3話 変名レミ・ロスコ―
車中で二人の下級軍人の姿は滑稽でもあった。タキシードのように厳粛なものを身に着けている者こそ少なく多くはラフな姿ではあったが、野戦服に古めかしい乗馬ズボンで革脚絆の軍靴は嫌でも目立った。それも外国軍の。
『やっぱり私服忘れるんじゃなかったなあ』
『泣くな、慣れろ。どうせしばらく共に過ごす身、今に誰も気に留めなくなるさ』
ジョシュアの煙草吸いたさに早速談話室へ向かう。談話室では何組かのグループが会話を楽しんでいた。ビリヤードなどのゲームに興じたり煙草やティーカップ片手に景色を眺める者など多様の楽しみ方があった。入口に煙草の自販機があり、物珍しさに使ってみる。これまで嗜好品は祖国から大量に持ち込んでいて困ることはなかったので、ラグーシャの煙草を持つのは初めてだった。
『付き合ってもらって悪いな。お前は煙草を
『いいんです、どうせ一人でいたってつまらないですし。ほら、火です』
『気が利くな』
『そりゃ入隊以来寝台戦友として三年兵殿のお傍におりますから。どうです、ラグーシャ煙草のお味は?』
『こりゃ、なんというか』
「我が国の煙草の香りはいかが?トリブの軍人さん」
感想を言う直前、凛としたラグーシャ語の声が自分たちに向かって近づくのに気づいた。身長は二人より若干低く、線は細くスラリと伸びた脚、栗色の瞳大きく穏やかな睫毛。歩くたびにボブの黒髪がふわりと揺れた。ハンチング帽にくびれが強調された背広型のジャケット、脚にぴったり沿うスラックスと踵高めのブーツはスマートな印象を持たせる。少女は小さく尖る鼻に乗せられた丸眼鏡の縁をくいと上げ、桃色の薄い唇の口角を上げた。
既にラグーシャ語をマスターしている二人、この美少女の母国語で陽気に答えた。
「辛くてコクがある、独特で不思議な味ですな。我が国では流行らないかもしれませんが私は気に入った」
「それはよかったわ。軍人さんはラグーシャで何してたの?駐在武官?」
ジョシュアとベスは思わず吹き出すと抑えられない笑いに腹をよじらせた。まさか綿製生地の野戦服に徽章を付けただけで高級将校の駐在武官に間違えられるとは考えもしなかった。二人はそれぞれ右胸に縫い付けられた階級章をつまんで自己紹介をした。ニヤニヤとわざとらしく踵を鳴らし軍帽を取った。
「トリブ共和国陸軍下士官勤務兵長、ジョシュア・ウォーカー」
「同じくトリブ共和国陸軍上等兵ベス・シュヴァイツアです」
「ご丁寧にどうも。私は・・・レミ、レミ・ロスコ―」
ソフィアは子どものような敬礼をするとあらかじめ決めてある偽名で答えた。しかし見知らぬ男たちと話しているのを咎めるように見つめる視線が複数、皇室護衛官だった。警護官の一人、長身でスタイル抜群の美女が振り返るソフィアに素早く例の方法で暗号を送った。
(殿下!そのような素性もよく判らぬ、それもこのような場にあんな服を着てくる輩に関わってはなりませぬ!)
