五月七日

穏やかな風が頬を掠める。春特有の雰囲気が辺りを覆っていた。

大学の敷地内、僕はよく陽が当たる芝生の上、一本だけ植えられた樹の下で木漏れ日を肩に乗せて読書をしていた。

芝生の上を歩く際の特徴的な足音によって読書を中断された僕は、煩わしいなと思いながら顔を上げた。

「や」

軽く手を上げてこちらに穏やかな笑みを向ける人間がいた。

やけに白く、生気がない奴だな、と思ったものだ。

「なんだ、その警戒するような眸。まさか私のこと忘れたなんて言わないでくれよ」

掌をひらひらと振りながらこちらへ歩を進めてくる。

傍に来たと思うと隣に座り込んだ。

その横顔に見覚えがあり、

「真木か」

浮かんだ名前が口を突く。

「なんだ、覚えてるじゃないか」

「暫く見なかったから、仕方ない」

続きは読めなさそうだと諦め、栞を挟んで閉じ、芝生の上に置く。

「ああ、本読んでたのか。悪かった。長居はしないから」

「いや、いいよ。キリ良いから」

そうか、と呟いたと思えば直ぐに、そういえば、と話し始めた。

「今、内科学の講義の時間だろ、出ないの」

「外科系以外興味がない。それを言うなら真木もだろ」

真木の瞳が、ああそうでした、と落胆の色をみせた。

「いいよなあ、授業に出ずとも試験に受かるんだもんな」

「語弊がある、外科系は全部きちんと出てる」

「つまり極端なんだ、外科や臨床系はトップの成績で受かって、他の興味ない科目は落第ギリギリの点数で合格する。有名だもんな、その極端さ」

「へえ、光栄なことだ」

「羨ましいよ、私は。君のその器用さが」

「僕はお前のその真面目さが羨ましいよ、全科目の授業に出てつまらんレポートもきちんと提出して」

「はは、君レポートのセンス壊滅的だもんな」

「笑うな」


以前、本を読んでいるくせにこの程度のものしか書けないのか、君は人に読ませる文を書くが選ぶテーマが最悪だ、と教授に呆れられたことがある。

しかしそもそもセンスというものは先天的なものと後天的に獲得する類のものがあるが後天的に得るセンスというものはほぼ完全に知識量に比例する。

そして、出る授業を選り好みするような──知識の獲得において舐め腐った思考を保有するような──人間に神様は素晴らしいセンスは授けてはくれないに決まっている。

反対に真木は教授に、平凡な可も無く不可もない文を書くが何故か絵画を見ているような気分になる…それでいてテーマの選択も素晴らしい、と言わしめた輩だ。

なぜ真木に言われた文言についても知っているかというと、ただの雑用で呼び出しをくらい、学生間で『私利私欲の塊』という共通認識で有名な俗っぽい空気が漂う神経内科の教授の部屋に閉じ込められたからだ。


僕と真木のレポート内容についての批評から飛躍しいつのまにか教授お得意の妄想が始まり、「君たちはお互いの足りないところを補完し合えば将来nature掲載も夢じゃないぞ、是非クレジットに私の名を記してくれ」と学生の将来を嘱望しつつ何を己の欲望も混ぜているんだ、と言いたくなるような妄想を垂れ流されうんざりしたものだ。

もちろん神経内科は興味の範囲外なので教授の有難いお言葉については丁重に受け止めさせて頂き心の中のゴミ箱に直行させた。

しかし、真木がこの提案についてどう受け止めたのかは知らない。


静かになった隣人の横顔を見遣る。

通った鼻筋、細く端正な顎、優しさが湛えられた焦げ茶色の瞳。全体的に幸薄そうな、しかし一滴の綺麗さを落としたような顔。どこも変わりは───いや、眸が少し窪んだか。

「姿見ない間、なにしてたんだ。てっきり、辞めたのかと」

真面目に学校に来、授業にも出席し、レポートを提出し、臨床実習にも赴いていた真木。そんな彼が、去年の八月くらいからかれこれ一年ほど大学に顔を見せていなかった。

普段真面目な人間が、面倒くさいなどという陳腐な理由で休むわけもないだろう。

「実は、入院していたんだよ。大学付属に入院してたんだけど、なんの情報も来てない?」

「今初めて知った」

「君らしいよ。同期の何人かはどこで嗅ぎつけてきたのかいきなり病室に白衣姿で飛び込んできたんだけどな、実習中だろって追い返したけど」

入院、なるほど。入院していたなら体重が落ちて眸が落ち窪んでも不思議ではないな、と変に納得した。

「具合が悪かったのか」

そう訊けば、真木は己の中で何かを決心するように息を吐いた。

「ロイケミー」

暫し閉口し、口を開く。

「白血病、か」

「そう。白血病。採血実習あっただろう。その時の採血結果を見て教授から呼ばれたんだ。もちろん倫理的な観点からその場では流石に言われなかったけど、聞くか聞かないか訊かれて……訊かないわけないだろ」

そこで一息置いて、自嘲するように再び話し始める。

「だって明らかに深刻そうな顔してるんだ、あんなのずるいよ。でも、聞いた後は絶望感とかは無くて……ただ、あの先生よくここまで医者やってこれたな、っていうポーカーフェイスが下手くそな先生への呆れだった。我ながら変だなとは思う、でも全然現実味を帯びなくてさ」

