神樹セフィロト

 世界は、終わりを迎えようとしているらしい。

 背中についた蝙蝠の翼をはためかせ、ナナは魔女たちの言葉を思い出す。ナナの翼からは海水が滴り落ち、海面に無数の波紋を生み出した。波打つ海面に眼をやると、自分の顔がくっきりと浮かび上がっている。

 黒い猫耳を生やした頭部は、好きな方向に向いている癖毛で覆われている。髪は濡れて、海藻みたくナナの柔らかな頬に張りついていた。アーモンド型の蒼い眼が、そっくりナナを見返してくる。

 ナナの細い裸体は海面に映され、波によってゆれていた。波の動きに合わせ、ナナは体を横にゆらしてみせる。

 次に、頭を振るい、まとわりついた海水を落としにかかる。頭から生まれた飛沫が口の中に入り込んで、塩辛い味がした。

「にゃう」

 呻いて、顔をあげる。

 朝陽に大海原が煌めいている光景がナナの視界に映りこんだ。その煌きの中心には、巨大な樹が聳えている。放射状にのびる大樹の枝は朝空を覆い、褐色の幹はその身を深く海に沈めている。

 神樹セフィロトだ。

 セフィロトは、地球の生命力が具現化した姿だと言う。あの樹は地球の命そのものであり、枯れてしまうと地球の生命は滅んでしまうそうだ。

 セフィロトを守るのが、魔女の子たる、ナナたち翼猫の仕事だ。セフィロトの 周囲には円形状に12の小島が浮いており、セフィロトがあるアトランティスを取り囲む結界を形作っている。その結界島と呼ばれる島の1つに、ナナは暮らしていた。

 結界島はセフィロトを外界から守る大切な聖域だ。ここが破られれば、外の連中が大挙してこのアトランティスにやって来る。外に住む愚かなニンゲン達は、セフィロトを殺しにかかるだろう。それが、地球の生命を殺すことになるとは知らず。

 ナナは眼を鋭く細める。セフィロトの周囲を、他島の翼猫たちが飛んでいた。数日前より、少し数が減っている。ナナの胸が苦しさを帯びる。共に戦ってきた仲間たち。ニンゲンが攻めてくるたびにナナの仲間は死んでいく。

 ナナは眼をそっと伏せ、両指を絡めた。眼を瞑り、死んだ仲間たちに黙祷を捧げる。開けられたナナの眼は、涙に滲んでいた。

 ナナが結界島で生まれずいぶんと経つが、仲間の数はだいぶ減った。ニンゲンが来るたびに、仲間の翼猫は死んでいき、悲しみの種がナナの心に芽生えていく。

 その悲しみを忘れないために、ナナは亡くなった仲間に祈りを捧げる。

 ナナはセフィロトを見上げる。空を飛ぶ翼猫の少女たちも、ナナのように指を組み黙祷を捧げているらしかった。朝陽が空の翼猫たちを優しく照らしている。

風が、吹いた。

 涼やかな歌声が、朝陽とともに海原に広がっていく。1つだった歌声は、やがて輪唱となり、輪舞曲を形作っていく。

 翼猫の死を悼む、鎮魂の歌。その歌声を響かせながら、セフィロトの枝から飛び立つ人影が、複数あった。

 それは、腕に鷲の翼を持った女たちだった。彼女たちの体は褐色の羽毛を纏い、その手足には鋭い鍵爪がついている。

 だが、顔の造りは人間の女そのものだ。彼女たちは慈愛に満ちた眼差しを翼猫に送っている。歌声を響かせながら、鷲女たちは翼猫たちとダンスを始めた。

 セフィロトを守る、魔女たちだ。

 12世紀に起こった魔女狩りによって迫害を受けた魔女たちは、セフィロトを伴い、このバミューダ海域にやって来た。その昔、この海域には素晴らしい文明を誇った大陸があったという。プラトンという哲学者が残したティマイオスとクリティアスという文献によると、その大陸の名はアトランティスと言うらしい。

魔女たちの中には哲学に通じている者もいた。その魔女が、ナナたちが住むこの場所にアトランティスという名をつけたのだ。

 この場所が、楽園になるよう祈りを込めて。

 航海技術が発達していない中世のヨーロッパでは、魔女たちが創ったアトランティスは、巨大な大陸だと思われていた。実際には、海に聳えるセフィロトと、それを取り囲む幾つかの島があるだけだ。

 ゆらぁん、ゆらぁん。

 涼やかな音色が、セフィロトから奏でられる。

 海底に設置された鐘撞がセフィロトの根を叩き、幹を大きく振動させているのだ。セフィロトの震音は魔女たちの輪舞曲と重なり、悲しい哀歌を周囲にふりまく。

 不意に風が止む。

 ナナは驚きに猫耳を立ち上げていた。魔女たちの輪舞曲が聴こえない。魔女たちは踊るのをやめ、怯えるように頭上に輝く太陽を眺めていた。

 翼猫たちが、魔女たちを庇うように上空へと飛翔していく。

 ――奴らが、くる。

 ぶわりと、ナナは猫耳の毛を膨らませていた。翼を大きくはためかせ、ナナは朝空へと飛翔する。

 それと同時に、耳をつんざくような轟音が、上空から降ってきた。


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