タンジェリン・ドリーム

飛騨またたび

タンジェリン・ドリーム


 ◇


 八月の川には、きっと八月の水が流れているのだろう。

 この時間では、もう暗くて確かめることもできないけれど、そう思う。

 橋の上からは、規則正しく川沿いに並んだ、電灯の列がよく見える。

 いつか海へと注ぐ川の流れに従うように、その光も連綿と、途切れることなく続いて見える。

 流れの遥か向こう側には、光の海でもあるかのように。

 祭りに流れ込んでいくだけの人混みなんかに、もう興味はない。

 僕は昔のように、綺麗な心を持ってるってわけじゃない。

 綺麗な心なんか、もう失くしてしまったから、喧騒から離れてしまって、ただ川の流れを見つめている。

 川の流れは電灯の光と月を映したまま、ただ揺らいでいる。

 何も、変わりはしないかのように。

 本当は絶えず変わり続けているはずのものが。

 何も変わっていないかのように、振る舞っている。

 だけどそれは、あらゆるものがそうなんじゃないだろうか。

 特に、目に見えないものなんか、分かりやすいだろう。

 夏が来たら、こうしてみんな当然のように祭りを始めて、その空気のなかに飲まれていく。

 そうしなければ、同じ夏は来ないかのように。

 そうしたところで、同じ夏なんかもう来ないっていうのに。

 分かっているんだろう?

 分かっているはずなのに。

 結局は、繰り返すしかない。

 過ぎ去ったものは、もう取り返せない。

 それは季節だって、同じことなんじゃないか? って。

 形があろうと、なかろうと、全部同じじゃないか? って。

 この世界は絶えず変わっていく。

 連続した変化のなかで、僕は自分を一致させて、どうにか生きている。

 それは皆がやっていることじゃないか。

 本当は形がないのに、形をもって生まれてしまうから、変化する自分の形を、強引に自分の中身と一致させて、どうにか生きていっている。

 僕は少し、その変化に敏感すぎるだけなんだ。

 だから、こうして自分のことだとか、世の中のことだとか、考えなくたって生きていけるはずのことを、頭の中でぐるぐると回るのもお構いなしで、考え続けている。

 人混みの中から、楽しそうな声が聞こえてくるだろう?

 明日自分がどうなるか、五分後の自分がどうなるか分からないから、きっとああやって楽しそうに騒げるのだろう。

 羨ましいな、と思った。

 僕はきっと、五分先にいるであろう自分が、どうなっているか怖いから、大きな流れには乗らないで、こうして外側から、偉そうなことを言って眺めるだけだ。

 本当は、取り残されているだけだ、って分かっているけれど。

 それでも、自分の意思さえ区別できずに、いつの間にか流されてしまうよりはまだ良いんじゃないかな、って思ってしまうんだ。

 だからこうして、僕は流れを見つめている。

 

  

 こんなにも捻くれてなお、ここに来る理由が、まだ僕の中に残っていた。

 理由というよりは、未練にも等しい。

 

 八年も前のことだ。

 この川の流れに、一人の少女が身を投げ、そして帰ってくることはなかった。

 平沢ひらさわれん、当時十六才。

 彼女の生徒手帳と、水にぬれたハンカチだけが川の畔(ほとり)に流れ着いて、そのまま小さな慰霊碑に変わった。

 今では、覚えている人も少ない。

  

 ……そう言いながらも、僕はそれを記憶している。

 彼女の死も、形だけの慰霊も。

 生きていたころの、彼女のことも。


 僕は学校から逃げた先の図書館で、同じ境遇の練と出会って、そしてお互いに「普通」であるふりをした。

 彼女は高校生だったけれど、僕の話を聞いてくれた。

 そして同時に、彼女は僕にいろいろなことを話してくれた。

 ……八年前に、別れたきりになるまでは。

  

「私たちはさ、友達だったよね?」

 練は別れ際、思い出したように僕に問いかけた。

 あの時、僕はまだ十一歳の子供だった。

 僕は何も言えなくて、そして別れてしまったことを覚えている。

 帰り道では、たくさんの蝉が鳴いていた。 

 何度も何度も、後ろをふり返りながら帰った。

 

 そして、僕と練は永遠に会えなくなってしまった。


 ……彼女の寂しそうな問いを、忘れることはできないだろう。

 

 八年前の夏の日、すでに彼女は死ぬことを決めていたんだ。

 だから、僕だけには……。


「別に逃げてもいいんだって、無理に戦う必要なんてないんだよ、現実は、私たちが思っている以上に、強すぎるからね……」

 救われないことが分かっていたから、彼女はあんなことを僕に言ったのだろう。

 諭すような言葉で、僕を受け入れて。

 そしてその後、自分がそれを示すようにして、消えてしまった。

 

 死体さえ残らずに消えてしまったから、彼女のことを思い出せる人は少ない。

 彼女は高校生だったけれど、ほとんど登校なんかしていなかったからか、彼女のことを知っているという同年代の人に、出会ったことはない。

 だからせめて、僕だけは憶えていなければいけない。

 そんな義務感が、僕の中で未だに燻っているんだ。

 

 救えなかった後悔なのか? 

