希望の子

 数日間、ハルと会っていない。

 病院に行けば、毎日のように面会謝絶の札が病室の戸にかけられているのだ。

「別に、そんな大したことじゃないんですよ。ただ、お医者様がね、1人にしてあげたほうがいいって、そう言うんです……。ハルもそれで納得しているみたいで……」

 眼を弱々しく綻ばせ、病室の前で行き合った寿恵は答えてくれた。

 彼女の霧髪は後方ですっきりと纏められている。纏っている質素なワンピースがよく似合うこの老婦人は、ハルの祖母だ。

 物腰が柔らかく、気品のある彼女を冬美は寿恵さんと呼ばせてもらっている。

 早くに母を亡くしたハルにとって、寿恵は母親のような存在だ。

 そして、ハルに絵を教えた師匠でもある。

「ハル、大丈夫なんですか?」

「いつも通りよ。本当に一生懸命やってるわ」

「一生懸命?」

「ずっと絵を描いてるわ……」

 静かに寿恵は微笑んでみせた。それでも彼女の眼は悲しげな光を湛えている。

「ねぇ冬美さん。私はどうしてあの子に、絵を教えたりなんてしたんでしょうか?」

 彼女は廊下の窓へと顔を向けた。冬美も外を見る。

 冬枯れた木の背後には、灰色の空が際限なく広がっていた。

「どうしてあの子は、あんなにも娘にそっくりなんでしょうか?」

 灰色の空を仰ぎ、彼女は言葉を続ける。寿恵の声は嗚咽に震えていた。

 ハルの母親は10代という若さでハルを生んだ。

 いつ死ぬか分からない恐怖と戦いながら、彼女はある男性と恋に堕ちたという。

 その恋人と死に別れた間際、彼女は自分の中に新たな命が宿っていることに気がついたのだ。

 生きている証を残すために彼女はハルを生んだ。そして、死ぬ瞬間まで絵を描き続けていた。

 全てハルが冬美に教えてくれたことだ。

 母さんのように絵を描き続けて、生きている証を残したい。ハルはそう自分の夢を話してくれた。

 母の意志を継ぐために、彼は絵を描いている。

 そして、世間に挑むようにハルは今も執筆活動に没頭しているのだ。

「娘は言っていました。私はいつか肉の檻に閉じ込められて、生きたまま死んでいくと。だから、動いているあいだに生きていた証を残したいと。でも、ハルはあの娘と一緒で……」

 寿恵は言葉を途切らせる。彼女は眼を見開き、空を見上げていた。

 灰色の空から、綿毛のような雪が舞い降りてくる。

「あの子も、どこかに行けたらいいのに……」

「寿恵さん?」

「どうしてあの子は、絵を描くことさえ許されないのかしら……」

 静かに寿恵は顔を向けてきた。彼女の眼は涙で濡れている。

 泣いている寿恵を見て、冬美は心臓を高鳴らせていた。

 取り落とした鉛筆を睨みつけていたハル。厳しい彼の眼差しが脳裏に浮かび上がる。

「ハルに何があったんですか?」

「ごめん…… なさい。それは……」

 寿恵は辛そうに眼を揺らす。彼女は気まずそうに冬美から顔を逸らした。

「教えてくださいっ」

 凛とした声が口からでていた。

 寿恵は眼を見開き、驚いたように自分を見つめてくる。

「お願いです。教えて……」

 声が震えてしまう。ハルに何が起きているのか知るのが恐い。

 それでも真摯な眼を寿恵に向け、冬美は返事を待った。

「いいの、冬美さん?」

 寿恵が辛そうな顔をして尋ねてくる。

 冬美は静かに頷いた。



 


