脱走者
踝から発信機を取り出し自社の清掃員に化けて以来、津村は大塚駅の近くの雑居ビルに息をひそめていた。そこはフェンス外のエリアで以前は会員制の洗体業を行っており津村も何度か訪れたことがあった場所だった。数年前のフェンス建立に際して立ち退きしビル自体が空っぽになったことは知っていた。
昨日建物への侵入には成功した。思っていた通り監視カメラのカバーする範囲は限界があり、死角を縫って移動できる導線を把握することができた。ただし本社機能のある4階へは個々の認証プロセスが必要であり、清掃員のIDでは入室は不可能だった。
また石川が出勤していなかったことも不運だった。警備室に忍び込んで特別オフィスの出退勤記録(ここだけ紙媒体で管理をしている意味が分からなかったが津村としてはありがたかった)を覗いたが当日は記録が無かった。その代わりに女子更衣室の「元同僚」のバッグに置き土産をしてきた。俺はまだ生きているというメッセージを込めて。
会社のデータは基本的にスタンドアローンになっているので出勤表を持ち出すには会社のPCからのアクセスが必要になる。津村も自分のPCにリモートからアクセスしようと常日頃からバックドアを仕込もうと努力はしていたがそのたびに石川に感づかれ注意を受けた。
だからあえて危険を冒して本社に乗り込む必要があった。しかし4階に行くことが出来なければシフト等のデータを見ることができない。手っ取り早いのは監視カメラの映像を中継できるように細工をしてフロアを監視することだった。ある程度の周期が見えてくれば狙った人間を殺すことくらい造作もない。
そういうわけで侵入の際に監視カメラのシステムにはバックドアを仕掛けてきた。そのバックドアのテストとしてメッセージを残したのだが、相手はそれをしっかり受け取ったようだ。監視カメラの映像からもバッグに仕掛けた盗聴器からも中身を確認する様子が確認できた。
4Fのフロアに入るにはキーカードを用意するかフロアごと電源を落とすかの二択だった。ただし、後者の場合はすぐさま予備電源に切り替わって警備システムだけが生き返ることになる。となるとキーカードを入手してトイレで待ち伏せをするほか考えられない。おのずとメンバーもしくはオペレーターを生贄にする必要があった。
配線図を観ながらひとりごつ。この施設自体は相当古い。後付けされた予備電源と通常電源の2系統になっている筈。では両方とも同時に切ってしまうのはどうだろう?
幸いマニュアルは電子化されており警備室のPCに保管されていた。警備室のPCは常時ネットワークと繋がっており端末を乗っ取ることは容易だった。今津村は監視カメラのシステムとアラートシステムの両方を遠隔で操作することができる状態だ。
残すはIDカード問題である。IDを所持していて一番手が掛け易いのはオペレーターだ。戦闘訓練もしていないし暴漢に襲われた際の対策も行っていない。とはいえオペレーターとて手籠めにできないほど津村の体力と思考力は弱ってきていた。残っている抗体は1本のみでこれを使い切れば後は獣になるだけだ。
手元にあるクロスボウを眺めた。ビルから退去する際に廃棄処分扱いを受けた装備を格納するコンテナから拝借してきたものだ。見るからに新しいので、恐らく誰かが手違いで廃棄に回したのだろう。この会社は何もかも杜撰だ、以前からそう思っていたが今の津村には全てがありがたかった。
今の津村は石川への復讐心、延いてはすべての同僚への復讐心だけで生きているといっても過言ではなかった。それ以外のことは全て面倒なこととして頭の奥にしまっていた。病院で出会った女のことも、感染のきっかけになった女のことも、自分の性格を歪めた母親のことも全て脳にある未決の箱にぶち込んだままだった。
日に日に体の痒みが増していく、そして体感温度が熱い。残るは食欲だけだった。時間の問題だ、早いところ自体を解決して「人間」として死なないといけないと考えながら赤黒くなった腕に抗体入りの注射器を突き立てた。
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