かれていた。


「炎」と。


 何と。周瑜は驚嘆した。まさに、彼は火攻めを考えていたのだ。

「孔明どの、あなたという人は」

 全てお見通しなのか。改めて周瑜はこの男を排除しなくてはならないと思った。いずれ我がに対して大いなる災いとなるに違いなかった。


 一方の孔明は、ひとり嫉妬の『炎』に身を焼いていたのだった。

 おのれ周瑜、ちょっと顔がいいくらいで。蓮理は絶対に渡さんからな、と。


 赤壁の大戦まで、もう間近となっていた。

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