第4話 可憐な常連客
突然の来客に、店長は反射的にカウンター席からガタリと立ち上がる。やばい、会話に夢中になっていたが、今が普通に営業時間であることを忘れていた。あまりにお客さんが来ないせいで。
「いらっしゃいませー!」
店長がそう言いつつ、カウンターの奥へと急いで入っていく。対して私は、少しだけ驚いたが、席から急いで立つということはせず、頬杖をつきながら、視線だけ店の入り口の方に向ける。
まあこのカフェに身を置かせてもらっている私ではあるが、基本的に私はお客さんの応対をしたりはせず、むしろお客さんと同じように席に座ってくつろいでいるだけの人間である。これは決して、働きたくないでござるとかそういうのではなく、店長一人で対応できてしまうほどに人が来なさすぎるというだけの話なのである。それに加えて店長も、「カナノちゃんは私とお話してくれるだけでいいの!」というため、それを振り切ってまで働かなくてもいいか、と私自身思ったゆえのこのくつろぎっぷりなのである。いや、きりきり働けと言われたら全然働くよ、私は。本当に。
そんなことを考えていると、店の扉がゆっくりと優しく開かれる。そして、小さな可愛らしい顔が、ひょっこりと頭を覗かせた。その顔を見て、店長が満面の笑みになる。
「あれ、涙花ちゃんだ!いらっしゃーい!」
店長に名前を呼ばれたその女性は、おずおずとした様子で店の中へと入ってくる。その顔は下を向いており、ストレートの綺麗な黒髪が、顔の動きに伴ってサラサラと動く。その体は、学校の制服で身を包んでいた。
店長の元気な声に、涙花ちゃんは相変わらず俯いたまま、小さな声で挨拶をする。
「こ、こんにちは…」
「こんにちは!珍しいね涙花ちゃん、こんな時間に。それに学校の制服じゃん!何かあったの?」
「はい、その…、早退してきて…」
「え、そうなの!?大丈夫?」
「はい…」
「…そっか。とりあえず座って座って!何か飲む?」
「あ、えっと…。ココアで、お願いします…」
「オッケー!ちょっと待っててね!」
そういうと店長は、テキパキと準備をし出す。対して涙花ちゃんは、ゆっくりとした足取りで、窓際にあるテーブル席へとちょこんと座った。席についてからも、涙花ちゃんはずっと俯いたままだ。
…まあ、人の感情の機微というか、そういったものに疎い私でも、涙花ちゃんに何かあったんだなというのは流石に分かる。確かに元気はつらつという感じの子ではなく、どちらかというと大人しいめの子ではあるのだが、それでも私と店長が冗談を言い合っている時などは、クスクスと可愛らしい笑顔だったことを覚えている。そんなまぶしい笑顔は今や見る影もなく、誰か大切な人を失ってしまったのかと思わせるほどの暗いオーラを身にまとっていた。
…うーん、どうしよう。これ私が慰めてあげた方がいいのかな。いや、でも慰めるとか普通に考えて私には無理だよな…。
そもそも、私と涙花ちゃんはめちゃくちゃ親しげに話す間柄というわけではないのだ。私たちの会話は基本的に店長が架け橋になってくれることによって成立するため、店長が席を外した途端に沈黙が流れてしまうのである。それでも涙花ちゃんは気を遣って一生懸命私に話しかけてくれるんだけど。本当に申し訳ないです。
と、私が表情は変えずに、しかし心の中ではどうするべきか考えあぐねていると、店長がトコトコと近づいてきて、カウンター席に身を乗り出し、私にコショコショと耳打ちしてきた。
「カナノちゃん。もう少しでココアできるから、それまで涙花ちゃんと何か楽しいお話で、少しでも元気づけてあげてよ!」
コショコショ話の意味がまったくないくらい声がでかいのよ。絶対涙花ちゃんにも今の聞こえてるよ。と思ったが、店長の意図することがなんとなく分かったので、私も普段の調子で会話をする。
「いや、すみません。自分陰キャなんでそういうのは無理なんです。てか、話を聞いてあげたり慰めたりとかは店長の役目でしょ」
「えー。でもカナノちゃんが一生懸命話しかけようとして、あたふたおろおろしてる可愛い姿が見たーい♡」
「あ、いいよ。そんな無茶ぶりばっか言うなら、私もうこの店出ていくんで」
「嘘!嘘です!ごめんね!?お願いだから出ていくのだけはやめてぇ!」
店長が必死の形相で私に抱きついて止めようとしてくる。ふう。やっぱり、一回突き放してから必死に私に縋ってくる店長を冷めた目で見る瞬間が一番生を実感するわ。
と、私たちの日常茶飯事である馴れ合いが一区切りしたタイミングで、私と店長はチラッと涙花ちゃんの方を見る。
「……。」
涙花ちゃんは、間違い探しの絵本の題材として使えるのではではないかというレベルで、先ほど私が見た時と同じように、特にリアクションもなく俯いていた。そんな彼女の様子に、店長があわあわと慌て始める。
「ど、どうしようカナノちゃん!私たちのおふざけトークでも全然笑ってくれない!ホントに大丈夫かな涙花ちゃん…」
先ほどとはうってかわって、今度はちゃんとしたひそひそ声で、店長が私に話しかけてくる。店長は店長なりに、涙花ちゃんを少しでも笑顔にしてあげようと考え、わざと大きな声で私に話しかけてきたのだろう。私もそれを察して会話に付き合ったが、あまり効果は無かったようだ。
私は頬杖をついた態勢のまま、冷静に店長に切り返す。
「ていうかそもそも、私たちが勝手に笑ってくれてると思い込んでただけで、本当はあまりの会話のしょうもなさに鼻で笑ってただけかもしれないしね」
「いや本人を前になんてこと言うの!?鼻で笑ってあんな屈託のない笑顔なんて作れないよ!というか声が大きい!」
焦りとも怒りともとれる表情で、店長が私の肩を両手で掴んでグラグラと優しく揺らしてくる。あれ、私としては冗談で笑顔にする延長線上だと思って言ったんだけど、流石に冗談にしてはちょっと言い過ぎちゃったかね?
