第1章『そして少女は塔を目指した』
01.始まりは死体とともに
『陽乃』
大好きな、声。顔を上げると、私の大好きな笑顔があった。胸の奥が暖かくなるような、そんな風に私に笑いかけてくれるのは。
『おにいちゃん』
『また怖い夢を見たのか?』
こくりと頷いた。お兄ちゃんが掛け布団を上げてくれたので、潜り込む。窓からの月明かりが、シングルベッドに身を寄せ合う私たちを照らす。瞬きをすると、滴が頬を滑っていった。お兄ちゃんが手を伸ばして、私の涙を掬った。
『大丈夫だ。陽乃はひとりじゃないよ。俺がいる。俺がずっとそばにいる。俺が陽乃を守るよ』
『おにいちゃん』
『陽乃が泣いてたら、手を繋いで、一緒にいるよ』
『ん……』
繋いだ手から温もりが伝わる。恐怖で縮こまっていた心が、解されていく。──幸せ、だ。だって、お兄ちゃんが、いる。
『おにいちゃん』
『なんだ?』
『ずうっと、いっしょにいてね』
『ああ、一緒にいる。約束だ』
なら、もう何も怖くない。暗闇だって、悪夢だって。そう思って、目を閉じる。
──ねえ、お兄ちゃん。
約束、したんじゃなかったの。
✳︎✳︎✳︎
「う……」
顔を上げ瞬きを繰り返せば、意識とともに世界の輪郭が明瞭になった。さらに数瞬の間を置いて、ようやく、思考が回り出す。
「……ここ、は?」
見慣れない場所。その一言に尽きる。少なくとも、私の人生でこのような場所に来たことなど一度としてない、はずだ。まだ頭が働いていないのか、霞みがかったような記憶で、どうにも断言するのに躊躇してしまう。
私が目覚めたのは方形の、高校の教室よりは一回り大きい部屋だった。出口は二つ、向かい合う壁にあり、開いた穴からは廊下らしきものが見える。床には敷石、壁も岩。では天井はどうかというと、洞窟のような剥き出しの岩の質感は壁と同じだが、私が座り込んでいる部屋の中心部の真上にぽっかりと大穴が開いていて、そこから、木々の梢越しに澄み渡った空が見えた。葉を透かしているせいか緑がかった光の帯が、まるで紗幕が垂れているかのようで、なかなかに幻想的な光景だった。
幻想的なのはいいとして。
「……んー?」
残念ながら、この状況でスマホを取り出して「フォトジェニック~」なんてやる度胸も図太さも私にはない。美しい景色への感動など、混乱と不安の前では容易く消し飛ぶ。何せ、目覚めたら見知らぬ場所にいるのである。時間が経つとともに、辺りを見回す私の眉間に皺が刻まれていく。
──どこだ、ここ。
こんなところ、知らない。知らないはずだ。私は──そうだ、通学路を歩いていたはずだ。貧乏に頭を悩ませつつ、バイト先に向かっていたはずなのだ。よし、だいぶ思い出して来た。
住宅街の合間にある橋を渡っていたら、声がして。そして、見えない手が私を川に──。
「ってことは私死んだ!?」
冷たく暗い水底にゆっくりと沈んでいく、あの感覚を思い出してぞっとする。寒かったし、苦しかった。セーラー服の下の腕が鳥肌立ったのを感じて思わず自分の身体を抱き締め、そこで気がつく。制服が濡れていない。
乾いたのか。でも、空を見る限り私が川に落ちたのとそう時間帯は変わらないはずだし、何よりそんなにも長い間意識を失っていたという感覚がしない。川に落ちたのが夢だった、というのも信じ難いし。
(あの世に来たから服も乾いた……いやいやいやいや! なし! それはなし!)
身震いをして、私は首を振った。これ以上考えるのは、ちょっと怖いことになりそうなのでやめにする。とりあえずこの場所をもう少し調べてみよう。私が寝ぼけてただけで実は知っている場所かもしれないし!
