夜を駆ける
伊奈
夜を駆ける
小さなアラーム音で目が覚めた。傍らで鳴っているスマートフォンを止め、僕はなるべく静かにベッドから起き上がる。時刻は午前零時。出る時間だ。
適当な服に着替えると、僕はしゃがんで部屋の床に耳をあてた。この家の人々はみんな寝てしまったのか、しんと冷たい沈黙しか聞こえない。行くなら今のタイミングだ。
部屋を出て慎重に階段を降りると、玄関までもう少しだ。動きやすいよう運動靴を履き、扉の前に立つと僕はゆっくりドアノブに手をかける。カチャリとラッチの外れる音が心臓に悪い。細い隙間に体を滑り込ませて外に出ると、開けるのより時間をかけて扉を閉めた。
舗道に出てアスファルトを踏みしめると、硬い感触が足の裏に返ってきた。一、二歩弾んでから駆け出すと、頬に心地よい風を感じる。街に自分の足音だけが反響しているのがわかる。体もスピードに乗ってきて、どこにでも行ける気がした。
打ちっぱなしのコンクリートでできた階段を降り、小学校の裏手の金網を飛び越えれば目的地まではすぐだ。やがて目の前に大きな木が現れる。その下に少女の姿が見えた。近づくと向こうも僕に気づいたようだ。手を振ってきたのでこちらも振り返す。
「こんばんは、グリザ」
声をかけるとグリザベラはきゅっと目を細めて、こんばんはと返す。そして、ふと視線を空の方に向けた。
「今宵は満月だね」
グリザベラにあったのは一ヶ月前、今日と同じように青白い満月の晩だった。
夜中に小学校の裏手を歩いていた僕は、大きな木の下で少女を見かけた。他人のことは言えないけど、こんな時間に外にいるのは不自然だと思った覚えがある。
十七、八歳ぐらいだろうか。大人へ成長する途中の、幼さと凛々しさをあわせ持った顔立ちだった。眼はややつり目で、柔らかそうな髪は月の白っぽい色に透けている。
「――こんな夜中に、何してるの」
ほんの気まぐれだった。木の前を通るついでに話しかけると、少女は顔を上げてこちらをにらんだ。なんとなく猫みたいだなと思った。
「……あなたこそ、何してるんですか」
彼女は目を離さないまま、冷たい口調で言い返す。当たり前だけど、警戒されているようだ。
「なんだろ、夜の散歩って言ったらいいかな」
軽い調子で言うと、彼女は何がおかしいのかくすりと笑った。
「じゃあ、私も夜の散歩をしてるってことで」
ふっと、僕と彼女の間の空気が緩んだ。少しだけしか話してないけど、夜の散歩という奇妙な共通点が僕と彼女を結びつけてくれた気がした。
僕は黙って彼女の隣に並んだ。散歩じゃなくて、彼女ともうちょっとだけ話してみたいと思った。彼女の方も興味を持ってくれたのか、こちらに身を乗り出してくる。
「名前なんていうの?」
彼女に訊かれて、僕は少し迷った。別に知らない人に名前を明かすのが嫌なんじゃない。ただ、僕にふさわしい名前が思い浮かばなかったからだ。苦し紛れに僕は思いつきで答える。
「じゃあ、『ハイド』で」
「ハイド? ひょっとして、ハーフ?」
「まさか。単にそう名乗りたかっただけだ」
彼女はしばらく不思議そうに首を傾げていたが、やがて何かを悟ったように小さくうなずいた。
「……じゃあ私のことは『グリザベラ』、グリザって呼んでください」
「グリザベラ?」
僕が聞き返すと、彼女は木の下から飛び出しこちらを振り返った。羽織っていた灰色のくたびれたパーカーが、風に吹かれてふわりとたわむ。
「一番好きな猫の名前なんです」
満月に照らされる道をグリザベラは速足で、でも音を立てずに歩いていく。僕は黙ってその後ろをついていく。いつも通りの夜の散歩だ。
僕らは最近、たびたび夜の道で会うようになっていた。別に約束している訳ではないけど、月の見える夜なら小学校裏の大きな木の下に、まるで待ち合わせるようにしてグリザベラは立っている。そして合流すると、グリザベラを先頭に夜の散歩が始まる。行き先はだいたいグリザベラの気まぐれで決められる。終電を迎えた駅の方だったり、うら寂しい神社の森だったり、その目的地は本当にバラバラだ。