 でも、救うなんて今更偉そうに言ってみたところで、あの頃の僕には何ひとつできなかったじゃないか。

 だったら、いったい何なのだろう。

 八年間、ずっと僕の心の底にあるものは。

  

 ひとつだけ、確かなことがある。

 

「もう、十九歳になってしまった……」

 彼女がなれなかった、十九歳に。

 僕はもう少しで、大人になってしまうんだよ。

 

 僕の呟く声は、周囲のざわめきに掻き消された。

 

  ◇

 

 彼らがざわめく理由が、断片的に聞こえてくる。

 十九時には打ち上がるはずの花火が、まだ一発も上がっていない。

 ……らしい。

 僕には、どうだっていいことだ。

 花火が上がろうと、上がるまいと、それでいいじゃないか。

 花火がなきゃ、祭りではないのか?

 じゃあ、何のために祭りなんかしているんだ?

 最初から最後まで楽しめなきゃいけない、なんて考え方は、嫌いだ。

 つまらなそうに帰り始める人々を横目で見て、僕は欄干から歩き出す。

 少しずつ、人の流れは変わり始めている。

 帰り始めた人の流れを、僕は遡上しはじめる。

 最初から、お前はそこに行きたかったんだろう?

 自分が、自分に問いかける。

 そんなことは分かっていた。 

 だけど僕は、あの流れに乗りたくなかっただけなんだよ。

 練を、彼女を、をどこかへ消し去って、平気な顔をしていられるような、そんな残酷な流れの中に、入り込みたくなかっただけなんだ。

 だから、遡上する。

 なにも、流れに逆らうことが悪いことだとは思わない。

 それが出来なかったから、僕や彼女は流れから弾かれた。

 流れの中に留まっているだけでは、枯れ葉のように流されて、いずれは朽ちていくだけだ。

 僕がそう悟るには、あまりにも遅すぎた。

 その頃には、みんな子供ではいられなくなっていたのだから。

 流れに逆らう自由を得て、僕はどうにか生きている。

 

 提燈を模した灯りの列を辿って、夜店の並ぶ通りを駆ける。

 帰り始める人の流れは、ここまで来るとかなり弱くなっていた。

 花火が上がらなくたって、それでも祭りを楽しめる。

 そういう人間は、幸せに生きていけるだろう。

 そういう精神は少しだけ、羨ましく感じた。

 歩いていくにつれて、人が減り始めてなお残る喧騒が、川に沿って進んでいくごとに小さくなっていく。

 いくら祭りとは言えど、この川全てを覆うことは出来ないのだろう。

 灯りの列が人と自然の境界線であるかのように、人の姿は忽然と消えている。

 そのほうが良いと思った。

 彼女には、人の喧騒なんかよりも、自然の静けさのほうが有り難いだろうから。 

 常に流れる川面を見下ろすように、土で作られた高台が見えてくる。

 そして、僕は「彼女」にたどり着く。

 

 平沢練の名前が刻まれた小さな慰霊碑は、八年の間、何一つ変わらずそこに在り続けている。

 あと十年もすれば、この慰霊碑のほうが、彼女よりも長くこの世に在り続けることになってしまうだろう。

 それに違和感を感じる人間が、僕以外にもいてくれることを祈る。

 

 彼女に手向けられるようなものは、何もない。

 何より、この碑は彼女の墓標ではないし、ここに彼女の死体が埋まっているというわけでもない。

 彼女の肉体は、未だにこの川の流れの何処かを彷徨っているはずだ。

 

「私のことはね、誰かが覚えてくれるだけでいいんだよ……名前を残せる人間なんか、この世界には殆んどいないんだから」

 

 少しずつ元気がなくなっていた彼女は、そう言って力なく僕に笑いかけていた。

 自分がまだ元気であると、強がっていたことなんか分かるのに。

 それを僕は、しっかりと分かっていたはずなのに。

 何一つ、僕は出来ないまま終わってしまったんだ。

 消え去る決意をした彼女の背中を、見送ることしか出来なかったんだ。 

 それを今更になって、後悔している卑怯者なんだ、僕は。

「だからこうして、ここに来るんだろ……?」

 頭の中から、問いが零れ出る。

「自分は覚えている」ことを示したいから?