そう決めて立ち上がった私は、ようやく背後にあったものに気づいた。振り返り、そして目を見開く。思わず飛び退きそうになった。
それは、石の祭壇とでもいうべきものだった。材質を見る限り一枚岩を削り出したもののようだが、磨き上げられているのか、まるで鏡面のように光を反射する。だが、私の目が釘付けになっていたのは、祭壇などではなかった。祭壇の上──何かが、あった。
『何か』は、人だった。
「……っ!?」
すんでのところで悲鳴を喉の奥に押し留める。ひとりきりだと思っていたから、ずっと背後に誰かがいたなんて気づきもしなかった。
祭壇の上に横たわっていたのは、紛れもなく人間だった。女性だ。長い黒髪は艶やかで、裾の長い白いドレスに身を包んでいる。細身のラインで、ドレスというよりはネグリジェと言った方が近いかもしれない。布地が薄手なせいで見て取れる体型から、私とそこまで年の変わらない、十代半ばの少女だとわかった。視線を上半身へと向けると、飾り気のない袖口から伸びた手は胸の上で組まれており、首から上は、真っ白い布で覆われていた。
私は、音速で顔と背を祭壇から背けた。
(し、ししし死体!? 死体!? 何でこんなところに!?)
いや、周りを見渡すと、祭壇といい幻想的な雰囲気といい、遺体が安置されていてもおかしくはないような気もする──あくまで、アニメやゲームの話なら。残念ながらここは現代日本だ。
落ち着け、私。まだ死体と決まったわけじゃない。死体ごっこしているだけの人かもしれない。ほら、コスプレとかなりきりとか最近流行っているらしいし。そう、クールになろう。ここは日本、世界に誇るヲタク国家なわけだし。趣味に生きている人かもしれないじゃない。
恐る恐る振り返り、一歩祭壇に近寄った。祭壇の上の少女は微動だにしない。悩んだが、見知らぬ誰かに話しかけるのと一人きりでこのわけのわからない状況に居続けるのと、どちらが嫌かを考えると呆気なく後者に軍配が上がったので、腹を括って手を伸ばした。
「お、起きてくださーい、こんなところで寝てると、風邪、ひきます、よ……?」
おっかなびっくりといった感じで胸の上で組まれた手に触れる。揺さぶるまでもなく私は伸ばした手を勢いよく引っ込めた。彼女の手は、氷のように冷たかった。
(死んでるわこれ!! 趣味に生きてるとかじゃなくてもうすでに亡くなってる!!)
どうやら『ごっこ』ではなくガチだったらしい。この時点でギリギリ発狂しなかった私を誰か褒めて欲しい、本当に。
(とっととと、とりあえず警察!? あと一応救急車!? 救急車って119で良かったっけ!?)
よくよく考えなくても私携帯持ってるし! 何がフォトジェニックだ、最初から文明の利器に頼れ、と内心で自分を罵倒する。スマホがあればここがどこかなんてGPSで瞬殺だろうし、電話で助けを呼ぶこともできる。幸い、スマホが入っているスクールバッグは私が倒れていた場所のすぐそばに転がっている。飛びついて中身を漁ろうとした、そのときだ。
「──おまえ、ここで何してる」
え、と思う間も無く。
振り向いた私の視界が陰る。気づけば世界は回転し、私は強かに背中を祭壇に打ちつけていた。痛みに顔を歪める。突き飛ばされたのだとわかったのは、私の肩を足蹴にして動きを封じた人間を、視界に収めてからだった。
「敵か?」
年若い、少年の声だった。
「……っ」
返答ではなく苦鳴を漏らしかけた私が見上げた先には、真っ赤な──魂を焦がして燃え盛るような、紅蓮の双眸があった。紅い瞳なんて、初めて見た。肩から前へと編んで垂らした長い髪も同じ色。
唾を飲んで上下した私の喉元には、ひやりとした感覚があった。首元に添えられているそれは、おそらく、彼がもう片方の手で、いつでも振り下ろせるようにと構えているものと同じものなのだろう。
すなわち、双剣。私の家の包丁よりもずっと刃渡りの長い、正真正銘の凶器だ。
その凶器が、身動きを封じられている私へと向けられていた。
予断なく剣を構える彼は、私と目が合い、次の瞬間にその双眸を見開いた。「……ティア?」と、小さく零れ落ちた呟きは、今の私には遠い。
では私は何をしていたのかというと、少年の視線に射すくめられながら。
(……コスプレ仲間の方かなあ……)
などと、ポンコツここに極まれりという現実逃避をしていたのだった。
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