水底の墓所

夕陽と夜闇が混在する宵の空を、ナナは独りで漂っていた。独りだが、寂しくはない。

 新しい妹ができた嬉しさ。他島の翼猫たちと踊った楽しい気持ち。

 心がほんわりするような出来事がたくさんあって、ナナの心臓は早鐘を打っていた。嬉しくて、頬が熱を持つ。興奮する体を抱きしめ、ナナはアカギを取り囲む砂浜へと降りていく。

 砂浜では、飼い猫たちが長く伸びて寝息をたてていた。猫たちを起こさないように、ナナは静かに砂浜を歩んでいく。

 興奮に火照る体を沈めたくて、ナナは漣をたてる海へと歩んでいく。ふと、砂浜に何かが転がっていることに気がつき、ナナは歩みをとめた。

 血の香りが、ほんのりと鼻腔に広がる。ぞわりと猫耳の毛を逆立て、ナナはそれに走り寄っていた。

 波に弄ばれながら、それは海と砂浜のあいだを転がっている。転がり続けるそれを見て、ナナは眼を見開いていた。

 それは、白い猫耳がついた翼猫の頭だった。かっと眼を見開き、波に弄ばれる頭部はナナを見つめている。ナナは急いで駆け寄り、頭を拾い上げる。頭を胸にぎゅっと抱き寄せる。

「にゃぁ……」

 ごめんさないと、ナナは鳴いていた。この頭の持ち主は、ナナがネフィリムから救えなかった、翼猫のものだ。

 楽しい気持が吹き飛んで、ナナの中に悲しみが芽生える。彼女を救えなかった悔しさを思い出して、ナナは地面に両膝をついていた。

 ほろほろと眼から涙が滴る。その涙を拭って、ナナは頭の双眼をそっと手で閉ざした。

 眼を瞑った彼女は、安らかに眠っているように見える。少しだけ安心して、ナナは頭を砂浜に横たえた。

 しゅるりと、衣擦れの音がする。

 赤い振袖を脱ぎ捨て、ナナは裸体を晒す。かすかな夕光が、ナナの白い体を黄色く照らした。

 ナナはしゃがみ込み、頭部を優しく抱き寄せた。立ち上がると、ナナは海へと入っていった。

 ぴゃしゃりと、水が跳ねる。

 蝙蝠が持っているような翼を大きく広げ、ナナは海中へと沈んでいく。



 

 かすかな夕光が、海の中を寂しく照らしていた。海底を彩る極彩色の珊瑚も、色鮮やかな魚たちも、夜闇に飲まれ色彩を失っている。

 翼を広げ、ナナは闇が広がる海底へと落ちていく。そんなナナの周囲を、優美に泳ぐ女たちがいた。

 鱗とヒレが生えた足を巧みに動かし、女たちはナナを護るように泳ぐ。海に棲む魔女たちだ。彼女たちは、翼猫たちの墓所の番人だ。海藻のように長い髪を揺らめかせ、彼女たちはナナに微笑みかける。ついておいでと、鰭のついた手を動かす。

 ナナは翼を翻し、魔女たちの後をついていく。ゆらゆらと動く彼女たちの脚を見失わないよう、じっと眼を凝らす。

 珊瑚礁の森を抜け、巨大な海藻の森を進む。海藻は次第に小さくなっていき、最後には色とりどりの海藻が、砂の平原に点在する場所までやってくる。

 白い砂に覆われ、無数の船の残骸があちらこちらに点在していた。中には、撃墜されたと思われる戦闘機の姿もある。

 ニンゲンとパパたちの戦いを物語る、船の墓場だ。沈没船が鎮座する平原は延々と続き、その果にセフィロトの巨大な幹が聳え立つ。

 セフィロトと平原の間には、深い谷が穿たれていた。谷はセフィロトを囲むように円形に大地を抉っている。その谷の中へと魔女たちは消えていく。

 ナナは谷の淵で留まる。そっと谷を覗いてみると、果てしない闇色がどこまでも続いていた。

 谷は深く、底を窺うことはできない。

 そっとナナは、抱きしめていた頭を眼前に持ってきた。死の瞬間、苦悶の表情を浮かべていた彼女は、安らかに眠っているように見える。

 少しだけ安心して、ナナは気泡を吐いていた。銀色の気泡は形を変えながら、黄昏に染まる海面へと上がっていく。ナナは、上昇する気泡を眼で追いかける。ゆらめく海面は暗く、まるで夜空のようにナナの頭上を覆っていた。

