叫び

 病室の戸を見すえ、冬美はため息をついていた。

 戸を見上げる。面会謝絶の札はかかっていなかった。

 寿恵に頼みハルを説得してもらったのだ。ハルはあっさりと、自分と会うことを承諾してくれた。大丈夫だと、冬美に知らせようとするかのように。

 冬美は手に下げていたビニール袋を両手で抱える。

「どうして、いつもそうなのよ……」

 胸に痛みを覚える。それに堪えるようとビニール袋を抱き寄せていた。

 ハルはいつも笑っている。そんなハルが冬美は嫌いだった。

 見ているこちらが辛くなるような笑みを、ハルがときおり浮かべてくるからだ。

 それでも彼は、自分の気持ちを話してくれようとはしない。

 悔しさに眼を歪め、冬美はビニール袋の中身を見る。

 透明な袋には、小さな鉢植えが入っていた。昨日、花屋で見かけて購入したものだ。

 鉢植えには黄色い蕾をつけた福寿草が植えられている。

 2人で福寿草を見にいった林に行くことはできない。

 だから、せめてもの慰めにと冬美は福寿草の鉢植えをハルのために買ったのだ。

 自分がハルにできることはそのぐらいしかない。彼にとって、冬美はただの幼馴染だ。

 でも、冬美にとってハルは――

「どうしてボクばっかり!!」

 冬美は回想をやめ、我に返る。

 戸の向こうからハルの悲鳴が聞こえてきた。それとともに、大きな物音がする。

 何かが、倒れるような。例えば、ハルがベッドから落ちたような。

 冬美は息を飲む。

 戸口に耳をあてると、かすかなうめき声が室内から響いていた。

「ハルっ」

 夢中になって冬美は戸を開けていた。目の前に広がる光景に言葉を失う。

 ハルが床に倒れていた。

 彼は仰向けの状態で唖然と天井を見つめている。

 細い体に突き刺さっていたチューブは無残にも引き抜かれ、床に散らばっていた。

 何が起きたか分かっていないのだろう。ハルはぱくぱくと口を動かしながら、両手の指先を痙攣させている。指先の痙攣は彼が手を動かそうとしている証拠だった。

 抱きしめていた鉢植えを冬美は落としてしまう。

 床に叩きつけられた鉢植えは音をたてて砕けた。冬美は急いで鉢植えを見下ろす。

 鉢植えは粉々に砕けていた。飛び出した土から、福寿草の蕾が痛々しく頭を覗かせている。

「あっ」

 思わず、声をあげてしまう。しゃがみ込み、土に塗れた福寿草に手を伸ばす。

「何それ、慰めのつもり?」

 嘲るようなハルの言葉が耳に届く。冬美は手をとめ、彼に視線を向けた。

 ハルは首をこちらに向け、嘲笑を浮かべていた。

「もう、福寿草を見つけに行くこともできない僕のために、わざわざ買ってきてくれたんでしょ? とんだ慈愛だね。僕を慰めるのってそんなに楽しい?」

 彼はなじるように言葉を重ねる。

 ハルの言葉にショックを受け、冬美は瞳を歪めていた。

「何、その目?」

「違う……」

 声が震えてしまう。それでも冬美は立ち上がり、真摯な声で彼に告げた。

「私は、そんなつもりであなたの側にいるんじゃない…… 約束したよね。一緒に、福寿草を見に行こうって」

 たしかにハルの慰めになればいいと、福寿草を持ってきたことは事実だ。

 だが、それは彼を憐れだと思っての行為ではない。

 絵が描けなくなるかもしれない現実と向き合って欲しい。諦めないで絵を描き続けて欲しい。その願いを込めて、冬美はこの福寿草をハルに託そうとしたのだ。

 涙が溢れてきてしまいそうになる。それでも冬美は、上擦った声で言葉を続けた。

「私はそんな風にハルを見たことなんてない…… ハルはいつも一生懸命で、辛いのに笑ってて。でも、ちゃんと前を向いていて …… 私は、あなたのことがっ」

「それがウザいって言ってるんだよ!!」

