妻の視点

昨日は物凄く疲れたような気がする。買い物に母に夫の話に・・・夜一度起きた気がするが気がついたらまた寝てしまったようだった。

朝起きると隣には夫がいた。そうだ、今日は休みだったと思って二度寝をしようと思った矢先にインターフォンが鳴った。

急いでリビングのディスプレイを見ると私服の男性が二人立っていた。寝室に戻り夫を起こして事情を説明する。夫がディスプレイを見て何かを思ったのか受話器を取り会話をする。

「わかりました。準備して伺います」というと受話器を置いた。

「どうしたの?仕事の話?」

「違う、お母さんが殺されたかもしれない。遺体の確認をしてほしいって」


一瞬何を言っているか分からなかった。母が殺された?昨日夜ご飯を一緒に食べた母が?と思ったが思いの外しっかりした思考だと自分でも思った。

顔は昨日風呂に入らないで寝たのでメイクをしたままだったから問題なかった。夫は職業柄招集をかけられることもあるので外出用の最低限のセットを持って玄関で待っていた。髪の毛を少し直して家を出ると1階に私服の警官が二人立っていた。車に乗って早々警察手帳を見せられた。

「朝早くにすみません。実は昨日夜、高田馬場で殺人がありまして、所持品の中にお母様の免許証と保険証が入っていたのですが・・・」

言葉は頭に入ってきて理解はできるが状況がいまいち掴めなかった。昨日食事をした後誰かに襲われたのか?くらいしか想像ができなかったが、そこから先の本人の生き死にに関しては全く考えが及ばなかった。


高田馬場の戸塚警察署に着くと身分証明を求められた。髪を整えるので免許証等を持ってこれなかった。夫が会社の社員証と免許証を提示して自分の身分を証明してくれた。霊安室への入室が認められると部屋のベッドに母くらいのサイズの袋に入った何かがあるのに気が付いた。

「俺が見ようか?」

そう夫が聞いたので自分も見ると伝えた。別の署員が袋を開けると母の顔があった。頭部には包帯が巻かれていたが顔の形状はわかる。間違いなく昨日一緒に夕食を食べた母だった。


突然足の力が抜けたが、それを予想していたのか夫が支えてくれた。悲しいとか辛いとかそういう感情ではなく単純にびっくりして腰が抜けたからだった。

不思議と悲しみは湧いてこなかった。もっとも、昨日料理中にそういった話をしていたのもあり「もしかしたら死を意識しているのか?」とも思っていた。まさかこんな突然それが訪れるとは思わなかったということでびっくりしたのだった。

「母です、間違いないです」と夫は署員に伝えた。

その後諸々の手続きと昨夜の経過の話をして解放された。夫には別途話があるとのことで自分だけ帰宅することとなった。


どうしよう、何もすることがないなと思いながら駅まで歩いた。いや、正確に言えば葬儀とか銀行口座の凍結とか携帯電話の解約とかクレジットカードの利用停止とか、本人に代わってやらないといけないことは沢山あるはずだった。ただ、どれから手をつけるかというか、そんなことをしている場合か?という疑問を先に解決しないといけないと思った。


そもそも私は何故こんなに冷静なんだろうと疑問に思った。大切な人を突然失うのは初めてではなかったし、大切な人の命を終わらせた人が今の自分にとっては大切な人だからかもしれない、と気がついた時には駅のロータリーに到着していた。

私には大切な人がまだ残っている、その人のためにしっかりしていないとという気持ちが私をこの世に繋ぎ止めているのかもしれないなと思うと少し元気が出た。夫は何の話をしているのか?帰ってきたらあとで聞いてみよう。遺体の処理に関して警察と相談をしているのか、はたまた会社の検死官を呼んで検死をするかどうか相談しているのだろうか。


ふと前を見ると優しそうなお父さんとお母さんの間に小さな女の子がいた。女の子はお母さんを見上げて何か話している。それを見てお父さんも笑っている。それを見た瞬間急に涙が出てきた、止まらなかった。

私がされたかったこと、我慢してきたこと、それは守ってくれる人に暖かく包まれることだったのだと気がついた。


暫く泣いていると夫から電話があった。

電話を取って喋りたかったが声にならなかった。それを察知したのか「すぐ行く。どこにいる?」と言われた。馬場、ロータリーの二言しか言えなかったがそれで理解したらしく通話はすぐに終わった。


通話の後、一人の女性が近づいてきた。駅前に綺麗な格好をしてよく立っているキリスト教系の新興宗教の人間だった。

「どうしたんですか?何か悲しいことでも?」と聞かれたので思わず「母が…殺されてしまって…」と泣きながら言っていた。気がつかなかったが私は泣いていた。それが見知らぬ人に母を殺されたからなのか、それとも母や父から愛情を注がれることがなかったことを理解したからなのか分からなかった。


泣き続ける私を受け止めたのは夫だった。「すみません、さっき母が亡くなったことを知らされて動転してるんです」と夫は女性に話をした。

それを受けて女性は「そういう時は聖書を・・・」とリーフレットを渡してきたが「我々はカトリックのクリスチャンです。聖書のことも理解していますし、今は死んでも神の国にいけないことも理解しています」と夫は言った。


そのままタクシーを捕まえ家まで帰った。夫が紅茶を淹れてくれた。おそらく安定剤がいれてあるのあろう、独特の味がした。


夫から警察で話をされた情報を聞いた。母は死ぬ直前に暴行を受けていたという。頭を銃で撃たれたのが直接の死因だったが、その前に腕を折られていた。母も抵抗したらしく、母の爪には相手の皮膚の組織が残っていたそうだ。その組織から犯人が割り出せるはずであるということだった。

母を殺した人間がいる、それが気がかりだった。理由はともかくそういう人間が普通に歩いていることを考えると恐ろしかった。

「あとは警察がやってくれる。犯人が捕まったら絞首台にかけてもらおうな」とつまらないジョークを言ったので肩を殴った。

「貴方が殺してくれるんじゃなかったの?だったらその犯人も殺してよ」

思わず本音が出てしまった。私は自分の復讐を、自分に変わって夫にしてもらおうとしている。自分の手は汚さずに、何と卑怯な人間なんだと思った。

「そしたら満足か?」

「ごめんなさい・・・ちょっともう何が何だかわからなくて・・・」

「大丈夫、この国の警察は優秀だから、しっかり犯人見つけてくれるよ」

本当は何を言いたいのか自分でもわからなかった。ただ「母が殺された」という純然たる事実がそこに横たわっていて、ただそれを眺めている状態だった。


そう思っていると少し眠くなってきた。きっと夫が紅茶に混ぜた安定剤のせいだろう。人道的には最低な行為だったが、こういう時だけはありがたいと思った。そしてソファに横たわり闇に包み込まれる瞬間を待った。

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