第3話 2月9日 檸檬
君が使っていた消しゴムを、書店で買おうかどうか迷っている。
小さくて白い消しゴムだったと思うが、僕は中学生の頃からなんとなく黒い消しゴムを選んでいた。
別に「なんとなく」なのだから、黒い消しゴムである必要はないし、君と同じ消しゴムを選んで買うことにも、それほど抵抗感は無かった。
もしかすると君と同じ消しゴムを使うことで、僕は君と、世界の誰よりも深い関係を結ぶことができるんじゃないだろうかと考えている。
君はそんなことを言ったら笑うんだろう。
君は僕よりももっとたくさんの「良き友人」に恵まれ、家族はみんな君のことが大好きで、君はそうした関係を差し置いて、たかが消しゴム1個で、しかも書店や何やら全国あちらこちらで大量に売られている消しゴムの、その種類が同じだというだけの理由で、僕と君の関係がそれらに勝るものになるとは信じないだろうから。
アイドルが好きなファンもそんなことをするんだろうかと考えてみるけれど、僕には好きな芸能人はほとんどいないし、その芸能人と同じものを買おうと思ったことはないし、たとえあるとしても、僕が君と消しゴム1つによって深い関係になりたいと考えるのは、全く違う事柄だと思う。
だから僕は君の使っていた消しゴムを買うことで、君と同じものを持っているということで身近に感じたいというよりも、その消しゴムを握りしめることで、君と同じになりたい、いや、僕は君になりたい。
君はそんなことを言われたら、「気持ち悪いよ」と苦笑いするんだろうなと思うけれど、でも僕はそれでも構わないし、僕はそれでも君のことが好きだ。
何より、僕が君のことが好きだということ以上に、気持ち悪いことなんてあるだろうか。
僕は君が好きだし、あわよくば君になりたいし、君が僕の名前を覚えていてくれれば嬉しい。
もし僕が君と例えば旅行に行くことになったとしたら、僕はそれを断るかもしれない。
僕は君のことが好きだけれど、でも君を間近に見てしまったら、その輝きに当てられて、きっと旅行を楽しむことなんてできないからだ。
僕は君に「美しい」とは言わない。
そうした容貌への称賛は、君という存在の崇高さを、単なる顔面の中の数学的な黄金比の問題に落とし込んでしまうから、僕は君に「美しい」とは言わない。
ただ、君という圧倒的存在の前に沈黙するしかないのが僕なのだから、何も言わずにそっとそれを嘲笑ってくれても構わない。
僕は消しゴムを手に取って、買おうと決めた。
いつも買っている黒い消しゴムを右手に、君の使っている白い消しゴムを左手に。
僕は白い消しゴムを買おうと決めた。
黒い消しゴムをそっと棚に戻すとき、少し僕はどうかしていたので、それを白い消しゴムの方に置いた。
きっと誰かがこれを見て小さく驚く。
誰かに見られたとき、きっとこの黒い消しゴムは、汚れなき消しゴムたちの中で爆発するのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます