五月十九日

翌日、病院実習を無断で休んだ。


外科や臨床系は休んだことがない、なんてもう真木に言えない。

浅はかな考えで、知識を狭めていた自分に嫌気が刺すを通り越して殺したいとさえ思った。今この瞬間に過去の自分と対峙できるならば刺し違えてでも殺してやろうと思った。否が応でも過去の自分とは連続性があるのだから過去を否定すれば今を否定していることと変わらない。

自分のような人間は医師になるべきではない。

頭を巡った数多の否定は、ただそれ一点に集約された。

授業は休んでも自分で勉強すれば追いつけるが、病院実習は違う、あれは実際の医療現場なんだと先輩が言っていた。

授業にも真面目に出ず、その上実習も休んだ。しかも無断で。救いようがない。

昨日開いたままのノートの前から一歩も動いていない。

ただ頭を項垂れて、呆けていた。もうこの状態で日付が変わった今日は十五時間が消えた。

昨日から最後のページを見つめ続けてもう何時間になるか、睡眠不足の頭では考えられない。無為に時間を溶かして動けないでいる自分にも嫌になる。

実習に行けなかった自分にも、連絡一つできない自分にも、一人の人間の死にここまで打ち拉がれている自分にも。

理性ではわかる、しかし感情では理解できず処理し切れない、形の見えない悲しみが体の周りを覆って、悲しみで窒息してしまうのではないかと錯覚したほどだ。

そうしてまた、遺族でも親族でもない、況してや親友と呼びあった仲でもない自分が真木の死に悲しんでいること自体にも資格がないと感じて、もう全てが嫌になった。

そのまま横になって目を閉じる。

傷心の影に隠れていた眠気によって現実から意識が引き剥がされていく。



体の広範囲に皮疹が及んだものの、まだ話せる状態の真木がそこにいた。

心電図の規則的な音。人工呼吸器の駆動音。

機械音だけが響く病室に、真木と僕は二人きりだった。

「苦しくないか」

なにをわかりきったことを、と嘲笑われそうな質問だ。

「苦しいに決まってる」

真木は、可笑しいとでも言いたげにすこし笑った。

しばらく、人間の関与しない機械音同士の応酬が続いた。

真木の胸が上下する。心電図が規則正しく波形を刻む。

「死ぬのは、怖いか」

「しぬのはこわいよ」

穏やかな声音。続いて真木が話す。

「本当は、死にたくない。まだ生きていたい。

生きて、やりたいことがたくさんあるんだ。君に読ませる小説を書くのだって、いつか教授が言ってただろう、君とのnature掲載も。もちろん医者になって、人助けもしたい。憧れの自分の名前が入った白い白衣に袖を通したい……でも、もう全部無理だ」


その瞬間、心電図のアラームがけたたましく鳴り、病室の外から白衣が幾つも駆け込んでくる。次々と運び込まれる機械類、繋がれる管。飛び交うスタッフの怒声に、家族の叫び。僕に誰も目を向けない。居ないもののように、風景がページをめくる様に忙しなく飛び去る。




そこで景色が途切れて、辺り一面が闇に染まった。その闇が現実の闇だと気づいたのは、冷やされた汗に身震いしたからだ。全身が汗で濡れ、心臓は狂ったように脈打っていた。今のは……夢だ。僕は今、闇間に紛れて真木の夢を見た。

目を閉じる前は明るかった部屋ももうすっかり昏くなっていた。時間を確認する。午前二時。十二時間近く寝ていた様だ。今から寝ても仕方がない、と腹を決める。

床で寝ていたせいか身体中が痛い。それでも、きっとこの何倍も真木は痛かった。

そう思いながら体を起こす。

再び机の上の手帳に視線を注ぐ。

なあ、何で最後に、僕なんかの名前を書いた。

ああ……さっき、聞けば良かったな。


『しぬのはこわいよ、小林』


その一文が書かれたページを破りとった。

そうして残された手帳を静かに閉じる。

破った一枚を掌に収めて、持ち帰っていた白衣のポケットに入れた。

真木が憧れた、鮮烈な聖なる白の衣。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る