それには答えずソフィアは先程両親にしたようにウインクだけして二人に向き直った。こほん、と小さく咳払いすると少しドキドキしながら細く白い手を差し出した。初めての試み、初対面の人間との握手。一方トリブ国民の二人は、祖国においていきなり握手をする習慣がないので戸惑ったが、その意図を汲み取って手を握り返した。
「よろしく。えっと、どうお呼びしたら」
「ジョシュアでも、ウォーカーでもどちらでも結構ですよ」
「僕もどちらでも構わないです」
「じゃあジョシュアさん、ベスさんと。私のこともレミって呼んで」
「それじゃあ、レミさん、と」
「ふふ、ちゃんでもいいわ。立ち話もなんだから、喫茶室にでもどう?」
「そうしようか」
ジョシュアとベスはソフィアを挟んで喫茶室へと向かう。後ろから件の女性警護官を筆頭にぞろぞろと尾行する。見知らぬ男どもと行動を共にするお姫様にやきもきし三白眼で後を追うのは少々異様な姿であった。
喫茶室に着くと娯楽室よりは閑散としていて、三人は車輛中央の席を陣取る。続いて入ってきた警護官一行は間を空けて席を取り、ブレンドコーヒーを人数分注文した。急に何人もの同じ注文がきてマスターは慌ててコーヒーミルを回す。ジョシュアは、全員同じものを頼むなんて変わった客たちもいるもんだと思いながらソフィアにメニューを見せた。
「俺は紅茶。レミちゃんは?」
「私は、そうね、クリームソーダ!」
「やけに嬉しそうだね」
「だって、おおっぴらに飲めるんですもの!こっそりばあやの目を盗んでビクビクしなくていいし」
「ははは、なんだいそりゃあ。どっかのお嬢様みたいに」
お嬢様と言われ、余計なことを口走ったと冷や汗かいた。ソフィアの苦笑いでぺろりと出す舌の意味は解らなかったが、ジョシュアは警護官と彼女の関係や時折出る口パクの暗号に気づき始めていた。
「じゃあ頼もう。クリームソーダと紅茶、ベスはココアだな」
一般的な物よりも大きめなグラスでクリームソーダは運ばれてきた。ソフィアは目をキラキラ輝かせながらスプーンを取り、小さな紅い舌で桃色の唇に潤いを与えた。サクと小気味よい音でソフトクリームにスプーンを突き立て溶け流れぬうちに素早く口に運ぶ。上質な濃厚ミルクを用いたソフトクリームがソフィアの頬を夢心地に痺れさせるには十分だった。
「ん~おいしい!」
顔に手を当て、「シアワセすぎて困っちゃう」といった体で身をよじらせる。その様子が如何にもおかしくってジョシュアとベスは笑えてくる手になかなか飲み物を味わうことができなかった。
ようやく一口香りを楽しむように舌に流していたココアを飲み込むと、ベスはふと浮かんだ疑問を口にした。軍服という様相の二人になぜ少女がなついてきたかという当然すぎる謎だった。
「レミさん、なんで僕たちに声をかけたんですか?もっと若い、あなたと同世代位の人たちもいるのに」
「若いって、ベスさんたちも若いじゃない」
「そういっても僕は21、三年兵殿も22歳。失礼かもしれないけれど、流石にレミさんはもっとお若いはずです」
「それは正解。だって私、まだ16になりたてですもの」
「やっぱり。それに比べたら僕たちなんてオジサンですよ」
「俺もベスと同じことを思った。それにどうやらいいとこのお嬢様らしいが、もっと育ちがよさそうでかっこいい青少年がたくさんいる。こんな美少女を放っとくなんて手はないよ」
警護官以外、本人のソフィアですら気がついていなかったが、ラグーシャ皇国三千年の歴史の中、皇位継承第一位の王女に成人もせぬうちに口説き文句をぶつけたのはジョシュアが初めてだった。女性警護官は「無礼者!」と叫び飛び出していきそうになったが周囲に口と身体を抑えられる。ソフィアは同等の立場としての男から美少女だなんて言われたのは初めてで、嬉しいやら気恥ずかしいやら顔を赤らめわざとらしい咳ばらいをした。
「そ、それはそういう人たちに興味がないから。着飾らない人たちがいいの」
「着飾らない人?」
「ああいう人たち、おべっか使うんだもの」
可愛らしいだのなんだの、そう言ってくれた人間は数多くいる。だがそれは使用人であるばあややねえやが着替えの時言ってくれたり、父母が当たり前のように娘を可愛がる時の言葉である以外は、王に接見する政府高官企業人の高貴な人々がおまけに付いてきた王女ソフィアに適当にご機嫌取りする常套句でしかなかった。
