五月十八日
ノートは今、自室の机の上にある。
情けないが、開く勇気が無く四日ほどそのままだ。
大学が休みなので開けるなら今日にしようと、受け取った日から言い訳がましく日にちを伸ばしてきた。
黒色の革の表紙を纏ったその手帳は、室内灯の光を受けてしっとりとした質感を持ってそこに存在している。
真木が何度も触れたであろう表紙に、自らの手を滑らせる。
そうして、深く呼吸をして表紙を開いた。
『君に小説を書いていると言ったが読み返してみると恥ずかしいほどに小説の体をなしていないことに気がついた。
今更なおすのも気が進まないし、なにより時間がない。どうかこのまま渡すことを許してほしい』
表紙を開いてすぐに、謝罪の文面。
彼らしいと思った。再入院してから書き足したものらしく、ところどころ表記が安定しない場所があった。
次のページは随分前に書いたものらしい。
生前に見たことがある、丁寧な筆致が続く。
『冬に咲く桜を想うときの感情が、海を見る時のそれに似ていると気づいたのはいつだったか。
悴んだ手で花びらを掬った。雪に濡れた桜は、山荷葉のように玻璃の繊細さを纏っている。
それはまるで透明な絵画から剥がれ落ちた一片のように見えた。
いつだって透明なものに憧れた。透明はいつだって不確かだけれど、そこに在り続けて消えはしない。
紺碧の海に触れた時、碧を捕まえたと喜んだ。
でも両の手で掬ったそれに色が付いていないことを不思議に思った。
碧はどこに行ったのか。色はどこに消えてしまったのか。
後にそれらを至極真っ当な理由で説明してくれた人がいた。その人には悪いけれど、その説明を聞いても尚私は私で海の色を探したいと思った。
桜と海、私の中でこの二つは畏怖と郷愁、そして透明という点で共通している。
桜を見ると美しさに胸を打たれる。次いで、舞う花びらに短命の儚さを覚える。そして最後に怖さが胸に去来するのだ。
なぜ怖く思うのかはわからない。大きく根を張った力強い幹とは対照に、四方へ伸ばされた枝葉から小さく純潔な花びらが舞うこの生気の差がそう思わせるのかもしれない。
芽吹き、生長し、硬くなり、枯れる。生き物すべてに共通する事柄を圧倒的な美を持って体現しているからこそ死から逃れられない現実が言いようのない怖さを伴って襲ってくる。
桜が生の過程であれば、海は死後の象徴ではないだろうか。
眩しく
海面の美しさに気を取られて、その隙に一瞬でも水中のことが頭を掠めると足がすくんで動かなくなってしまう。いくら輝かしい生を送っても死からは逃れられないのだという呪いにも似た海からの言葉。
2つの事柄に共通点を見つけた時やっと気づいた。ああ、死が怖いのだ、と』
真木の繊細な感性でもって捉えられた死生観が綴られていた。
この柔らかさ。彼の書く文章の端々から感じていたものはこれだ。昏いものを内包しつつも、第三者に読まれる場合は相手が受け取りやすいような形に成形しておく真木のやり方。読む相手を選ぶような文章も、受け入れ難い内容のものも、ほとんど全て最後まで読ませてしまう。
読んでいる側も先入観を持って、色眼鏡で扱っていたはずが、読んでいるうちにその柔らかい外側に飲み込まれて絆される。
真木はその人柄の良さと、文章の巧みさで相手を丸め込んでしまう。
いつか真木が言っていた。
「言葉には神秘的な力がある。天国を地獄と思わせることもできるし、地獄を天国と思わせることもできる……って誰かが言っていた」と。
受け売りか、と言うと真木が
「小説家の仕事とは、完璧に作動する呪いを作ること。相手にとって最も効果的なやり方で、それでいて美しく相手を搦めとる。それが、人間だけが扱える特権、言語の素晴らしさだ」
熱を含んだ声で語られると、たとえ受け売りでも納得せざるを得なかった。
次のページを捲る。
白紙。次も白紙。その次も。
おかしいと思いつつ、また一枚ページをめくった。
目に飛び込んできたのは、明らかに具合が悪そうな揺れた文字。
そして律儀にも再び謝罪。
これも、最初の一ページと同じ頃に書かれた文だろうか。
『ここから先は読まないでも構わない。
本当は切り取ろうとも思ったが、君に渡そうとしているものを勝手に改ざんするのも気が引けたのでこのままにしておく』
この文から察するに、真木は僕に手帳を渡した後、僕が読み終わって真木の元に返されるまでは命が持たないと覚悟していたらしい。
真木が最後を覚悟した際の文。
背中が粟立った。
ページを捲る。
『からだがだるい、熱がさがらない、口がいたい、毛が抜けた。てつの味、いたい、げりが、血尿が止まらない。
粘性の高いだえきに血が混じる、戻しそうになる。こらえてくすりを飲む。
針でずっと刺されるようだ、全身が痛い』
見開き二ページにわたって短い文が罫線を無視してばらばらに配置されていた。見えた場所に今の状態を記しただけ、そんな印象。
思わず文字列をなぞった。
