プロローグ side-B 第一皇女、逝去する
──神国歴七八三年。アグナアタ皇国皇都イスラリウス、皇宮。『白瑛宮』、西の庭園にて。
背丈以上に伸びた植木は迷路のようで、風が通るたびに少女らの内緒話のように葉をさざめかせている。天蓋のような梢の隙間から覗く空は、突き抜けるような青空だ。堅苦しい宮殿はどこもかしこも息が詰まりそうだが、いつまでもここで時間を潰しているわけにもいかない。どうしたものか、と彼はため息をつく。
「何者です」
突然の誰何を背中に投げかけられ、面倒なことになったとばかりに彼は盛大に眉間に皺を寄せた。決して張り上げてはいないというのによく通る凛とした声の主など、振り向かなくてもわかる。
落ち着いた動作で振り返り、相手の顔も見ぬままに片膝をつき、臣下の礼を取る。皇宮勤めも片手で足りない年数を越えれば、このようなときに言うべきことなど勝手に口が紡いでくれるものだ。
「神官、セダウェン・サハルにございます。神殿からの使いとして登城いたしました」
「そうでしたか。それはご苦労なことです。陛下への忠節、我が父に代わり感謝します」
「勿体無きお言葉にございます」
形式的なやり取りに、向こうがどんな表情をしているかはわからない。顔を見ることはもちろん、本来ならばこうして言葉を交わすことすら不敬であるといっても過言ではない。
何せ相手は、この皇国で二番目に身分の高い人間である──あくまで、『表向き』の話になってしまうが。
彼女の連れもそれを感じていたのか、後ろの方で進言の声が上がった。芝生に膝を付いているセダウェンは、頭を垂れたまま彼女らのやり取りを聞いている。面倒くさい早く終われ、という内心はおくびにも出さない。
「皇女殿下。幾ら神官とはいえ、皇家の者が軽々しくお声をかけてはなりません」
「よいではないですか。陛下の、そして七神の前では彼も私も須らく同列です。……エレイン、少し外してくれないかしら。彼に話があるのです」
俺にはないから早く解放してくれ、と天を仰ぎたくなる。たとえそれを口に出せたとしても、今相対している人物ならばすぐさま却下してくるだろう。笑顔で。そういった、主に他者への嫌がらせに嬉々として励むような性格の少女だ。
「殿下」
「すぐに済みます。先月の、鎮魂の儀の礼を申し上げたいだけです。きっと、母上も喜んでくださったことでしょうから」
「……承知いたしました」
おそらく侍女だったのだろう、衣擦れの音が去って行ってしばらくして、セダウェンは先ほどまでの慇懃さはどこへやら、立ち上がって少女を無言で見下ろした。
「あら。いい眺めだったのに」
「おまえを喜ばせる義理もないんでな」
「媚を売ってもいいのよ? この国の第一皇女ですもの、存分に買ってあげましてよ」
こちらも先ほどまでの淑やかさはどこに消えたのか。セダウェンの前にいたのは、生意気そうに口角を吊り上げる少女だった。やたらひらひらした、動きにくそうな白紗の長衣。長い黒髪は艶やかで、美しく結われている。決して世に轟くほどの美貌ではないものの整っている顔立ち。だが最も目を惹くのは、その瞳だろう。藍宝石に金の星が散ったような不思議な色の虹彩は、この国を統べる資格を持つ者である証だ。
彼女こそ、このアグナアタ皇国第一皇女──ユーステティア・ヘイリア・リシェ・アグナアタその人である。今年で十七になるのだったか。現皇帝唯一の嫡子であり、皇位継承権は第一位。つまり、本当はとてつもなく高貴な存在なのである。こうして一介の神官であるセダウェンと殺伐とした会話を繰り広げていてもだ。
セダウェンは彼女を見下ろし、呆れたように息を吐いた。この風変わりな皇女様とも、もう十年近くの付き合いになる。
「で? 皇女殿下が何の用だ」
「だって、久しぶりにお友達に会ったんですもの……私寂しかったのよ。宮廷ではいつもひとりきりで、心細くて、だから私……」
「嘘つけ」
「何でよ」
「おまえからそんな殊勝な言葉が出てくるわけがない」
「不敬罪で処すわよ」
容赦ない舌戦も、もう慣れたものだ。とはいえ、彼女の嘘泣きを切って捨てたものの、あながち全てが偽りではないのだろう、とセダウェンにはわかってしまった。
「……あの、ぴーちくうるさい侍女はどこいったんだ。今日は休みか」
「今日どころか永遠に休みよ。暇を出したの。大金握らせて故郷に送り返してやったわ」
少女の蒼い瞳は自分から外され、どこか遠くへと向けられていた。それでも毅然と背筋を伸ばし、彼女はそこに立っている。
「私の周りも、もう安全ではないもの」
不自然なほどに、静かな声だった。