「言いたいことを言えないまま終わった」ことを後悔しているから?

 

 どちらにせよ、もう遅い。

 そうだとしても、過去に遡ることなんか出来はしない。

 流れは、いつだって一つの方向を向いている。 

 それが道理だ。

 川の流れを見つめて、静けさに身を任せる。

 

 そうでもしないと、このままじゃ自分まで見失ってしまいそうで、怖かった。

   

  ◆

 

 どこからともなく、なつかしい匂いがした。

 彼女の匂い。

 真っ白な浴衣を着た彼女が、少しずつ僕の傍へと歩み寄る。

 裸足のままの彼女の足音がしっとりと聞こえてくる。

 彼女は懐かしそうに川面を見つめて、石造りの碑と、僕の姿に目を移す。

 

「……君のこと、ずいぶんと待たせてしまった、かなぁ……?」


 練が、そこに立っている。

 練の姿が、僕のすぐ傍にある。


 不安そうに問う彼女の声は、八年の時を経ても何一つ変わることはない。

 あれから、何が変わるというのだろう。

 死んだ人間が、これ以上変わっていいのだろうか?


「……変わらない、そう言えればよかったんだけどね……」

 浴衣の隙間から覗く彼女の肌には橙(だいだい)色に煌(きらめ)く鱗が生えていた。

「人は自分が思っているより残酷だっていうのは分かるよね? 楽しんだけど、その後が面倒だからって、金魚を川に捨てていく、彼らが生き残れるはずもないのにね……人間に生きかたを歪められて、人間のわがままに殺されてしまう。私もそれに近いからかな、気づいたころには、こうして少しずつ金魚のようになっていたんだよ……ほら、この辺りなんか少し傷んでる」

 そうやって彼女は袖をまくるが、そんな自分の変わってしまった姿なんてどうでもいいかのように、視線は僕の全身を撫でる。

「八年か……人は変わるもの。君が、私みたいにならなくてよかった。私みたいに、死んでも死にきれない臆病者にならなくて、よかった」

 なぜまた会えるのか、そんなことはどうでもいい。

 また会えている。

 それだけで、僕も練も嬉しいのだから。

「それじゃ、行こうか?」

 彼女が橋のほうを指差し、僕を促す。

「行くって、何処に?」

「祭りはまだ終わっていないんだよ、私たちにとってはね」

 

 練の足どりは、子供のように軽い。

 八年前と同じ、少女の足取り。

「いいかな? そもそも何でこんな川沿いで祭りなんかやるんだと思う?」

 まるですべてを知っているかのように語る彼女の口調は、八年前とまったく変わってはいなかった。

 いつもこうして、彼女は僕の知らない世界を教えてくれた。 

「この自然にあるものは、ほとんど全て神様なんだよ。その中でも、川は特に怒りやすいからね、毎年こうして祭りをするんだ、祭りは、祀りであり、奉りなんだから」

 あの頃と同じように、練が僕よりも少し先を歩こうとしても、今ではもう簡単に追いつけてしまう。

 けれど僕は、彼女の心に追いつけているだろうか?

 彼女の見ていた世界を、僕も見ることが出来たのだろうか?

「ほら、灯りが見えるよ?」

 彼女が、指指す先を見つめる。

 

 川沿いを照らす光は、もう人工のそれではなくなっていた。

 赤い提灯の中で、小さな火が揺らいでいるのが見える。

 その光とともに始まる夜店の列は、どこか古めかしい佇まいで僕たちを迎え入れる。

 つい先ほど、僕が駆け抜けた列とは、形だけが同じで、雰囲気はまったく違っている。

 忘れられそうなものが、必死に自分の存在を残そうとしている。

 あと少しすれば朽ちてしまいそうな、古めかしさ。

 人の姿はおぼろげで、音もなく通り過ぎては、かすかな気配を残して、どこかに消えていく。

 ここは、何処なのだろう。

 僕の知らない世界が、目の前に広がっている。


「君も、少しずつ分かってきてるはずじゃない?」

 出迎えるように、練が僕に振り返った。

「ここはさ、この世でもあの世でもない、何処にも行きたくなくって、動けないまま、消えていくしかない、そういう人や物が集まってしまう場所、ここは畔なんだよ、死んだ人間が、向こう岸に渡れる日を待つ、川の畔」

