第6話 曹操、荊州を陥とす

 ある日、うちの周りが軍勢に囲まれていた。


きんくん、これはどこの軍隊なのでしょう」

 蓮理れんりさんが困り顔で僕に問いかけた。やはりお茶を出した方がいいんでしょうか、と変な事を心配している。

 その旌旗せいきには『曹』の文字。どうやらお茶は必要なさそうだ。


「これは、曹操軍です。もう、ここまで侵攻してきたんですよ」

 曹操率いる五十万ともいう大軍の前に、荊州の都、襄陽は戦わずして開城した。先日急死した劉表の後を継いだ劉琮が、最前線にいる劉備に断りも無く降伏を決めたのだ。そしてその報せも無かった。

 孤立した劉備は逃走し、彼を慕う民衆がそれに付き従っているらしい。


 僕たちは置いてけぼりをくらった、と言ってもいい。

 まあ、あんな連中に付いて行きたくもないが。


「ここは諸葛孔明どののお宅かな」

 その男は僕たちを見下ろすように言った。僕よりも

 後ろに居並ぶ武将たちの中で一人だけ鎧を身に着けていない。だが、その服装から彼が総司令官だということは明らかだ。

 鋭い目。精悍な表情だが口元に皮肉な笑みを浮かべている。

「申し遅れた。わしは曹操と申す」

 やはりそうか。でも曹操って、噂ではもっと……。


「あの、曹操さま」

 蓮理さんは何度か口ごもった後、少しだけ心配する口調で言った。

「足元が不安定ではございませんか?」


「あ、足元? そんな、儂は上げ底靴など履いておらんぞ。なあ、夏候惇かこうとん

 曹操は明らかに動揺していた。自分で上げ底って、言ってしまってるし。

 声をかけられた隣の眼帯の男は、そっと目をそむけた。

「これは、こういうくつだから。……ま、まあ、奥方がそう言われるなら」

 きまり悪そうに、曹操は普通のものに履き替えた。


「改めまして。わしが漢の丞相、曹操じゃ」

 彼は下から言った。小柄で意外と可愛かった。


 蓮理さんはすぐにひざまづいた。僕もそれにならい片膝を突く。

「このような茅屋あばらやに何のご用でしょうか」

 うむ。と曹操は頷いた。

「襄陽の街で、孔明どのの噂を聞いた。これはぜひ我が陣営へ招かねば、と思ってな。ご在宅かな?」

 彼は人材収集が趣味なのだという。

 才能さえ有れば、どんな変態でも犯罪者でも構わない、と言うのだが。


「なんと劉備に先を越されたか。無念じゃ」

 すでに劉備にさらわれて行ったと聞き、曹操は本気で悔しがっている。

 いえ、あなたは運がいいです。

 僕は曹操のために、そう思った。


「せめて著作などあれば、読ませていただきたい」

 曹操は頭を下げた。これは、とんだ物好きがいたものだと思う。

「実は、儂はひどい頭痛持ちなのだ。薬も効かないような時は、いい文章を読む事にしているのだ」

 すると、さしもの頭痛もすぐに治ってしまうのだよ。嬉しそうに曹操は言った。なるほど、よほど書物が好きなのだろう。何だか急に僕の中での好感度が上がった。


「きっと孔明どのの文章は、儂にとって良薬になるに違いないのだ」


「でも勝手に見せたりして、孔明さまに怒られないでしょうか」

「大丈夫です。自己顕示欲だけは強い男ですから」

 僕は孔明の書いたものを箱ごと渡した。

 でも読むのはやめた方がいいと思いますけど。一応、それだけは言っておいた。後々、問題になっても困るからだ。


 早速その紙束を箱から取りだそうとする曹操を、慌てて夏候惇が止めた。

「殿、そんな事より劉備を追う方が先でしょう」

「そう焦るな。やつら民衆を引き連れて逃げておるのだ。すぐに追いつけるさ」


 曹操はうれしそうに読み始めた。


 だがすぐに、頬のあたりがピクピク、と痙攣する。

「こ、これは……」

 いや、待てそんな筈はない。曹操は呻くように言った。

 もう一度最初から読み返しているようだ。

 段々と眼が血走って、顔色が青ざめてきた。息も荒くなっている。


「曹操さま……」

 心配した蓮理さんが声をかける。

「り、理解できん。これは何だ、何が書いてあるのだっ」

 ぐわっ、と一声叫ぶと曹操はのけぞって倒れた。

 気を失った曹操を乗せた馬車は、慌ただしく襄陽の方へと帰って行った。


 後で知った事だが、襄陽を逃げ出した劉備たちは、曹操軍の追撃がなぜか急に鈍くなったために、辛うじて逃げ切ることに成功したらしい。


『諸葛孔明、一文をもって曹操を昏倒たおす』とか語り伝えられそうだ。

 もう、だからやめておけと言ったのに。


 ☆


 赤壁せきへきから手紙が来た。

 差出人はもちろん孔明だった。


「孔明さまったら。淋しいから来てくれ、だそうです」

 それを読み終え、満面の笑顔で蓮理さんが言った。僕も読ませて貰ったが、どうやら、誤解の余地はないようだ。

 なんだ、まともな文章も書けるんじゃないか。僕は兄を少し見直した。

 いま、劉備はの孫権と同盟を結び、曹操を迎え撃つために長江沿岸の赤壁という場所に軍を集結させているのだという。


「では、どうします。行きますか?」

「はい」

 蓮理さんは肯いた。

 後のことは蓮理さんの実家に任せ、僕たちは二人で旅立つことにした。


 でも。赤壁って、どこだ。


 ☆


 取りあえず長江沿いに下っていたら、やはり曹操軍に捕らえられてしまった。

 僕たちは、本営に連行された。


 そこはまるで、長江に浮かぶ大要塞だった。規則正しく並べた巨大な軍船。その間を、連絡用の軽舟が行き交う。

「あの人たちは何て言っているのでしょうね」

 巨船の上から聞こえるのは、ほとんど華北の言葉だった。蓮理さんには耳なじみが無いのだろう。僕も幼少期以来なので、聞き取れない部分があるくらいだ。

 それでも、またあの病気だ、とか、気をしっかり持て、という言葉が聞こえた。

 

 曹操の陣営では、原因不明の流行病が蔓延していたのだった。



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