 ハルの怒号が言葉を遮る。冬美はびくりと肩を震わせ、口を閉ざした。

 ほら見ろと言わんばかりに、ハルは眇めた眼を冬美に向けてくる。

「僕が一生懸命…… 辛いのに笑ってる? ずっと動き回ってて、学校にも行ってる冬美に何が分かるんだよ? 君はこれから社会に出ていける。色んなことができるようになる。でも、僕はどんどん何もできなくなって、最後は動かなくなった体の中に閉じ込められるんだ。絵も描けなくなって。何もできないのに延命処置で延々と生かされて、最後はみんなに忘れられて死んでいくんだよ。君だって、どうせ僕の側を離れていくんだろ?」

「私は、そんなことっ――」

「誰も、母さんのことを覚えてなかった!!」

 ハルが叫ぶ。

 彼の怒声に冬美は言葉を遮られる。ハルは冬美を睨みつけてきた。

「冬美だって知ってるだろう? 僕の母さんが筋ジストロフィーの画家として世間で持ち上げられてたの。テレビ局のお偉いさんが笑いながら教えてくれたんだ。

そういえば、昔君と似たような子がいたなって。すっかり忘れてたって。あの子の息子なら、君がこんな目に合ってるもの当たり前だねって。

その人何て言ったと思う? きっといい視聴率がとれる、君の母さんの特集を組もうだよ……。世間はさ、僕も母さんのこともただの見世物としか思ってなかったんだ。僕らが描いた絵なんてどうでも良いんだよ……」

 ハルは体を震わせながら泣いていた。

 彼の泣き声が耳朶に響く。彼が以前話していたことを冬美は思い返していた。

 誰も母さんのことを覚えていない。だから、僕が有名になって母さんの絵を世間に認めさせてやるんだと。

 あのときのハルの眼を冬美は忘れることができない。

 彼は淡々と語りながら、自分の絵を睨みつけていた。誰かに憎しみをぶつけるように。

 冬美は唇を噛み締めていた。

 ハルの気持ちは痛いほど分かる。彼の描いている絵がそれを教えてくれる。

「私は、そんなことしない」

 だからこそ、ハルに言葉を投げかける。彼に気持ちを伝えるために。

 冬美はハルを見すえた。彼は怯えるように眼を見開き、冬美を見つめ返してくる。

 冬美は眼を綻ばせ、ハルに告げた。

「ずっと、あなたの側にいたいの……」

 声が上擦ってしまう。涙が溢れてきて、冬美の視界を歪めた。

 その歪んだ視界の中で、ハルが辛そうに眼を細める。

「嫌だ、そんなの……」

「ハル?」

「君の、そういところが嫌だって言ってるんだ!!」

 ハルが叫ぶ。

「嫌だ、もう嫌だこんなの!! もう、君の顔なんて見たくない! もう、来ないで! 僕を苦しめないで!!」

 鬱積していた気持ちを爆殺させるように、彼は言葉を吐き出していく。

 冬美はそんなハルを見つめることしかできなかった。こんなに取り乱している彼を見るのは、初めてだ。

「冬美なんて大っ嫌いだ!!」

 ハルの言葉が、胸に突き刺さる。

 考えが纏まらない。ただ、これだけは分かった。

 ハルは自分のせいで苦しんでいる。自分の存在がハルを追いつめていたのだ。

 彼に辛い笑顔を強いていたのは、他でもない冬美自身。

 彼は笑いながら、動ける冬美のことを羨ましがっていた。

 冬美の優しさを重荷に感じていた。それが彼を追い詰める原因となった。

「ごめん…… なさい」

 震える唇が言葉を紡いでいた。ハルの叫びがぴたりとやむ。

 彼は眼を見開き冬美を見てくる。剣呑と煌く彼の眼が恐くなって、冬美は後退りしていた。

「冬美……」

 ハルの声が耳元に突き刺さる。

「冬美っ!」

 ハルが叫ぶ。

 その声を振り切るように、冬美は駆け出していた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る