 何処にもいきたくない。

 その言葉が、練の心からの願いであるかのように、僕には聞こえた。

「君はさ、変わらなきゃいけないけれど、変わりたくないと思っているから、こんなところまで来てしまったんだよ……まだ、君は生きているのにね。生きなきゃ、いけないのにね……」

 練の濡れたような声は、少しの憂いと嘆きが混ざっているように聞こえた。

  

  ◆

 

 川辺を見下ろすプロムナードに腰を下ろして、僕たちは八年ぶりに語り始める。

 相変わらず、はっきりとしない人々の姿が川沿いを行き来しているのが、横目で見えた。

「さっきも言ったように……ここは未練の集まる場所なんだよ。人間は確かに死ぬ、死ぬために、この世界に生まれてくる。それは不思議なことじゃない。だけど、受け入れられるものじゃあ、ないんだよね」

 練の瞳は、川面に向けらたまま動かない。

 自分がかつて飛び込んだ川面に、吸い寄せられるような眼差し。

「私だってそうだよ、分かってたさ、どうせ死ぬんなら、ここで死のうが何十年後に死のうが、同じなんじゃないか、ってね。だけどさ、苦しいんだよね。死ぬために生きるなんて、苦しすぎる。後ろ向きでもなく、前向きでもなく、明後日の方向を向いて生きるなんんてさ、難しすぎるんだよ、実際、私も出来なかったわけだしさ」

 彼女のいうことが間違いだとは思わない。

 どんなに幸せな人間だって、いつか死ぬ運命を約束されている。

 だけど、人間はそんなことを気にしなくたって生きていくことは出来る。

 むしろ、現実は逆なんだ。

「僕たちはさ、死ぬとかそういうことを常に考えるようになってしまった時点で、普通じゃなくなってしまったんだろうね……」

「だから、せめて君は死後のことなんか考えずに生きればいいんだよ、なにも難しくはない……死んでいった私たちのことを覚えていてくれるのは、すごく嬉しいけれど、君はこれからの人生を、その哀しみを引きずったまま生きていくのかな?」

「僕はさ、それでもいいと思ってるんだよ、人間は自分の記憶だけで生きてるわけじゃない、自分の行動だけが自分を作ってるわけじゃない、自分を自分にしているのは、他人じゃないか、だからこそ、忘れたくないんだよ……楽しかったことも、辛かったことも、全部が僕を作っているものだから、忘れたくはないんだよ……」

 それが、僕の選んだ道だ。

 八年前のことを忘れて、変わることもできるだろう。

 人間は最初から最後まで一つの自分のまま変わらないわけじゃない。

 一つの流れの中を、たくさんの影響を受けて進んでいくことは確かだ。 

 だから……僕は。

「僕はさ、練と一緒に過ごしたときのことを忘れたくないだけなんだよ……」

 確かに、あの時の僕は弱かった。

 だから、目の前の現実から目を背けて、ただ逃げるしかなかった。

 そして、練もいなくなった。

 練がいなくなったから、僕は。

「僕はさ、練がいなくなったから……だから、生きてるんだと思う」

 練が死ななかったら、僕は……どうなっていただろう。

 目の前の現実の強さに、僕も流されてしまったのだろうか。

「私は、確かに君のことを救えたんだと思う、それは嬉しいことだと思ってる。そうだからこそ、君には私のことなんか忘れて、前を向いて生きてほしいんだよ……駄目かな?」

 出来ることなら、そうしたい。

 だけど僕は、僕でありたいから。

 弱かった僕を覚えていたいから。

 弱かった僕を助けてくれた人を、忘れたくないから。

 助けてくれた練を、忘れなかったから、今だって、こうして会えている。

 だったらそれの何処が、悪いって言うのだろう。

「死んだ人間が、いつまでも生きている人間を縛り付けていてはいけないのよ……出会って、別れて、いつか離れ離れになることは、当たり前のこと。私たちはそれを繰り返して生きていく。死んだ人間の教えてくれたことは、それを受け取った人間が生きていくことで、伝えればいいの。だけどね、死んだ人間のことなんてすっぱり忘れなさい。この世界はそうやって、忘れていくことで上手くいくのよ。いつまでも辛いことを悲しんでいてもいけないし、いつまでも楽しいことに現を抜かしていてはいけないの。変わらないことは、留まり続けることは確かに幸せなこと、だけどね、何かが始まった以上、必ず終わりは来なきゃいけない。川の流れは停滞なんか知らずに、こうして海へと流れていく。そういうものだ、って、昔言ったよね?」