「エレインはね、宰相が用意して下さったのよ。……監視兼、下手人候補ってところかしら」
「……」
少女の声には自嘲が含まれていた。視線の先には、木々の合間から遠く見える白亜の壁──白瑛宮がある。権謀術数が渦巻くこの国の中枢であり、そしておそらく、彼女を亡き者にせんと企む者たちが牙を研いでいる、彼女にとっての敵地だ。
新しい侍女だというエレインでさえも信用できないというのなら、確かに彼女は孤独だろう。今も、おそらくは近くで聞き耳を立てているのだろうが、これだけ不敬を重ねていても静止が入らぬあたり、皇女に忠誠を捧げる気はさらさらないらしい。そもそも彼女と本当の絆で結ばれた侍女達は、彼女のことを『姫様』か、もしくは『ユーステティア様』と名前で呼ぶとセダウェンは知っている。
「父上にはもうお会いした?」
「いいや。会議が長引いているんだと。三時間待てと言われた」
「そう。もうあと少しで、きっと面白いものが見られるわよ」
「面白いもの?」
「ええ。玉座に座ったお人形と、人の皮を被った簒奪者たち。愉快でしょう?」
「……」
セダウェンは、無言で皇女の横顔を見つめた。自分より七つばかり年下の、笑みによく似た、しかし感情を読み取らせない横顔を。
「……俺が言うのも何だが、ティア。大人しくしてろ。確かに良くない状況だろうが──」
「息を潜めて目立たないようにすれば、命までは奪われない、と?」
ユーステティアが振り返った。黒髪が翻り、宇宙の欠片を埋め込んだような美しい瞳が、まっすぐにセダウェンを射抜く。
「でもそれは、死んでいるのと同じよ」
「権力争いなんてくだらんことで命を無駄にするなと言ってるんだ」
「私の命は私のもの。いつ賭けるかは、私が決める」
あまりにも強い言葉、強い視線だった。年下の少女に気圧されてセダウェンは一瞬、言葉を失う。硬いものは、されども脆いと、知っていたからだった。
「……おまえに何ができる。たかだか十七の小娘がたった一人、革命でも起こすってのか? 普通に死ぬだろ。馬鹿か? 馬鹿すぎてむしろ今死ぬか?」
セダウェンは彼女の言葉を切り捨てる。切り捨てるしかない。それなりに長い付き合いだ、セダウェンとて彼女がただの少女ではないことくらい知っている。王冠を戴くに相応しい、魂に光輝を纏うものだと。十分すぎるほどに、王の資格を持つものだと。
だが、今、彼女は一人だ。信頼できる腹心もなく、現皇帝の庇護もなく、いつ暗殺されてもおかしくはない、弱い立場。ならば、誇りなど捨てて逃げ出して欲しいと望むことの何がおかしい。
セダウェンの言葉は、確かに彼女に届いたのだろう。直線で見上げていた瞳を伏せ、彼女は力なく微笑む。
「……何もできないことは、逃げ出していい理由にはならない。そうでしょう?」
──その時、鐘楼の鐘が鳴った。謁見の時間が迫っていることにセダウェンは気づく。皇女越しに見える木立の中に、席を外したというエレインがこちらを窺っている姿を見つける。本来ならばあってはならないはずの語らいの時間は、もう尽きたらしい。
後ろ髪が引かれるがどうしようもない。セダウェンの様子に、彼女もこの時間は終わりだと察したようだ。一礼して立ち去ろうとするセダウェンの背中に、声がかけられる。その内容に、思わず振り返ってしまう。
彼女は、笑っていた。何かを諦めたような、寂しい笑みだった。
「でも、そうね。もし私が死んだら──馬鹿なやつって笑いに来て。それで、私のために祈ってよ。先月の鎮魂の儀が素晴らしかったっていうのは、嘘じゃないのよ?」
「……馬鹿か。そんな何十年も先のこと、約束できるか」
それだけ言い置いて、セダウェンは歩みを再開した。たった一人、木立の中に佇む少女に背を向けて。
──彼が、アグナアタ皇国第一皇女ユーステティア・ヘイリア・リシェ・アグナアタ逝去の報せを受け取ったのは、それから僅か三日後のことである。
✳︎✳︎✳︎
──アグナアタ皇国皇都イスラリウス、皇宮。白瑛宮、第一皇女の寝室にて。
深夜である。
ユーステティアは豪奢な寝台に腰掛けて息を吐いた。透明度の高い最上級の硝子が嵌った窓からは、青白い月が見える。今宵は満月だった。既に中天に高く昇っており、皇宮内で起きているのはもはや夜勤の衛兵くらいだろう。
静かだった。宮殿自体が眠りに就いているかのようだ。青い光の中で、夜着を纏ったユーステティアは一人、想う。
この宮殿で過ごした十七年間の日々を。
そして、そこから自分だけが消えた、明日を。
「ニァ」
隣で声が上がった。枕の上からティアの隣に降り立ったのは、真っ白な獣だった。柔らかな毛並みに包まれた小動物だが、犬でも猫でも兎でもない。ファニア、という魔物の一種だ。魔物とはいえ愛玩動物として飼われるほどの最弱の種族で、ユーステティアが傷つけられる可能性は万に一つもない。
長い耳を垂らし、金色の瞳で自分を見上げている。ユーステティアは無言でファニアを抱き上げ、そっと告げた。
「大丈夫よ。もう、決めたことだもの」
太陽の匂いが残る毛並みに顔を埋める。白い毛を梳いてやると、ファニアは嬉しそうな声で「ニァ」と鳴いた。
「苦労をかけることになるけれど、ついてきてちょうだい……最後まで」
「ニァ……」
物言いたげな獣の視線をユーステティアは無視した。寝台の横に置かれた棚には、寝る前に侍女に持ってくるようにと言いつけた、葡萄酒の入った杯がある。ユーステティアの白い手がそれを取り、月光に透かすように掲げた。
『いつ賭けるかは、私が決める』──三日前、昔馴染みの不良神官と交わした言葉が蘇り、口の端に笑みが浮かんだ。彼は、あの言葉の真意に気づいてくれるだろうか。
「さて。存分に賭けるとしましょう」
彼女は一息に葡萄酒を飲み干す。杯が空になると同時に、白い指から杯が零れ落ちた。器に残った葡萄酒の赤い雫が、彼女の白い夜着を赤く汚す。
床に叩きつけられた硝子が割れた。衛兵が来る気配はない。手薄な時間を狙ったのだから当然だ、と思いながら、ユーステティアは自らの身体が傾いでいくのを感じていた。態勢が保てない。背中から寝台に沈む。痛みはないのが幸いだった。指先さえ動かせず、ゆっくりと意識が黒く塗りつぶされていくことを、少し恐ろしいなと思うだけで。
視界が翳っていく。眠りに落ちるようにユーステティアは瞼を閉ざした。蒼金の瞳はもはや何も映すことはない。
やがて、少女の身体は完全に動かなくなる。
雪色の獣が投げ出された彼女の手に身体を擦りよせた。何の反応も返って来ないとわかり、悲しげにひとつ鳴いた。
そのすべてを、月だけが見ていた。
✳︎✳︎✳︎
──アグナアタ皇国皇都イスラリウス東、『皇家の霊廟』、最上階。
「時は満ちた」
男は一人、虚空に告げた。
そこは石室だった。四方の壁に窓はないが、天井には大きな穴があり、そこから陽光が降り注いでいる。その真下、部屋のちょうど中心となる位置に、直方体の石が鎮座していた。磨き抜かれた表面は鏡のようで、明らかに人の手が入っている。祭壇だった。
そして祭壇の上に横たわっていたのは、年若い少女だ。顔は白い布が被せられているせいで見えない。よく手入れされた黒髪は無残に散らばっており、落ちた花弁を思わせた。白い衣装と顔を覆う薄布は、この国の死装束である。胸の上で組まれた白い手からは、およそ生気というものが感じられなかった。
亡骸の前に男は立つ。少女とは正反対に、纏うのは黒いローブだ。目深にフードを被っているせいで顔は見えない。唯一見える口元が、歌うように言葉を紡いでいく。
「【我が手に虚無への鍵あり。祖にして礎、無窮なるもの。クレイアル、ヴァスタルト、ディーヴェ、シェンティア、アニムス、ベネボレンティア、エクシグース。以上七神に希い、我──の名において告げる。回帰の時来たれり。未だ滅びは遠からじ】」
祭壇を中心に、天から細い光が降りた。最初、糸ほどだったそれは、七つに分かたれ、祭壇と男を囲むように円状に配置される。その中心で、男は詠唱を続ける。一つ言葉を重ねる度に光は強さを増し、やがて縒り合わされ束ねられ、天を穿つ柱となった。
「【我が声に応えよ。汝穢れ知らぬ者、汝光戴く者。その身は剣、その身は盾、その身は旗。我が眼は汝を見つけたり、我が手は汝を捉えたり。天命は此処に定まれり。いざ門を開かん】」
抑揚のない声が響き、白い光が部屋を埋め尽くす。激しい風が男のローブをはためかせた。その渦中にあってなお、少女は目を覚ますことはなく、ただ沈黙を貫くのみ。
そして、術が完成する。精緻な魔術陣が石室の床に浮かび上がり、ゆっくりと、次第に速さを増し、回転する。紫電が迸り、風が哭き叫ぶ。
男の口元が、半月のように歪んだ。
「──こちらへ、おいで」
時を同じくして。
異なる世界、どこかの川に、とある少女が引き摺り込まれた。少女の姿は瞬く間に水底に呑み込まれ、幾重にも波紋が生まれては消えた水面も、やがては元の静けさを取り戻す。
沈む少女が吐いた泡沫。水面に至る前に弾け、消える。
それが、その世界で「彼女」が最後に残したものだった。
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