6話 二日酔い
「敵の大部隊をたった二人で占領したなんてすごい!英雄さんに乾杯!」
ワインに初めは恐る恐る口をつけたソフィアは、少量飲んだだけで早くも酔っていた。グラグラ頭を揺らしグラスを掲げ、飲み干すとトンとテーブルに叩きつけた。ミシアはグラスを取り上げ代わりに水のコップを置いた。
「お嬢様、調子に乗りすぎです!」
「いーじゃないのミシアぁ、いい話聞けたんだから!」
「保護資格のある赤十字表示の病院を襲ったって、捕虜の将官から抗議されたけど、調査で自衛戦闘が認められたってオチ付きさ。英雄って程でもないな、迷ってたら偶然敵の大将引っ捕らえただけだから」
「だから勲章もあるのね、カンパイ!」
気炎を上げて、酔い覚ましにもならない水を呷った。
デザートを三口と含まず、ソフィアはスプーンを落とした。皿とかち合う音、貴族にあるまじき行為だが、そもそも酔っぱらうという状態自体がそうであるのだから、ミシアは既に怒りを通り越し、呆れて溜息を吐く。
「もうお引き取りいたしましょう。初めてなのに、飲ませすぎましたわ」
「明日は初めての二日酔いってとこかな」
「笑わないで。こんなにも高貴なお方が、二日酔いだなんて」
「レミちゃんを運んでいこう」
「結構、私がやりますわ」
ミシアは軽々とソフィアを抱き上げ、乱れ一つない足取りで出口に向かった。ソフィアが寝ぼけながらもミシアの首に両腕回すのは長く続く信頼の証。ジョシュアはあくびをしながら軍帽を整え煙草をくわえた。
「明日、朝食でもとレミちゃんに伝えておいて。もちろんマルゴーさんも」
「・・・一応、伝えておくわ。お嬢様はあなたたちにとても懐いているようだから、もうあまりとやかくは言いません。でも、こんなに潰れるまでお酒を飲ませることは止してもらいたいわ」
「それはごもっとも」
寝間着に着替えさせられたこともベッドに寝かせられたことも知らず、また旅行中であることもレミ・ロスコ―という偽名を用いていることも忘れて、ソフィアは夢を見る。初めての酔いの夢が不思議なのは誰もがそうであるように、彼女もまた混沌の海に泳いでいた。
服の何もかも、下着すら着けていない裸でやたら明るくエーテルを揺れ、とても気分がいい。下からの光に気づき見下ろすと、巨大なヒトデの如く星章が近づいてきて、トリブ陸軍軍帽の帽章であるとすぐに判った。帽章の上に寝そべりその冷たさが火照った身体に心地よくって、目を細めて微笑んだ。帽章が急に揺れた。ずるずると身体が滑っていき、これまでなんの心配もなかったのに、片脚が宙に落ちるとなぜか驚いた。
頭痛が緩く始まって重い頭、瞼をやっと持ち上げると左目はシーツを見て右目は横倒しの部屋を見ていた。ベッドに横から抱きつくような姿勢で身体は落ちており、夢での驚きに納得した。
朝が来ている。カーテンの隙間から薄い朝陽が差し込んでいて、時計を確かめるべく身を起こそうとした。しかし一旦ベッドの上に身体を持ち上げると直後に眩暈、不思議な感覚のままスローモーションに仰向けになると、間もなく内臓せり上がってくる不快感に汗を垂らし始めた。間違いなくこれは吐き気、酒を飲みすぎると吐くこともあると話には聞いていたが、自分の身に降りかかってくるとは思いもよらなかった。
吐く?まさか、ほんとうに?吐いたことなんて何年もないのに。私が?このわたしが?
動けなくなる前にトイレに這っていき、便座を開いてじっと待った。もちろん吐き慣れていないソフィアは、どのタイミングで全て出てくるか見当もつかず、ただ怯えて、関係ないことばかり考えようとした。最後の正気、髪だけは便器に垂れないように押さえる。
母の化粧品、父の頭を悩ます国政問題、税金を高いと文句を言っていた、くわえ煙草で休憩するレストランの給仕、やたら擦れていた車掌の制帽の顎紐、発車時に列車に乗り込んだ隣国兵士の背負う銃、真っ白な布で包まれていた、考えてみれば、あれはジョシュアとベス。
「⁉⁉⁉⁉⁉ぅええええええええれれれれ・・・」
突然噴き出した吐瀉物は形容しがたい音で、例えるなら機関車の轟音に似ていた。続いて質の悪いヴァイオリンの弦を無理に引き擦るような声、一度止まると素早くトイレを洗浄した。だが収まらない、また便器に突っ伏すと再び機関車が猛スピードで通過した。
ミシアはソフィアの部屋のドアを十数回もノックしただろうか。昨晩の酒量で体調を崩していないかと様子を見る気で朝の挨拶に訪ねたが、皇女殿下はなかなか御返事あそばされなかった。いい加減心配し始めて、よもや寝込んではいないかとノックの音は強くなった。
「殿下、私です、ミシアです、殿下、お願いですからご返事ください!」
「・・・ミシアぁ、大きな声で殿下と呼ばないでって、あれほど・・・」
ようやく開いたドアの隙間から顔を覗かせる、ソフィアは幽鬼の如くどよんと背が丸く、半開きの目は充血していた。口からは反吐の悪臭甚だしく、二日酔いに襲われたのは明白だった。皇国の華、国民のアイドル、そしてなによりも並々ならぬ親愛で結ばれている高貴なお方を二日酔いにさせ、しかも嘔吐までさせてしまった!ソフィアは進んで飲んだのだからミシアに責任があるはずもないけれど、それでも一応警護役、皇女の安全を護る立場として、顔面蒼白とならずにはいられなかった。