私は再び涙花ちゃんの方を見る。涙花ちゃんは相変わらず俯いたままだったが、その首はふるふると静かに横に振られていた。良かった、違うみたい。
と、いつの間にかいなくなっていた店長が、お盆にココアをのせながら近づいてきて、そのまま私に突き出してくる。
「はい、カナノちゃん。とりあえずお話するかどうかはカナノちゃんに任せるから、これ渡してきてもらってもいい?」
「……」
私は店長の顔をじっと見る。店長はそれこそ屈託のない笑顔であったが、その笑顔からは、自分は絶対に渡さないよ?という確固たる意志がひしひしと感じ取れた。この人一度決めたら意外と曲げないんだよね。
私は小さくため息を吐いてから、お盆を受け取る。もちろん渋々ではない。私としても何から何まで店長一人にやってもらおうと思っている訳ではないし、そもそもここ最近は私が接客をする担当みたいになっているのである。まあ大方、私のお客さんと接するときのぎこちなさや陰キャっぷりを見て楽しんでいるのだろう。許せないよ、ほんと。しかし店長にはお世話になっているのであまり強くは出られないのだが。
私はこぼさないようにお盆の上のココアに意識を集中させながら、ゆっくりとした足取りで涙花ちゃんの元に向かった。私が近づくと、涙花ちゃんは俯いていた顔を上げ、私と目を合わせてくれる。その瞳は、僅かに涙で潤んでいた。
え…、な、泣いてる?やっぱりさっきのちょっと言い過ぎちゃったかな…?
涙花ちゃんの予想外の涙に私が面食らっていると、彼女もそんな私の様子にハッとして、慌てて涙を拭った。そして、努めていつもと同じように、私に笑顔を向けてくる。しかし、その笑顔はやはりどこかぎこちなかった。
「あ、えーっと…。お、お待たせしました。ココアです…」
「あ、うん…。ありがとうカナちゃん…」
私が涙花ちゃんの前にココアを差し出す。涙花ちゃんは私に感謝の言葉を述べ、軽く会釈した後、先ほどと同じように静かに俯いてしまった。いつもであれば、このタイミングで彼女と当たり障りのない会話が繰り広げられるのだが、今はとてもそんな雰囲気ではない。こうなってしまったら陰に生きる者である私に残された選択肢はただ黙って立ち去るのみである。のだが…。
「……?」
涙花ちゃんがつっ立ったままの私を不思議に思ったのか、ちらりと私に視線を向ける。私も彼女の目を真っ直ぐと見返して、口を開く。
「…え、えっと。だ、大丈夫?何かあった?」
私の問いかけに涙花ちゃんは驚いたのか少しだけ目を見開き、私を見つめてくる。まあ普段から自分からは滅多に話しかけることがないから、驚くのも無理はないだろう。私自身、柄ではないなと思う。しかし、何も言わずに立ち去る気にはとてもなれなかった。
「…あぁいや、全然無理に言う必要はないんだけれども…」
私は頭をポリポリと掻いて、彼女の真っ直ぐに向けられる瞳から目をそらしつつ、そう付け足す。うーん、少しだけ気恥ずかしくなってきたかも。いや、もちろんこんなことを言ってしまって後悔しているというわけではないのだが。もしこれで、「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」とか言われたら私はもう本当に立ち去るしかない。そして店長にニヤニヤ顔でからかわれることだろう。嫌すぎる。
「……」
涙花ちゃんは私から視線を外し、湯気の立っているココアをじっと見つめている。その表情からは何を考えているかは私には読み取れないが、即答しないということは、少なくとも私に悩みを打ち明けるかどうしようか迷ってくれているのだろうか。私なんかが誰かの悩みを解決できるとも思えないが、自分から聞いてしまった手前、私を頼ってほしいという私にしては珍しすぎる感情が自分の中で膨らんでいた。あと単純に店長にからかわれたくない。
私もそれ以上は何も言わず、涙花ちゃんの返答を静かに待つ。彼女もただじっと俯いていたが、やがて何かを決心したのだろうか、小さく息を吐いて、再び私に向き直る。
涙に濡れるその瞳は、誰かに必死に縋りたいようにも見えた。
「……えっと、じゃあ…、私の話、聞いてもらってもいい……?」
ポツリポツリと紡がれるその言葉に、私は小さく、力強く頷いた。
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