孔明はうちの兄ですが、何かご用ですか。

杉浦ヒナタ

第1話 襄陽の郊外ではじまる物語

 その男は部屋の壁にもたれ、口を半分開けて居眠りしていた。


 仙人が着るような白い道服。いつも持っている白羽扇びゃくうせんも、今にも手から落下しそうだ。

「そんなに羽化登仙うかとうせんしたいなら、すぐにでもさせてやるのに」

 僕は思わず呟いた。ただその場合、行き先が仙界になるとは限らないが。


 僕の名前は諸葛均しょかつきん

 ここ荊州けいしゅうの都、襄陽じょうようの外れの小さな村で育ち、近所の子供を集めて塾の教師のような事をしながら家計を支えている。


 一方、ここで寝穢いぎたなく鼻提灯を膨らませているのは僕の兄、孔明だ。働きもせず、日がな一日小説を書いている。

 そうして毎夜『こんな文章しか書けない、わたしはダメな奴だー』とか叫びながら泣いているのだ。もう鬱陶しくて仕方ない。

 ただ、無駄に達筆なのにひかれ、一度読ませてもらった事がある。


 もう、ため息しか出なかった。

 そうなのだ。僕は、家事がいっぱいあって、暇じゃなかったんだ。

 それでも、もしやと思い三度も読み返したのだが、書いてある意味すら、まったく分からなかった。これ、何が言いたいのだ。そもそもこれは文章なのか。


 なのに、襄陽の街では結構評判になっているらしい。

 恐ろしいことだ。もう、この国も滅亡が近いのではないだろうか。通ってくる子供達まで、兄の文章を習いたいとか言っている。

 絶対止めておけ、あんなものはゴミだ! 僕は声を大にして言った。


 そうしたら、翌日から生徒の数が半分に減った。


 我が家の困窮度合いは一層ひどいものになった。


「なあ、均。ご飯これだけ?」

 情けない声で孔明は言った。まったく無駄に身長が高いだけあってよく食べるのだ、この男は。

 さらには無駄に顔がいいし、無駄に声がいい。

 これで働いてさえくれれば……。


 ☆


 ある日、畑から帰ると家の前にえらく立派な荷車が何台も止まっていた。大勢の男が荷物を家に運び込んでいる。

 あわてて中へ駆け込むと、狭い家のなかに家財道具が山ほど詰め込まれていた。

「なんですか、あなた達は」

 声を掛けるが、誰も答えてくれない。


 兄の孔明も部屋の隅に押しやられ、呆然としている。

「なあ、均よ。これ、なんだろう」

 そんなの、僕が知るわけがない。


 やがて全ての荷物を搬入し終えたのか、男たちは去っていった。


「あ、あのぉ」

 その声に僕は振り返った。


 ひとりの女性が、玄関さきに立っていた。

 ほっそりとして、僕より少し長身だろう。まあ、兄ほどではないが。

 明るい褐色の髪を後ろで三つ編みにして、猫のしっぽのように背中まで垂らしている。ただ異様なのは、目の前に、透明で丸い、玻璃ガラスのようなものを着けている事だ。これは後の世で言えば、メガネであるが、僕たちが知る由もない。

 

「孔明さまは、どちらでしょう」

 きれいな声で、彼女は言った。


 僕は黙って、兄を見た。もう一度彼女を振り返る。

「すみません。あなたは一体……」


「はい。私は黄承彦こうしょうげんの娘、蓮理れんりと申します」

 彼女は頭を下げた。

「孔明さまの妻になるために、参りました」


 僕は、その場に座り込んだ。

 噂には聞いていた。洛陽の太学を主席で卒業したとか、天才的な発明家だとか。

 ただ、その容貌については……。


「すみません。こんな、史上最悪のブスで」

 申し訳なさそうに彼女は言った。

 だが図らずも、僕と兄の孔明は同じ台詞を呟いていた。


「……いえ。すごく可愛いと思います」

 誰だ、ブサイクなんて噂を流したのは。


 蓮理さんは困ったように俯いた。


 こうして、僕たちの新しい生活が始まったのだった。

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