第6話 曹操、荊州を陥とす
ある日、うちの周りが軍勢に囲まれていた。
「
その
「これは、曹操軍です。もう、ここまで侵攻してきたんですよ」
曹操率いる五十万ともいう大軍の前に、荊州の都、襄陽は戦わずして開城した。先日急死した劉表の後を継いだ劉琮が、最前線にいる劉備に断りも無く降伏を決めたのだ。そしてその報せも無かった。
孤立した劉備は逃走し、彼を慕う民衆がそれに付き従っているらしい。
僕たちは置いてけぼりをくらった、と言ってもいい。
まあ、あんな連中に付いて行きたくもないが。
「ここは諸葛孔明どののお宅かな」
その男は僕たちを見下ろすように言った。僕よりも頭一つ高い。
後ろに居並ぶ武将たちの中で一人だけ鎧を身に着けていない。だが、その服装から彼が総司令官だということは明らかだ。
鋭い目。精悍な表情だが口元に皮肉な笑みを浮かべている。
「申し遅れた。
やはりそうか。でも曹操って、噂ではもっと……。
「あの、曹操さま」
蓮理さんは何度か口ごもった後、少しだけ心配する口調で言った。
「足元が不安定ではございませんか?」
「あ、足元? そんな、儂は上げ底靴など履いておらんぞ。なあ、
曹操は明らかに動揺していた。自分で上げ底って、言ってしまってるし。
声をかけられた隣の眼帯の男は、そっと目をそむけた。
「これは、こういう
きまり悪そうに、曹操は普通のものに履き替えた。
「改めまして。
彼は下から言った。小柄で意外と可愛かった。
蓮理さんはすぐに
「このような
うむ。と曹操は頷いた。
「襄陽の街で、孔明どのの噂を聞いた。これはぜひ我が陣営へ招かねば、と思ってな。ご在宅かな?」
彼は人材収集が趣味なのだという。
才能さえ有れば、どんな変態でも犯罪者でも構わない、と言うのだが。
「なんと劉備に先を越されたか。無念じゃ」
すでに劉備に
いえ、あなたは運がいいです。
僕は曹操のために、そう思った。
「せめて著作などあれば、読ませていただきたい」
曹操は頭を下げた。これは、とんだ物好きがいたものだと思う。
「実は、儂はひどい頭痛持ちなのだ。薬も効かないような時は、いい文章を読む事にしているのだ」
すると、さしもの頭痛もすぐに治ってしまうのだよ。嬉しそうに曹操は言った。なるほど、よほど書物が好きなのだろう。何だか急に僕の中での好感度が上がった。
「きっと孔明どのの文章は、儂にとって良薬になるに違いないのだ」
「でも勝手に見せたりして、孔明さまに怒られないでしょうか」
「大丈夫です。自己顕示欲だけは強い男ですから」
僕は孔明の書いたものを箱ごと渡した。
でも読むのはやめた方がいいと思いますけど。一応、それだけは言っておいた。後々、問題になっても困るからだ。
早速その紙束を箱から取りだそうとする曹操を、慌てて夏候惇が止めた。
「殿、そんな事より劉備を追う方が先でしょう」
「そう焦るな。やつら民衆を引き連れて逃げておるのだ。すぐに追いつけるさ」
曹操はうれしそうに読み始めた。
だがすぐに、頬のあたりがピクピク、と痙攣する。
「こ、これは……」
いや、待てそんな筈はない。曹操は呻くように言った。
もう一度最初から読み返しているようだ。
段々と眼が血走って、顔色が青ざめてきた。息も荒くなっている。
「曹操さま……」
心配した蓮理さんが声をかける。
「り、理解できん。これは何だ、何が書いてあるのだっ」
ぐわっ、と一声叫ぶと曹操はのけぞって倒れた。
気を失った曹操を乗せた馬車は、慌ただしく襄陽の方へと帰って行った。
後で知った事だが、襄陽を逃げ出した劉備たちは、曹操軍の追撃がなぜか急に鈍くなったために、辛うじて逃げ切ることに成功したらしい。
『諸葛孔明、一文をもって曹操を
もう、だからやめておけと言ったのに。
☆
差出人はもちろん孔明だった。
「孔明さまったら。淋しいから来てくれ、だそうです」
それを読み終え、満面の笑顔で蓮理さんが言った。僕も読ませて貰ったが、どうやら、誤解の余地はないようだ。
なんだ、まともな文章も書けるんじゃないか。僕は兄を少し見直した。
いま、劉備は
「では、どうします。行きますか?」
「はい」
蓮理さんは肯いた。
後のことは蓮理さんの実家に任せ、僕たちは二人で旅立つことにした。
でも。赤壁って、どこだ。
☆
取りあえず長江沿いに下っていたら、やはり曹操軍に捕らえられてしまった。
僕たちは、本営に連行された。
そこはまるで、長江に浮かぶ大要塞だった。規則正しく並べた巨大な軍船。その間を、連絡用の軽舟が行き交う。
「あの人たちは何て言っているのでしょうね」
巨船の上から聞こえるのは、ほとんど華北の言葉だった。蓮理さんには耳なじみが無いのだろう。僕も幼少期以来なので、聞き取れない部分があるくらいだ。
それでも、またあの病気だ、とか、気をしっかり持て、という言葉が聞こえた。
曹操の陣営では、原因不明の流行病が蔓延していたのだった。
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