だから高貴そうな他の乗客ではなくもっと市民的なジョシュアとベスに話しかけたのだった。なんせ二人は、国外軍とはいえ下級軍人と一目で判る格好である。判断基準が相手に失礼な気がしないでもなかったが、接触の感想は上々で、うまく友達になれたと感じてソフィアは満足だった。
「それに、お兄さんたちおもしろそうだったし」
「おもしろい?」
「だって、お二人だけ不思議と軍服着てるんですもの。さっきは駐在武官だなんて冗談言ったけれど、どう見たって駐在武官の高級将校が着るオーダーメイドの礼装じゃないし」
ジョシュアはこらえきれず高笑いに腹をよじらせ、ベスは肩をすくませてココアを空にした。二人とも行方不明の私服が入ったトランクを思い浮かべる。今頃は忘れ物預り所かどこかで主人の帰りを待っているはずだった。
「野戦服だからなあこれ。演習の時弾帯巻いて手榴弾吊って戦争ゴッコするんだ」
「つまり、戦闘服?まあおっかない」
「違いない。そしてこのおっかない服に精勤章や略綬・・・勲章のリボンのとこなんかを付けたりすると代用礼装に早変わりってわけです」
「なーるほど。略綬ならよく知ってる、にぎやかにたくさん並べてまな板みたいになってるのを何度も見たわ」
「へえ!ひょっとしてレミさん、高級将校の家庭だったり?」
「お父様もそうだけど、近衛師団閲兵の時とか・・・」
先程みたいにべらべらとしゃべりかける自分にハッとして口に手を当てた。現実味の無い内容とソフィアの不審な挙動に二人も不思議な目で見ている。このままだとボロが出てしまいそうで、席を立つべくあわててクリームソーダを飲み干した。氷がほとんど溶けきらぬうちに急いでグラスの緑を空にし、ストローが水と泡を吸う少々下品な音が一瞬出てしまった。その音に顔を赤くするとパッと椅子を引き立ち上がった。
「なんだかちょっと疲れちゃって。お部屋に戻って少し休みます。でもせっかく知り合えたんだし、よろしければお夕食でも一緒にどう?」
「ああ、それは願ってもない。よく休んでおくんだね」
「それじゃ。うんとおめかししてくるわ!六時に食堂車の入り口で!」
手を振って満面の笑顔、可憐で美しい花のようだが、背景には警護官たちの光るおどろおどろしい眼光。手を振り返すジョシュアとベスは思わず苦笑いになる。ソフィアに続いて全員出ていくかと思ったが、件の女性警護官はつかつかと二人の席に寄るとダンと思い切り両手でテーブルを叩いた。突き出される顔、澄んだ碧眼と整った鼻筋やきりりと吊り上がる眉、ジョシュアの咥え煙草の煙で見る見るうちにゆがみ、一瞬横を向いてくしゃみをした。慌てて煙草の火を消し「大丈夫?」と声をかけるとまた向き直る。さらに接近し、互いの鼻先が音を立てて当たった気がした。
『わあすっげえ
「なによ」
「べつに」
「あのお方は、あなたたちが想像もつかないくらい高貴なお方なの。気安く近づかないでちょうだい。いい?」
「そりゃあまりにも一方的ですよ」
「ベスよ、俺に任せてくれ。高貴っていうと、どれくらい?納得いく説明が欲しい」
「教えることでもないわ。とにかく近づかないで」
「あの子は俺たちとの会話を楽しんでくれてたようだぜ。勝手にするさ」
「これは警告よ。変な虫がつくと困るの」
「変な虫は笑っちゃうな。俺たちはレミ嬢と友達になったわけで、口説いてるんじゃない」
「さっきの台詞、口説いてたじゃない」
「ご冗談。褒めただけだろ」
「と・に・か・く」
ぴんと指を突き立て指図するように威嚇してくる。眉をしかめてピンクの反射する爪を見ていると胸を張り見下して言い捨てた。
「あなたたちは危険なの。でん・・・お嬢様に指一本でも触れてごらんなさい、ただじゃおかないんだから」
ここまで言われるとさすがにムッとする。ジョシュアはわざとらしくドスの効いた声を作ると早口のトリブ語でまくし立てた。
『美人と思って下手に出てりゃ付け上がりあがって。そんなにお嬢様が大事ならなあ、紐つけて籠にでも入れて持ち歩けよ』
「なんて?」
「あんたいいバスト」
「ふん!」
女はテーブルの脚を蹴るとそそくさと出て行った。こぼれないようにとっさに両手で支えたカップを置き、再び煙草に火を点ける。
『まったく、無礼な
突然再開されるトリブ語、温厚なベスが珍しく口を尖らせながら不満を口にした。手でもてあそぶ空のカップをぼんやり眺めながら、ジェフは自分の推理を話してみることにする。しかし彼はその推理にかなり正確な自信を持っていた。
『護衛さ、レミちゃんの』
『護衛?』
『つまり、皇室警護官』