「殿下!今お水を!」
「おみず・・・なんでえ・・・」
「そういうものなんです!アルコールはお腹の水分を奪いますから」
「うっ・・・また!」
ドアを開けたままでまたトイレに駆け込む。初めの二回よりは幾分マシになったが、それでも汚らしい音が響くのは同じで、ミシアは天井を仰いだ。
「嗚呼!皇帝皇后両陛下!どうか私めに罰を!」
「罰はいいから・・・なにか、効くものを・・・」
「ただいま参ります!」
といっても水くらいしかなく、まさか二日酔いになるとは夢にも思わなかったから、気の利いた薬なんぞ持ち合わせているわけがない。ミシアはコップに水を注ぐとトイレと水差しを往復し、冠水瓶の中身が空になると同時に落ち着いた。1時間も騒動していたか、ソフィアの顔色もようやく赤みが増してきた。歯磨きする余裕もでてきて、ミシアはベッドに座ると大きな大きな溜息を吐く。
「もうすっかりいいわ。ありがとうミシア」
「まったく、一時はどうなることかと・・・もうお酒は当分だめですからね!」
「もちろん、考えただけでぶり返しそう」
「それから例の下士勤兵長と上等兵から朝食のお誘いを受けましたが、断ってきます」
「いーえ。朝食だけは行くことにするわ。お腹が空になっちゃったし、二人に心配かけるのは申し訳ないわ。それから今日は、お昼までは休みます」
「・・・朝ご飯は、ヨーグルトくらいにしておくことですね」
「はーい」
こんな大騒動があったとはつゆ知らず、ジョシュアとベスはよく眠れて爽快な頭をかきソフィアを待っていた。約束の時間はとうに過ぎていて今入ってもモーニングギリギリの時間、ジョシュアはやっと二日酔いを疑い始めた。
「やっちゃったかな」
「お酒、初めてみたいだったですからね」
「飲んでる奴が好きだから調子乗らせるままに飲ませちゃって、まずいことしたな。今頃こうかも。ゲロゲロ」
「そんな真似しなくても」
ジョシュアはべえと舌を出して嘔吐の真似、ベスが呆れてたしなめると、しかしゆっくり近づく影が二つあった。疲れの隠せない少女のカラ元気な声で挨拶される。
「おはよう、ジョシュアさんベスさん。昨日は酔っ払ってしまってごめんなさい」
「ああ、おはよう」
「おはよう。レミちゃん体調はどうですか?」
「え、ええ。とっても快調よ。でも朝食は抑えさせてもらおうかしら」
「そう、お嬢様はお水とヨーグルトのみになさることです」
「それだけで?食べ盛りなのに」
「ううん、私お水とヨーグルトだーいすき!」
変な声を出すも顔はどこか蒼ざめている。ジョシュアとベスは苦笑いしつつ果物添えたヨーグルトと水をソフィアに供した。皇女に恥をかかせまいとするからか、また初体験終えた少女に付き合ってやろうとするからか、彼らもヨーグルトと水のみ口にした。
短い食事を終える頃、車内放送があって国境通過のことを伝えていた。
『ご乗車の皆様にお知らせいたします。まもなく当列車は国境を越えトリブ共和国に入ります。国境警察隊による通過検問がございますので、必要書類をご用意のうえ客室にてお待ちください』
「あらもう国境?お嬢様、戻らなくては」
「そんじゃ、客室で待つとするか。レミちゃんはもう少し休むといい」
「そうさせてもらうわ、お昼はご一緒しましょう」
「うむ。国境超えたんなら、ひょっとするとトリブ料理が食えるかもな」
「油汁麺、麺抜き米盛とか?」
「そりゃお前だけだ。ああ麗しの祖国よ、ただいま」
窓の外に懐かしきトリブ国旗が翻り、二人は安心したように溜息を吐く。四人にとって懐かしく新鮮な風が、列車を取り巻き蒸気を立ち昇らせた。
駅員も兼務する国境警察隊員は、自国陸軍の下っ端が特別な列車に居るのを不思議がって窓から覗いていた。ジョシュアが気色悪い笑みを浮かべて手を振るのは無視して、声をかけてきた客に応対した。
「この車室はどの車輛でしょうか」
「二等車ですね、あちらになります。お荷物をお持ちします」
客は数人の男女。彼らは一様に大きな楽器ケースを携えていて、音楽家然としたスタイリッシュな風体。切符にもバンドとして団体予約の記載があった。警察隊員には覚えのないバンド名だった。
駅員の仕事として楽器ケース運ぼうとすると、後ずさりして手が触れるのを避けられた。
「いいんですよ。微妙な調整をしてもらったばかりですから、責任もって私たち自身で運びます」
「そうですか。ではお気をつけて」
音楽家の楽器に対する気遣いに疑う余地を持つはずもない。警察隊員は軽く礼をして彼らを見送った。しかしもしケースを持ち上げでもしていたら、重量バランスがケースの象る楽器とはまるで異なることに気づいたはずである。だが、中身が自分の肩に吊られるカービンと同種であることまでは感づかなかったに違いない。
「見ろよ、楽隊らしいぜ」
「ほんとだ。ショーでもあるんですかね」
「ストリップならええんだけど」
件の男たちを見かける兵隊二人は、未だ呑気であった。
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