 太陽の光を奪いながら、夜の闇は確実に迫っている。暗い海面を見上げていると、その闇に呑み込まれてしまいそうな錯覚を抱いてしまう。

 ぎゅっと冷たい悲しみがナナの心を覆う。ナナは耐え切れなくなって海面から視線を逸らしていた。代わりに、谷の闇を見下ろす。

 この谷の底が、ナナたち翼猫たちの墓所だ。谷を護る魔女たち以外、この谷底にいくことは禁じられている。この谷底にはセフィロトの根を鳴らす鐘撞が設置されている。翼猫たちがここに葬られるたびに、谷を護る魔女たちは鐘楼でセフィロトの根を鳴らし、翼猫の死を悼む。

 何度、ナナはこの谷の淵にやって来ただろうか。姉妹や仲間が死ぬたびに、ナナはこの谷を訪れ、彼女たちを葬ってきた。ナナは谷底に沈んでいった姉妹たちを思い出す。辛くなって、涙が眼から溢れ出る。

 ナナの涙は海水に溶けて消えてしまう。瞬く間に奪われていった、姉妹たちのように。

 周囲を見ると仲間の遺骸を持った翼猫たちが、何匹も降りてくるのが見えた。

 体からもぎ取られた手、歪に曲がった両足。潰されて、厚さの薄くなった胴体。

 バラバラになった死体の一部を大切に抱えながら、翼猫たちは谷の淵にやってくる。

 形が綺麗に残っているのはまだいい。皮膚が捲れ上がり、内蔵が熟れた果実のように飛び出した胴体をナナは葬ったことがある。

 最後までナナと一緒に生き残っていた、姉であるヤエの遺体だった。ナナを庇いヤエは死んだ。ネフィリムの触手によって、体をバラバラにされたのだ。

 恐怖に見開かれ、泣き叫んでいた姉の姿が忘れられない。その姿を思い出すたび、ナナは深い悲しみに取り憑かれる。

 ――世界は、終わりを迎えようとしている。

 魔女たちがそう、教えてくれた。外の世界では大きな戦争があったらしい。その影響で、地球環境が汚染され、ニンゲンは住処を失った。残された安息の地であるアトランティスを手に入れんと、ニンゲンたちはナナたちを襲う。このアトランティス以外に、ニンゲンが安心して暮らしていける場所はもうないのだ。

 どうして、ニンゲンの勝手でナナたちは殺されなければならないのだろう。ナナはあとどれだけこの谷へやってくればいいのだろうか。

 涙を拭い、ナナは胸元に抱いた頭を見つめる。眼を瞑ったナナの仲間。死の恐怖から解放され、彼女は安らかに眠っているようにみえる。ナナは、彼女の顔を自分の顔前へと持ってきた。

 ――さようなら。

 微笑みを浮かべ、彼女に別れを告げる。ナナが手を放すと、頭部は谷へと落ちていった。

 ゆらゆらと、霧のように白髪を動かしながら、頭は谷底へと消えていく。

 もう2度と、彼女がこの谷から戻ってくることはない。

 堪えていた悲しみが溢れ出して、ナナは砂地に膝をついていた。涙が、あとからあとから沸きあがってくる。その涙をとめたくて、ナナは両手で顔を覆っていた。

 そんなナナの肩を、叩く者がいた。

 驚いて、ナナは顔をあげる。三毛柄の猫耳を持った翼猫が、大きな眼を優しくナナに向けていた。彼女の後ろには、何匹もの翼猫たちがいる。

 夕方まで、ナナと一緒に踊ってくれた他島の猫たちだ。

 立ち上がり、ナナは三毛柄の翼猫に振り向いていた。彼女は小さな唇に笑みを浮かべ、ナナに手を差し伸べてくれる。

 ナナは眼を拭い、彼女に微笑んでみせた。彼女の手を掴み、共に海面へとあがっていく。

 翼をはためかせると、かすかにセフィロトのゆれる音が聴こえた。

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