第2話 三顧の、無礼?

「あの、蓮理れんりさん。お茶をどうぞ」


 僕はお茶とは名ばかりの、薄く色付いただけの白湯を彼女の前に差し出した。本当のお茶はすごく高価なので、我が家ではこんなお茶もどきしか出す事ができないのだ。彼女はぺこりと、お辞儀をしてそれを口にした。


「おいしいです。ここは水が良いんですね」

 彼女はにっこり笑った。


(うわー、なんていい人なんだ……)

 僕は思わず涙ぐんだ。いったいあの黄承彦こうしょうげんという人は、兄に何の弱みがあって、こんないい女性を嫁がせようとしてるのだろう。


「ところで、蓮理どの」

 全く感動した様子もなく、孔明は声を掛けた。

「これを読んでみてくれないだろうか」

 差し出したのは、ゴミ、……いや小説もどきの文を書き散らした紙だった。


 分かった。踏み絵のつもりなのだろう。自分を理解してくれるかどうか。


「これは……?」

 怪訝そうにそれを読み始めた蓮理さん。

 読み進めていくうちに、彼女の顔が紅潮してきた。ぶるぶると身体が震えているのが分かる。そしてついに、その大きな瞳から泪がこぼれ落ちた。

 おい、兄。いったい何を読ませた。


「すみません。わたし、このようなものを戴くのが初めてで……」

 そうだろう。お目汚しもいいところだ。

 バカ兄に代わって謝りたい。そう思った時。

「こんな、素敵な恋文なんて」


 はあ?

 僕と兄、孔明は顔を見合わせた。

 いや、絶対にそんな内容じゃないはずだ。

「国際情勢を述べたつもりなのだが……」

 孔明は小さく言った。


 蓮理さんはその紙片を胸に抱きしめている。

「ここに来て、本当に良かったです。宝物にします」

「あ、お、おう。そうか、わ、わたしの気持ちだ。分かって貰えてよかった」

 ははは、と慌ててその場を繕う孔明だった。

 これが、単に彼女に読解力がないのか、それとも兄の文章が、何とでもとれる意味不明なものだからなのか、僕には分からなかった。


「ところで、なぜこんな事になったのですか」

 こんな、兄なんかの所に嫁入りなど。

「それはお前、わたしの文才に惚れ込んだ黄さんがな…」

「僕は真面目に訊いてるんです!」

 孔明はしゅん、となった。


「それが本当にそうらしいんです。私も昨日、父からそんな話をされました。それで今朝、家財道具と一緒に荷車に押し込められて、ここに」


 そんな、あっけらかんと笑っていられる状況ではないと思うのだが。

「でも、私もたったいま、その理由が分かりました」

 蓮理さんは、ぎゅ、と『恋文』を抱きしめる。


 誤解を解くべきか、僕が迷っているうちに日が暮れてきた。

 夕食の準備をしなければ。

 今日からは三人分も。だけど、嬉しくないといえば嘘になるだろう。

 僕は、いそいそと厨房へ立った。


 ☆


 何日かして、やっと気付いたことがある。

 ここ荊州けいしゅうの支配者、劉表りゅうひょうは、黄承彦の義理の兄弟ということだ。奥さんが姉妹どうしなのである。と云うことは、つまり。

 荊州牧の劉表と親戚になったのだ。一夜にして。


「これで、仕官先が決まればいいんですけどね」

「ばかだな、均は。そんな他人の威光を借りるようなわたしではないぞ」

 孔明は胸を張っていたが、確かに相変わらずどこからもそういった話は来なかった。

 僕は、まだ世の中にはまともな人が多いのだな、と、少し安心した。


「それより不思議なのは…」

 孔明が言った。

「蓮理は、それを外さないのか。その、メガネとか云う道具を」

 確か寝ている間もつけていたような気がするのだが。

 彼女は慌ててそれを押さえた。


 いや、べつに外せとは言ってないのだけれど。


「これを取るのは、そのぅ、裸を見られるより恥ずかしい気がします……」

 真っ赤になっている。女子とは、そういうものなのか?

「でも、孔明さまがそうおっしゃるなら」

 ちらり、と僕を見た。

「ああ、すみません。僕は席を外しますね」

 残念だけど。


「いえ。均くんにも見て貰っておいた方がいいと思います。こういう事は一度に終わらせてしまった方がいいですから」

 なんだか、とんでもない事をさせようとしている気持ちになった。

「あの、義姉さん。嫌なら無理にしなくても……」

「いいんです!」

 決然と蓮理さんは顔をあげ、そしてメガネのフレームに両手を添えた。


 西域を通じて伝わった異国の伝説に、その女神の顔を見たものは石になる、というものがあったのを僕は思い出した。

 僕たちは、言葉を失い固まっていた。


 蓮理さんは、そっとメガネを掛け直した。

「お分かり、いただけましたか」

 孔明と僕は、がくがくと頷いた。


 視力が悪い蓮理さんは、メガネを外すと結構、凶悪な顔になるのだった。

 どうもこれが、彼女がブサイクと呼ばれた所以のようだった。


 ☆

 

 そんなある日、我が家に来客があった。

「ここは孔明どののお宅か」

 いかにも悪そうな顔つきの三人組だった。あの兄、絶対に襄陽で借金を作ったに違いない。

「孔明は兄ですが、金ならありませんよ」


 その中の兄貴格なのだろう、耳の大きな男が進み出て腰をかがめた。


 柔和な表情ではあるが、最初は物腰を柔らかくしておいて、突然豹変して脅しつけるつもりだろう。ヤクザの常套手段だ。


「いや、私は借金取りなどではありません。劉表どののところで世話になっている劉備、字は玄徳という、つまらない男です」

 

「その、つまらない方が、何のご用ですか」

 何だと、貴様! 後ろで控える丸顔のネコヒゲ男が怒鳴った。

 しまった、失言だった。

 それをもう一人の、赤ら顔で長いひげを持った男がなだめている。


「すみません、兄はいま外出中で……」

「嘘をつけ。隠すと、為にならんぞっ!」

 ネコヒゲ男がまた吼えた。やはりこいつら、ヤクザに違いない。

 困った。どうやって追い払えばいいんだろう。


「あの、均くん。私のメガネ知りませんか?」

 そこへ蓮理さんが顔を出した。

 三人が、一斉に後ずさった。

 不思議そうに、蓮理さんはその男達を見た。いや、多分見えていないのだろうけれど。

「なに、お客さまですか?」

 すごく優しい声だった、のだが。


「で、出直してまいりますっ!」

 劉備一行は、逃げるように去って行った。


「あの、私のメガネは……」

 蓮理さんは呟いた。

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