その苦痛に少しでも近づきたかった。
この手帳にだけ現れる真木の深いところに少しでも追いつきたかった。
大量の抗がん剤で癌細胞もろとも、己の骨髄を文字通り空っぽになるまで叩き潰す際の記録だろう。
数回に分けて浴びる十二シーベルトもの放射線。
原発作業員の被曝限度の五十倍もの放射線を浴びて、真木の体は内部から焼け爛れていた筈だ。
その痛みを想像ことはできる、しかし理解することはできなかった。
目を背けるようにページを捲る。
次の文字は二ページ開けて綴られていた。
文字は綺麗だ。最初の小説らしいものの時と変わらない。
大学で別れた後からの記述らしい。
『皮疹が現れる。念のため主治医に連絡。
すぐに来いと言われたので急いで向かう。
悪い予感が当たらないといい。』
『結果は遅発性の急性GVHD 。
すぐに入院。また無菌室。
このままGVHD にならず完治まで持ち込めると思っていたのに。
幸い今のところ皮疹だけなのでステロイドで様子を見ることになった。
このまま引いてくれ。』
『皮疹が指先まで広がる。痒いがこのまま悪化しないことを祈る。』
『息が、腹が苦しい。痒い。
紅疹は広範囲に及んでいるらしい。
腹水も溜まっている。
シクロスポリン、ステロイド。』
『母代筆
頭からつま先まで真っ赤に腫れる。
重い火傷のよう。
全身に及んだ風疹のような湿疹は水ぶくれになり、ところどころ破れている。』
母親の代筆を最後に、日記は途切れた。
病状が悪化したのか、最初は整っていた文字もだんだんと崩れていった。
その後は何度ページをめくっても真っ白なページが続く。
途中で捲る手を止めた。
この最後の記録は、推察するに亡くなる1.2日前。
流石にグレードⅣまで悪化した時にその状態を記せる精神状態ではなかっただろうし、その証拠に行われただろう処置も現れたであろう症状も記されていなかった。
全身に広がった水疱は押しつぶせば薄黄色のリンパ液を散らす。
触らなくとも弾けるそれによって全身が湿っていく。
潰れた水疱によって体は穴だらけだ。
外側は水疱や腫れによって、内側はサイトメガロウィルス腸炎によって体が崩れていく。健常な免疫機構であったならば十分太刀打ちできる程度のウィルスであるサイトメガロウィルスでさえ、GVHD を抑えるために行った免疫抑制剤により、戦える白血球が少なくなった真木の体は抵抗することができなくなっていた。
3日間で一五〇〇mlを超える下血は、ウィルスによって腸壁が荒らされた爛れたせいだ。
腹水が悪化して、喋れない。穿刺して抜きましょうね。
老廃物の排泄、血液の濾過といった機能を果たせなくなった腎臓の代わりに、機械で代行しましょう。血液透析もしましょう。
黄疸が現れ、総ビリルビンが十五を超える。
皮膚が、肺が、腎臓が、肝臓が、目が、食い破られていく。混濁する意識の中で生きながらに死んでいく自分を感じる。
外から、中から、攻撃されてその状態でもっと頑張れと薬を投与される。限界以上のことを要求されて体が悲鳴をあげる。もう頑張れない。血圧が危険域まで下がる。アドレナリンワンショット。心電図の波形が、数値が乱れる。
……そもそものGVHD が起こる確率が0.3%と高くないのにもかかわらず、最重症のグレードⅣまで悪化するという稀に稀が重なった己の状態を、真木はどう感じた。
体を動かせないにしろ、意識は最後まであったはず。
喋れず、動けない中で何を考えた。
何を思った。
怖い。
怖くてたまらない。
真木の母代筆のその後を、想像するだけで体が芯から震えた。怖くて動けない。意識があるまま食い破られていく己の体に、他人が無遠慮に針を刺し薬を流し込む。機械に繋がれる体。
身の丈を超える恐怖に、嘔気が誘発された。思わず手で抑える。その手も抑えきれない程震えている。
生理的な涙か何かが音も立てずに手帳に溢れた。
縋るような気持ちで、極力震えを抑えるために息を止めてページを捲る。
なにも書かれていないであろうこの先の空白を無心で捲る。
空白をめくり続けて、残り五ページほどになったのは手の震えが、些か許容できる範囲にまで収まった頃。
一度手を止めて深呼吸をする。
どうかこのままなにも書かれていないでくれという思いと、せめて最後になにか遺していてくれという祈りにも似た思を胸にゆっくりとページをめくっていく。
一ページ。空白。
二ページ。空白。
三ページ。空白。
四ページ。空白。
最後のページ。書いてあった。
文字を消そうとしたのだろうか。薄く、みみずのような線が、文字列を中心にページ全体に及んでいた。
揺れに揺れた、力のこもっていない一言。
辛うじて判読可能な文字列。
そこには、本当の真木がいた。生まれたままの姿の真木が、何の殻も纏わず、壁も作らずただ裸でそこにいた。
『しぬのはこわいよ、小林』
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