 冬美は閑散とした商店街を彷徨っていた。郊外にショッピングモールができ、人通りが疎らになった商店街はシャッターの閉まった店が目立つ。

 夕方だというのに通りを照らす照明は薄暗い。遠く離れた表通りから聞こえる車の走行音だけが周囲に響き渡る。車の音を聴きながら、冬美は上空を仰いだ。

 薄暗い照明が低く唸っている。冬美を照らすその照明は明滅を繰り返し、今にも消えてしまいそうだ。

 まるで、生きる希望を失ったハルのように。

 ハルが絵を描けなくなる。

 涙を堪えながら、寿恵はその事実を教えてくれた。

 口周りの筋肉である口輪筋が弱まり、物を咥えることができなくなるそうだ。

 その事実を知られたくないために、ハルが自分を避けていたということも。

 ――もうすぐ、笑うことさえ出来なくなるそうです。

 寿恵の悲痛な声が耳元に轟く。

 笑顔すら失ったハルは、どんな思いをしながら生きていくのだろう。

 表情さえ失い、寝たきりになった彼を自分は見守ることができるだろうか。

 上擦った声をあげ、冬美は体を震わせていた。込み上げてくる嗚咽を堪え、体を抱く。

 耐えられない。そんなハルの側にいることなんて。

 きっと自分は、辛くなって逃げ出してしまう。彼を裏切ってしまう。

「ハル……」

 どうして、ハルばかりがこんな目に合うのだろう。

 冷たい感触が頬に広がる。驚いて冬美は空を見上げた。

 雪が降っていた。ひらひらと純白の雪が灰色の空から舞い降りてくる。

 薄暗い照明の灯りを受け、かすかな煌きを放ちながら雪は地面に降り積もっていく。

 照明の後ろには1軒の店があった。

 花屋だろう。ショーウインドーに飾らえた鮮やかな色合いの切花が、冬の季節を忘れさせてくれるようだ。

 鮮やかな切花に隠れるように、小さな鉢植えがショーウインドーのすみに置かれていた。

 誘われるように冬美はショーウインドーに近づき、中を覗き込む。

 両手をガラスに添え、小さな鉢植えを注視した。なぜだか、その鉢植えが気になったのだ。鉢植えに植えられた植物を見て、冬美は眼を剥いていた。

 蕾をつけた福寿草が鉢植えの中にあった。

 今にも咲きそうな黄色い蕾は、まるで笑いだしそうなハルのようだ。この蕾が開いたら、きっとハルは微笑みながら黄色い花を眺めるに違いない。

 顔に笑みを浮かべることができなくても、彼は心の中で笑ってくれるはずだ。

 描くことができなくなっても、笑うことができなくなっても、きっとハルは挫けない。

 前を向いて戦って生きていくに違いない。

 冬美はそんな彼の強さに、心惹かれたのだから。

 泣きそうな眼を綻ばせ、冬美は福寿草を眺める。今にも花開きそうな福寿草。これを見たら、きっとハルは喜んでくれる。

 そっとショーウインドーに背を向け、冬美は店の入口へと向かっていった。





 雪が降っている。静かに。音もなく。

 ぽとりと唇から鉛筆を落とし、ハルは窓へと眼を巡らせた。

 唾液がだらしなく口元から垂れてしまう。

 祖母に聴かされたことがある。自分が生まれた日も雪が降っていたそうだ。

 そしてハルの母は逝ってしまった。生まれたばかりのハルを独り残して。

「希望……」

 喉から出てきた声は驚くほど掠れていて、小さかった。

 筋力の衰えを否応なしに実感させられる。もうすぐ呼吸を自力ですることすら、難しくなるそうだ。

「何が希望だよ……」

 嗚咽に声が震えてしまう。

 寿恵は言っていた。自分が生きた証を残すために母親は自分を生んだと。

 母にとって自分は生きる希望そのものだったと。

 けれど希望であるはずの自分は、絶望に苛まれている。

 絵がもうすぐ描けなくなる。それはハルにとって、生きてことを否定されるようなものだ。

 母が自分を生んだように、生きる意味を見出すためにハルは絵を描いてきた。

 描けるから、どんな状況でも笑うことができた。それすらも出来なくなる。

 言葉も失い、呼吸もできなくなって、筋肉の衰えた動かない体に閉じ込められる。

 ハルは頭上に固定されたスケッチブックを見上げる。

 乱れた線が紙面を埋め尽くしている。鉛筆で描かれた線は弱々しく、力強さを感じることはできない。

 それでも薄い鉛筆の線は連なり、1つの絵を紙の中に描いていた。

 薄く眼を開けて微笑む、冬美の姿を。

 雪の降り積もる林の中。彼女は座り込み、地面を見つめ微笑んでいる。

 その微笑みは、愛しいアドニスを見つめるアフロディーテを彷彿とさせた。

「冬美……」

 震える声で冬美を呼ぶ。眼が熱を持ち、涙が溢れてくる。

 視界が涙に滲む。微笑む冬美の顔が歪んで、苦しげに見えた。

 もう彼女に、笑いかけることもできなくなる。

 きっと彼女は、生ける屍になった自分を見て絶望に苛まれる。

 自分はそんな彼女を、見つめるとしかできないのだ。

 そんな別れ方をしたくはない。そんな姿を冬美に見せたくはない。

 でも、それでも――

「側にいて欲しいんだ……」

 涙が頬を流れる。ハルは、頭上に描いた冬美の絵を見つめた。

 彼女に触れたい。その一心で片手に力を込め、指先を動かそうとする。

 力を込めた指先で、ハルはシーツを掴むことさえできなかった。


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