今日は国道沿いにずっと進んでいくつもりらしい。静まった二車線の道路を横目にグリザベラは我が物顔で進んでいく。昼間ならそれなりの交通量なのだろうけど、今は車通りもなくひっそりとしている。それなのに信号は勝手に明滅していて、僕らを無機質に照らしていた。
「なんか、月の明るい日は元気だね」
前を行くグリザベラがあまりにも駆け足だったから、引きとめるように僕は言う。グリザベラは体ごと振り返ると、猫ですからとおどけてみせた。
「月に誘われて猫は出かけるものなの」
グリザベラは後ろを向きのまま器用に歩いていく。こうやって詩的なことを言うのも、猫だからだろうか。
「それに、満月の日は何か特別な力がある気がするから。潮を引っ張るのも、生き物が産まれるのも、全て月の力が関わっているんだって」
「へえ。そういえば、満月の夜は犯罪が多くなるとも聞いたことがあるなぁ」
相づちに軽く意地悪を織り込むと、グリザベラは少し不機嫌そうに眉をひそめた。そして前に向き直ると、また足早に先へと急ぐ。
「……悪い冗談はやめて」
「別に、冗談じゃないよ。グリザも気をつけた方がいい。僕だって、裏では何を考えているかわからないだろ」
「ハイドはそんな人じゃない」
「僕は悪い人間だよ」
「悪ぶらないで」
どうだろね。僕は薄ら笑いを顔に貼りつけて口笛を吹いてみせる。思ったより鋭い音が空気を切り裂いていった。その時、グリザベラがまた僕の方を向いた。
「じゃあ、ハイドは何を考えてるの?」
急に尋ねられて、僕は言い惑う。何を考えてるかなんて、本当のことを言えば自分でも判ってないのに。それを見越してか、グリザベラは畳み掛けるかのように言い足す。
「――私を殺す、とか?」
僕が黙っていると、グリザベラは頬を緩めて優しく笑った。細くなるつり目は、やっぱり猫みたいだと思った。
「もし、もし私がそう願うことがあったら。その時はハイドの手にかかるのも悪くない、って思うの、駄目かな」
「……別に、駄目じゃない」
でもその時はたぶん、僕も死ぬ時だ。なんとなく、そう思った。
それからしばらく、僕らは歩き続けていた。やがて道と交差した川にさしかかると、グリザベラはふらふらと河原へ降りていく。僕もついていくと、せせらぎの音が聞こえてきた。
水面は街灯の無機質な光をたまに反射するくらいで、あとは何もかも吸い込んでしまいそうな黒色をしていた。昼間に見かける生き物は、本当にこの中で息ができているのか心配になるほどだった。グリザベラは川の近くまでに行くと、その場に座り込んだ。どうしようか迷ったけど、一人で立っているのも馬鹿らしくて僕も隣に座った。腰を下ろすと、枯草の匂いが立つのを感じた。
「夜の川って、なんかいつもとは違うよね」
何の気になしにつぶやいた言葉に、グリザがすかさず反応した。
「川だけじゃない。木々も、道も。この街全体が夜になると変わる気がする」
あと、私たちも。付け足された言葉は、夜の静けさに溶け込んでいった。たぶんこれを聞いたのは、僕とグリザの二人だけだ。
ふと、変わったのなら、変わる前のグリザはどんな姿だったのか気になった。いや、正直に言えば、ずっと気になっていたはずだ。
「――グリザは、昼はどうしてるの」
訊いた瞬間、グリザベラの呼吸が一瞬止まった。その後にグリザは無駄に平静を装った口調で言う。
「ハイドは、ハイドはどうなの? 昼間はどうしてる?」
「……知らない」
「じゃあ、私も知らない」
乾いた笑い声が聞こえた。隣を見ると、グリザベラは水面を見つめたまま肩を震わせていた。僕は黙ってその横顔を眺める。グリザベラはその時、無表情で、醜い老女のように生気が無かった。
「だって私、昼間は違う生き物だから」
僕も、昼間は違う人間だよ。そっと胸の内で僕は漏らした。
