第3話 流れが変わる前のひと時


 私が声を発したと同時に、辺りの空気がしんと静まり返る。…いや、正確に言えば元々辺りに人はいないので、ただでさえ静かだった空気が、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥るほどに静寂になる。私もそのまましばらくは黙ってグラスの中の氷を見つめていたが、何かしら返ってくると思っていた店長の言葉が中々返ってこないのと、この静まり返った空間をとりあえずどうにかしたく思い、私はチラリと横にいる店長の顔を盗み見る。


「…………」


 店長はキョトンとしたような、ぼーっとしたような、はたまた真顔のような、よく分からない顔で私を見ており、私と目が合うやいなや、いつもの優しい表情から少しだけ眉が下がった、困ったような顔になる。


「…えっと。カ、カナノちゃん?ごめんね?ちょっとだけ…痛いかも…」

「普段の店長からは考えられない辛辣な言葉だけど、確かに今のは私の切り出し方が悪かったわ。だけど違うから。この世の真理を解き明かしたとかそういうのじゃないから安心して?」

「なら良かったぁ。でもカナノちゃんって割と誇張する癖があるよね~」

「あなたも大概だけどね?」


 私の言葉に店長がふふっ、と小さく笑う。先ほどの冗談からも分かる通り、店長は楽しいことが好きであり、普段から冗談や、物事を誇張して表現することが非常に多い。そんな人と接していれば、影響されてしまうのも仕方がないと言えるだろう。本当に誰のせいだと、目の前の女に言ってやりたいところだ。まあそんな店長との会話が心地いいと感じてしまっているのも事実ではあるが。


「それで、この世界を理解したってどういうこと?」


店長が興味津々の顔で私に尋ねてくる。


「…店長はさ、なんか、子どもの頃の夢とか願いが叶ったことってある?」

「夢?う~ん…。あ!自分の店を経営したいっていう夢が叶ったよ!」

「かっこいい男の子とかわいい女の子と、っていう不純なの付け足し忘れてるよ」

「ちょっ!?べ、別にいいじゃん!人の夢なんて基本的に不純なものなんだよ!?」

「いやなんてことを言うんだよ」


 顔を真っ赤にする店長に、私は呆れながらツッコむ。人の夢というと、尊いとか美しいとかそういった言葉が似あうが、人の欲望という意味でなら確かに不純という言葉のほうが合っているのかもしれない。まあ夢と欲望って紙一重みたいなところがあるから一概に違うとは言えないか。知らないけど。実際あのサラサラヘアーの男の願いもかなり不純だったし。


「でもどうしてそんなこと聞くの?」

「いや、ここに帰ってくる途中で、何か子どもの頃の願いが叶ったみたいな感じの話をしている人がいたもんだからさ」

「うーん…。子どもの頃の願いが叶うことはそこまで珍しい事でもないような気がするけど…」

「いやまあ確かにそうなんだけど、何かその人の言っていた願いが、普通だったら絶対に叶わないようなものだったというか…」

「…?」


 店長はあまり要領を得ないといった表情でほっぺに手を当てている。まあこれに関しては私の説明の仕方も悪いのだろう。しかし、あの男の浮気の願いを事細かに店長のような女性に話すのも、お互いにいい気持ちはしないだろう。


 私は一旦大きく息を吸い、呼吸を整える。最初からそうすればよかった話だが、やはり私の結論を一言で言ってしまった方が手っ取り早い。さて、店長はどんな反応をするのか。


 私は店長の大きな瞳を真っ直ぐに見つめる。店長も私のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、私の目を真っ直ぐに見返す。私はゆっくりと息を吸い、そして、




「…この世界はさ、人の願いが絶対に叶っちゃう世界なんじゃないかな」




 私は努めて冷静な顔でそう告げた。


 先ほどと同じように、時間が止まったかのように空気が静まり、唯一、静かな店内を彩っていたBGMさえも遠くに聞こえるような錯覚に陥る。


 そんな訳ないと笑われるかもしれない。痛いとまた馬鹿にされるかもしれない。しかし私の胸の中にあったつかえは取れた気がする。私は言ったのだ。


 店長は真面目な顔で私を見つめる。そしてゆっくりと口を開き…




「…願いが絶対に叶う世界なら、すごくいい世界なんじゃないの?」




キョトンとした顔で、そう言った。


……

…………確かに。確かにそうだわ。


「確かにそうだわ」


 心の声とまったく同じことを口にしてしまう。私の今の顔は、さぞかし間抜けな顔をしているのだろう。


 店長も私の、今気づいた、といった顔を見ておかしくなったのかくすくすと笑う。


「ふふっ。カナノちゃんがいつにも増して真面目な顔になるものだから、どんなすごいことを口にするかと思ったら…。やっぱりカナノちゃんは可愛いね!」

「可愛いとか言うのやめてください。いや、私もちょっと色々考えすぎてたかもしんないわ」


 そう言いつつ、今までの決め顔を思い出し、私はこめかみに手を当てる。店長のマジレスによって、今までこの世界について考えていた私の脳内が、霧が晴れていくようにスッキリしていくのを感じた。


 そんな私をよそに、キラキラした瞳で店長は上の方を見つめる。


「でも願いが叶う世界かあ。ほんとうにこの世界がそうなら、みんなすっごく幸せになれるよね!」

「いや、この世界の住人全員が綺麗な願いを持ってるとは思えないから、それはどうかねぇ」


 私の言葉に店長は、確かに!と顔を青くしている。本当に表情豊かな人だ。私も店長くらいほんわかしていれば、いろいろ考えなくて済むのにと、羨ましくすら思う。


 店長の言う通り、もしこの世界が自分の願いが叶う世界だったとしても、それはとてもいいことであり、私には関係のない話だったのだ。人にはそれぞれの人生があり、それぞれの生き方があるのだから、実際に願いが叶った人がいたとしても、私がどうこうする話でも無かったのに。どうして私はあんなに真面目に考察していたのだろう。やはり日々の生活に退屈して私も知らず知らずのうちに刺激を求めていたのだろうか。自分で自分に呆れ、私は大きなため息を吐いた。とりあえず私のくだらない話に付き合わせてしまった店長には謝らないといけない。


「なんかごめんね。私の茶番に付き合わせちゃって」

「ううん。全然大丈夫だよっ!むしろカナノちゃんとお話しできて私もうれしいし!」

「いや、くだらない話ならいつもしてません?私たち」

「そうだけど!私はもっとカナノちゃんとお話したいの!」

「…まぁ話くらいなら全然してあげますけども…」

「ほんと!?やったぁ!言質取ったからね!」

「あぁ、はい」


 …私と話すだけで満足するとか、安上がりな女だな、この人。ていうか店長私のこと好きすぎでしょ。まぁ別にいいんだけども。


と、会話がひと段落ついたその時、




カランカラン




来客を知らせてくれるベルが、私が来た時と同じように、控えめに鳴り響いた。


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