 練の細い指が、まっすぐ川の流れを指差して、僕に示す。

 川の流れ、それに例えて話をするのは、練の癖みたいなもので、僕はそれを、未だに受け売りとして使っているに過ぎなかった。

 それさえも、今では懐かしさに変わっている。

「なんで、どうして、悔やんだところで、過去は過去、未来は未来、現在は現在で、それぞれは切り離されてしまうの……私と違って、君には未来があるでしょう?」

 少しずつ、心の奥底に溜まったものが上っていくのを感じる。

 心の奥で、泥のように溜まっていた、重いものが。

「いつまでも泣いてて、それでどうするつもりなの? 前を向きなさい……」

 きっと、そんな言葉は何回も聞いた。

 だけど、そう言ったのは練じゃなかった。

 だから、僕は反抗したんだ。

 練を世界から消したくせに、前を向けなんて偉そうなことを言うんじゃない。

 それは、卑怯だろ。

 そうやって、僕は抵抗した。

 だけど……練自身が、忘れられることを望んでいる。 

 僕に、前を向いてほしいと望んでいる。

 理屈では納得できるのに、心がそれを許さない。

 

「僕は……嫌だ」

 

 そうだ、僕は嫌なんだ、こんなこと。

 練のおかげで、僕は小さな安息を得られたんだ。

 一番辛かったけれど、一番幸せになれた。

 その記憶が、僕をここまで生かしている。

 その、練を忘れてしまうなんて。

 そんなことなんて……。


「僕はさ、それでも生きていけるかな?」

「……それじゃあ生きていけないって、誰が決めたのかな?」

 柔らかい声で、練が僕を諭す。

「普通はね、人間は一人で生きていけるんだよ、一人で完全な存在なんだから。私たちみたいに、誰かと傷を分かち合って生きていくことが、そもそもズレてるんだよ。間違いだとは言わないけれど、それが正しいとも、私は言わないよ」

「それは……分かる」

「答えは自分で探さなきゃね……確かに、私の言葉は君に必要かもしれないけれど、それが完全な答えじゃないっていうのは……君にも分かるよね」

 

 僕は八年もの間、練の言葉に手を引いてもらって、ずっと生きてきた。

 それを失うのが怖くて、変わるなんて言い訳をして、そして変わらずにいた?

 それじゃあ、駄目になるって、分かっているのに。

 それじゃあ、駄目になるって、分かっていたんだろう? 

 

「……僕は、練がいなくても生きていける、さ」

 搾り出すように、声をつくる。

 僕は、前に進まなきゃいけないから。

 もう、練のことは追い越してしまったのだから。

 一人で、歩かなきゃいけないんだ。

「それが、大人ってものじゃないのかなぁ、私がなれなかったもの。私は、一人では生きられなかったから」

 そして練は立ち上がり、川原へと降りていく。

 川面に向かって歩む練の姿を、急いで追いかける。

 そして、水際で歩みはとまった。


「そろそろ……お別れだよ」

「……うん」

「君は、もう大丈夫。私だって、これからは大丈夫」

 練は夜を抱くように、両腕を大きく広げて。

「私が沈んで、君が浮かぶ、それは当然のこと。生きているものは、生きているものの世界に、死んだものは、死んだものの世界に、帰らなきゃね、お互いに」

 そして、真っ白な腕が僕を包む。

 鱗でどんなに変わろうと、練が練であることに変わりはない。

 その証に、懐かしい、温かさが目の前に広がっている。

「会えてよかった……もう会えないと思った」

「……うん」

「最後にさ、一つ聞いていいかな?」

 少しずつ、僕を抱く腕が緩められて。


「私たちはさ、友達だよね?」


「……当たり前だろ……友達だよ……」

 最初から、こう言えればよかった。

 僕は……ずっとそう言いたかっただけなのかもしれない。

 僕の言葉で、そう伝えたかっただけなんだ。

 ……心の奥底が、やっと晴れた気がした。


「ありがとう」

 

 その言葉が聞きたくて、僕はここに来たのかもしれない。

 八年前の夏を、少しだけやり直すために。

 

 

 ――そして、いつの間にか、練の姿は消えていた。

  

  ◇

 

 花火の音で、僕の意識が少しずつ覚めていく。

 真っ黒な夜空には、たった一つだけれど、大きな花火が上がっていた。

 小さな慰霊碑の隣で、僕はそれを見上げている。

 何も、変わってはいないのかもしれない。

 だけど、心は軽い。

 僕はやっと、前を向いて歩いていけるだろう。

 前を向いて、流れの中を歩いていける。

 流されるままじゃなく、自分の意思で、自分の道を。


 風が吹いて、僕の腕に残ったままの、橙色の鱗を攫っていく。

 一瞬だけ燦然と煌いた鱗は夜に消えて、やがて見えなくなった。

 

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