夜が明けたら僕らは別れて、それぞれの家に帰らなきゃいけない。そして何事もなかったかのように、窮屈で、混沌とした世界で生きていかなくちゃいけない。だから今、僕もグリザベラも夜をさまよっている。夜にもう一つの自分の置き場所を探そうとしている。
不意にグリザベラが、稲妻の音がするとつぶやいた。視線を上げると、遠くの空がうっすら光ったのが見えた。そういえば夜の天気予報で、西から雨雲が近づいてきていると聞いたのを思い出した。もうじきここも雨が降るのだろう。
横を見るとグリザベラは膝を抱えて、怯えるように顔をうずめていた。雷が怖いの? と訊くと、腕の隙間から目をのぞかせて、猫だからと返した。冗談のつもりで言ったのだろうけど、その弱々しい口調がかえって気になった。
その時とっさに僕は、大丈夫だよと声を掛けた。気休めな言葉だけど、無責任に、身勝手に、グリザベラを救えたらと思った。グリザベラは少し驚いた顔をして僕を見たけど、やがて穏やか笑った。
「……ありがと」
そう言うと、グリザは座ったまま僕に近づいた。肩が当たるくらいまで近づくと、そっと彼女は僕に体重を預けてくる。無意識のうちに僕はグリザの手を握っていた。耳元でグリザベラの息遣いが聞こえて、横を向くとグリザベラの顔がすぐ近くにあった。グリザの目が街灯に照らされて湿っぽく光ったのを見た時、僕はほとんどためらわず彼女にキスをした。甘いような苦いような、不思議な味がした。
最初はぎこちなかったけど、二度三度と短いキスをするたびに少しずつ唇がなじんでくるのが分かった。グリザベラも何も言わず、僕の唇をついばむ。それは恋人同士がするものというより、お互いの傷を舐めあっているような、そんなキスだった。
このまま夜が明けず、ずっとこうしていられたらいいのに。そう願わずにはいられなかった。それくらい夜の、たった数時間の逃避行は優しくて、グリザベラとの距離は温かかった。
朝、けたたましい目覚ましの音で目が覚めた。重い瞼を無理やり持ち上げると、灰色の光がカーテンの隙間からこぼれていた。どうやら雨が降っているようだ。僕は乱暴に目覚ましのスイッチを切る。
着替えて階段を降りると、家族がもうそろってテーブルを囲んでいる。いつもの席に座れば、そこは飽きるくらい見た朝食の風景だ。トーストに塗ったアヲハタジャムさえ、いつもと同じ味で笑えてくる。
ただ黙々と、僕は朝食を済ませていく。食べているうちに意識がどんどん分離していくのがわかった。本当は席についているのに、頭に浮かんでいる情景は後ろから僕を眺めるような、そんな映像だ。
食べ終わって身の回りの支度を終えると、少し早い時間に僕は家を出る。いつもは最寄り駅まで自転車なのだが、雨の今日は歩くしかない。軽い憂鬱を引きずって、僕は街へと出た。
駅まで続く国道を僕はただひたすら歩く。車道ではひっきりなしに車が通り、薄汚れた水しぶきをそこら中にまき散らしていた。歩道を行く傘の数も多くて、皆が思い思いの場所へ向かおうとしている。僕も今、その景色の一部なのだと思うと、たまらなく息苦しい感じがした。
その時、目の前から迫る傘の群団が目に入った。どうやら女子生徒たちが固まって歩いているらしい。僕が脇に避けると、女子生徒たちも僕をかわすように端を歩く。一番後ろの子とぶつかりそうになって傘を持ち上げた時、相手の顔がちらりと見えた。その子はぼうっとしたまま、うつむきがちに通り過ぎていった。
女子生徒たちとすれ違った後、僕は変わらず国道を歩き続ける。やがて橋の上まで来た時、僕はその場で立ち止まった。そういえば、さっきすれ違った女子生徒はつり目だったなと思い出した。どうしてか、あのつり目の感じに覚えがある気がした。
夜を駆ける 伊奈 @ina_speller
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