ベスは目を丸くし思わずカップを倒した。中身が空だったためテーブルクロスが大惨事になることはなかったが、あわてて元に戻し静かにソーサーに置く。彼は上ずった声で推理の理由を尋ねた。
『こ、皇室って、どういうことですか』
『レミちゃんの言葉の端々や態度、あと、あの女たちと口パクで会話してるのには気づいたか?』
『女性の方は判りませんでしたが、レミさんが時折口をぱくぱくさせているのは気づきました』
『あれは皇室の暗号なんじゃないかな、何言ってるかは解んなかったけど』
『よくそこに結び付けれましたね』
『動員部隊にいた時の軽装甲車の車長、兵役に就くまでラグーシャ住まいでな。なんと王女様は学校の後輩だったらしい。俺によく言ってたよ、王女様は口パクで護衛と話するんだぞって。そんな場面公の場じゃ見れないし信じてなかったけど、一年経って急に現実味を帯びてきた』
『じゃあもしレミさんの口パクがほんとにその暗号だとしたら・・・』
『略綬のこととか近衛師団閲兵だとか言いかけた時の様子も変だった。それに髪の先端の癖っ毛、実家が床屋の俺が見たところ、皇族髪形の名残』
『レミさんはソフィア皇女殿下…?』
『なんのつもりで民間人のフリしてるのかは知らんが、面白いこった』
『どうするんです?僕たち不敬の
『馬鹿言うな、皇女サマの前では彼女をレミちゃんとして扱えばいい。列車に乗ってる間、あの子との交流を楽しもうぜ。上流社会への第一歩だ』
『呑気だなあ』
一方ソフィアの客室では、落ち着きを取り戻した彼女が鼻歌交じりに夜会用のドレスを選んでいた。どれもこれも皇族でなければ手に入らないような最高級品の特別製、値が付けられる代物ではなくそのまま文化財として博物館に保管されてもおかしくない。
荒々しいノックの音が木霊した。警護官に違いなかった。
「そこにいるのはミシア?」
「はい、マルゴー警護官です。殿下、入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ。ちょうどよかった、あなたも食事に着ていく服を選んでくださらない?」
「殿下!」
皇室警護隊臨時派遣班長ミシア・マルゴーは入室すると、ポニーテールを激しく揺らしながらソフィアに近づいた。怒り心頭といった覇気には意に介さず、髪留めを求めた。
「そこのピン、取ってちょうだい」
「・・・どうぞ。それより殿下、なぜあのような男たちにお近づきになったのですか!」
「いいなあミシア。あなたみたいにたわわで美しい胸があればこれも着られるのに」
「真面目に聞いてるんです!」
「別にいいじゃない。悪い人達じゃなさそうだし。これで旅の目標を一つ達成できたわ!」
「殿下はまだ理解していらっしゃらないのです。浮ついた男の本性といい加減さを」
「ねえ、浮気されてフられちゃったミシアはかわいそうだと思うわ。だけどあなたが十歳なるかならないかってくらいの時じゃない。その歳で浮気した男の子もとんだおませさんね。それからまったく、大人になってからも恋人を作ってないんでしょ。私、恋をしたことも裏切られたこともないけど、みんながみんな男の人が悪人だとは思えないわ」
「くっ・・・」
ミシアは顔を赤くし唇を噛んだ。恨めしそうに『親愛なる皇女殿下』を上目遣いで見ると彼女はようやくドレスを決めたようだった。髪を丸くまとめるとすっかり服を脱ぎ赤いドレスを手に取った。
「ねえ着せるの手伝って」
ミシアは溜息一つ吐くとソフィアの背後に立ち白いうなじを見つめた。するすると上がってくる生地を手に取り肩甲骨のあたりでホックを止めた。
「とにかく、あの二人には殿下に近づくなとはっきり言っておきましたから!」
「もーなんてことするのよ。でも行くわ」
「わがままはなりません!」
「それくらいのわがまま、貫き通させてもらうわ。だって、この客室から出れば私はめでたくただの陛下の臣民!」
着付けの終わったドレスの端を握り、くるくると回ってみせる。嬉しそうに「どう?」と笑うソフィアにミシアはまた溜息吐きつつ笑い返した。
「素敵です、殿下」
「ありがと。これでいいかな」
「でも、あの二人と会うのは・・・」
「心配性なんだから。あ、そうだ!」
ソフィアは指を鳴らした。もう一度クローゼットの前に立つと大きめなドレスを探す。眉をしかめるミシアに青いドレスを差し出した。
「ミシアも来ればいいのよ!」
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