五月十一日
手を振る真木を残して講義に向かった四日後の今日。
僕は変わり果てた、もはや別の体の真木の姿を目にした。
真木が入院した病院は大学付属病院で、僕は偶然にも付属病院で実習中で、報せを受けると直ぐに病院のルールを、廊下は走らないというルールを当然のように破った。
親族以外の大勢の人間が廊下を埋め尽くしている。
静まり返った廊下に、病室から主治医のぼそぼそとした声が聞こえた。
少しして、陰惨な表情を湛えた主治医が出てくるとその後ろから目を腫らした真木の母親が入室を促した。
嗚咽しながら、入って、と一言。
病の発覚から約一年、家族にとってどれ程激動の日々だっただろう。白血病患者の寛解率は今でさえ八割を超える。しかし、希望であった造血幹細胞移植後、これからまた穏やかな毎日が以前と同じような日々が永劫続くのだとそう思った矢先の、拒絶反応。そして再入院。日に日に悪化していく我が子の病状を成す術もなく見つめ、世界から去る息子を見届けた母親はどれほど苦しんだだろう。
泣きはらした目元に、真木の面影を見た。
「安らかな眠りを、お祈りいたします」
そう、一言掛けるのが精一杯だった。
ぞろぞろと真木に関係する人間が足を踏み入れる。
小さな病室の中に十人以上の人間が所狭しと佇んでいる。最初は真木、と細く小さい声がするだけであったのにあっという間に嗚咽がその場を覆った。その音が塞ぐことのできない耳に容赦なく入り込んでくる。
移植後四ヶ月経ってからの移植片対宿主反応(GVHD:graft-versus-host disease) 、別名、逆拒絶反応。
外部からやってきた異物を外に追い出そうとする機構を通常の拒絶反応とすると、
同種造血幹細胞移植後に現れる逆拒絶反応は、移植をして、うまく造血幹細胞が生着した頃に現れる。
本来白血球は自分以外を敵と見做して攻撃する性質を持っているが、ドナーの白血球が患者の体を巡るようになると、ドナーの白血球の方が宿主である患者の白血球を他人と見做して攻撃してしまう。
これが、GVHDが逆拒絶反応と言われる所以だ。
GVHDは主に皮膚や、肝臓、消化器官に現れる。
皮膚の場合は皮疹、肝臓の場合は黄疸、消化管の場合は下痢という風に。
移植後百日以内に現れる急性GVHDと、百日以降に現れる慢性GVHDがあるが、その中でも幾つかに分かれており、真木は、急性GVHDの中でも遅発性急性GVHDに分類された。
定義通り、真木の体は四日前には内肘に一つ認めただけであった紅い発疹が全身に及んでいた。その上、顔は赤く腫れて目が閉じきっていない。
最初はⅠだったグレードも、この三日でⅣまで急激に悪化したらしい。
教科書で習っただけの薄っぺらい知識が、目の前の現実に際してなんの意味もないことを感じる。
外科臨床系以外の授業に真面目に出ていれば…GVHDじゃないのかと指摘できたかもしれない……講義に出ずに無理やりにでも病院に連れ込めたかもしれない。
己の不真面目さが、今ここに全て収斂されているように感じる。途轍も無い自己嫌悪が己を襲った。
ふらふらとその他大勢の人間を掻き分けて、親族、真木の前に立つ。
ここ。この、一点。
もう、ひとつの皮疹の境界線もわからないほど紅に覆われた皮膚を見つめる。
もしかしたらあの時点で内肘だけではなく見えない部分にも現れていたのかもしれない。
あの時、多少なりとも医学的知識を持った人間が真木の側に居たのに。
すみません、と言おうとして自分が謝って何になる。不真面目だった人間に、自分があの時気付いていれば……と謝られて、医師でもないただの学生に謝られて……家族はどう思う。
何も言わないほうがいい。というより何も言えなかった。真木本人への言葉も、涙も一滴も出てこない。
自分が異質なもののように思えて、嗚咽の響く病室の中、僕はただ一点を、内肘の破裂した水疱を呆けたように見つめていた。
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