元気に歩いて、笑い、喋る真木が横にいて真木が白血病患者だなんて思えなかった。宣告初期の真木と同じように、どこか夢を見ているような心持ちで話を聞いた。

「化学療法、あれ本当に辛いぞ。髪は抜けるし吐き通しだし、口内炎は痛いし、熱は出るし……教科書通り」

ほらウィッグ、と真木は頭皮を動かしてみせる。

「でも、そのおかげで造血幹細胞移植を受けられて今やっと四ヶ月目に入ったところ」

真木は指を三本立ててへらり、と笑ってみせる。


何故だかその瞬間、唐突に真木は白血病患者なのだという事実を現実として認識できた。

初めて、死を身近なものとして捉えられた気がした。

今まで散々教科書を読んで、実習で症例を見ても、症例検討をしていてもなんだか全て紙面上の出来事のように平坦に思われて、だから、特に癌患者は苦手だった。

手を尽くしても目に見えて成果が見えない。だから、救急に外科の科目に、逃げた。

自らが救ったと胸を張って思える、成果が見える科に逃げたのだ。

「造血幹細胞移植は、同種移植か」

「ああ、同種移植だよ。T-ALL。T細胞性急性リンパ性白血病だから、自家移植は対象じゃない」

そうか、と答えるのが精一杯だった。自らが逃げたフィールドで真木は当事者として闘っていた。

情けないが、こういうところで知識の選り好みをしてきたツケが回ってくるんだな、と因果応報を体感した。


特段、仲が良かったわけでもない、毎日行動を共にしたわけでもない。しかし、無言の時間を含めて一緒に居ると心地よかった。

そんな関係だった。


そういえば、いつか真木が言っていた。

自分も小説を書いている、と。

お前はセンスが良いから、いいんじゃないか。そんな返事をしたと思う。

無性に彼の書いた文を読みたいと思った。

今まで少しも関心がなかった真木の紡ぐ言葉に触れたいと、そう思った。

今真木は何を思い、何を考え、何に悩み、何に苦しみ、何を書くのだろう。

死と隣り合わせとなり、何か思考に変化はあったのだろうか。

健康だった時に読んだ真木の文章といえばレポートくらいで、自分より幾分も巧い。そう思うだけだった。レポートには数行程真木の考察やまとめが書いてあるだけでそこには真木の純粋な真木としての思考は載っていない。真木が真木として書く文章を読みたい。

「前に、小説を書いていると、言っていたよな」

「嫌だな、覚えてたの。忘れてくれて良かったのに」

「もう書いていないのか」

一抹の落胆を滲ませながら訊く。

「いや、書いてるは書いてるけど…」

「良かったら、読ませてほしい」

その時の真木の顔は忘れられない。

予想外だ、とでも言いたげな表情だった。

一拍置いて、耳を聾さんばかりの笑い声が弾けた。

あまりにも笑うものだから、なんだか恥ずかしいやら腹がたつやらで、

「なんで笑うんだ」

と不機嫌を滲ませれば、真木は一頻り笑った後で、まだ余韻が抜けないとばかりに笑い声に混ぜて咳払いをした。

「君があまりにも真剣な顔をしているから。そんな顔、試験前でも臨床実習でもしたことないだろう」

「そんなことない、真木が見てないだけだ」

そんなに真剣な表情をしていたのかと恥ずかしく思ったと同時に、死が迫った人間に対して生者が自然に行ってしまうであろうご愁傷様、お大事にといった憐れみを含んだ表情をしてしまったのかもしれないと自己嫌悪に陥った。これじゃあ真木が死ぬからその前に……最後に……と捉えられても仕方がない。

死ぬと決まったわけじゃない。今だって寛解していて、移植だって上手くいった。生着すれば、生きていける。これから先何度だって真木の言葉に触れることができる。

「やっぱり、いい。真木の書く文章なんてレポートで知ってるしな。わかりきったことを今更確認して僕が自ら傷つきにいく意味はないだろ」

幼子のようにむくれて大人気ないことをしている自覚は十分にある。

真木はそんな僕を見てか控えめに笑った。

「いいよ、今度持ってくる。その時にでも読んで」

返事も何も出来ずにいると真木が立ち上がった。服についた芝生を払うようにすると、よし、と一言呟く。

「もう、時間だ。次は君の好きな臨床系の授業じゃなかったか」

「真木は出ないのか」

「私は、帰るよ。次もトップ取れるようにちゃんと受けてこいよ」

当たり前だろ、と返しつつ僕も立ち上がる。


芝生の上に置いたままの本を取ろうと屈んだ時、真木の腕に気づいた。

「それ、どうしたんだ」

指をさすと、真木もそちらに注意を向ける。

内肘のあたりに、赤い発疹ができていた。

「さあ、なんだろう。蚊にでも……季節が違うか……蕁麻疹かな」

「一応、主治医に相談しとけよ。なんかあったら、怖いだろ」

「そうだね、そうするよ」

ちょうど鐘が鳴って講義の終了を告げた。

「じゃあ、そろそろ。またな真木」


穏やかな笑顔は出会った時から変わらない。何かに堪えているような笑顔。

いつも真木が何に堪えているのかわからなかった。

今でも、わからないままでいる。

肩に木漏れ日を受け、微笑に一粒の哀しみを落としたような表情のまま、胸のあたりで控えめに手を振る真木の姿。


これが僕が見た生前最後の真木だった。

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