第38話 明かされる樺太での真実

網元はアレクセイの貯めた金は元々は俺の金だ。だから返してもらうと云う屁理屈で彼の家に上がり込んだんです。案の定この混乱の中でも長沼さんのお陰でアレクセイには怪しまれずに済みました。

 彼等はアレクセイに一緒に逃げようと提案したんです。彼は直ぐに同意して蓄えた資産を持ち出してきました。ソ連軍が侵攻すると知って一番恐れたのは我々でなく、日本人よりも身の安全が確かなはずの、同胞のアレクセイさんですから驚きました。

 ここまでは長沼さんとの打ち合わせどおりでした。次に網元はアレクセイを脅して資産を奪いました。ここで争いが起こり彼はケガをしました。負傷したアレクセイを置いて三人は現場を去ったのです。アレクセイですか、命に別状はなかったのですが足を負傷して歩けませんでした。その後に彼の家から一発の銃声が響いたのです。ええ一発だけです。先を急ぎますので一瞬立ち止まっただけで、ああ長沼さんだけが合掌してましたね。とにかく走って豊原でお嬢さんと合流しました。この経緯をお嬢さんは知りません、いずれ落ち着いてから多分長沼さんから話されると思ってました。

 ええ! お嬢さんが亡くなったなんて知りませんでした。息子から長沼さんの奥さんは写真とは別の人だったと訊いていました。まさか樺太から脱出する時、しかも留萌の沖合であんな死に方だったとは今知りました。それじゃ長沼さんは何の為に網元の片棒を担いだか、・・・やり切れないでしょうね。と云うのもアレクセイさんを誘い出す条件でお嬢さんとの結婚を親方は認めたんですから。長沼さんが一緒でなければ彼は同行を拒否したでしょうね。そうなると金の所在も分からず親方は途方に暮れたはずです。今まで払った権料はロシア人に金を預けていると云う考えの親方には、無一文で脱出するわけには行きませんからね。

 豊原で合流したお嬢さんですか? お嬢さんはお父さんがよくあれだけの金を貯めていたのに驚いていましたよ。一寸怪訝な顔をしてましたからね。内地に着けば長沼さんから真相を尋ねるつもりだったんでしょうか? 今となっては良い想いでだけを道連れにされたんですねお嬢さんは。

 私ですか、私はもっと早く一足先に帰りました。手ぶらでしたからみんなと同じ船に乗れたのです。彼らは例の大きな荷物の為に最後の船に間に合ったようです。

 親方は一癖もふた癖もある連中はさっさと追い出した。私は下っ端のまだガキでしたから一切逆らえませんよ。だから今までこうしてあなた方が見えるまで口を閉ざしてました。


 舞鶴発の特急は夕闇が迫る丹波路を一路京都へひた走っていた。

「井津冶の話とはなぜか肝心なところが抜けているの、おじいちゃんが歪めてるのかどっちだろう?」礼子は野々宮に訊いた。

「知代子さんには真実を語ったと思うんですよ」

「じゃあ井津冶が歪めた。どうして」

「あなたに遺言をホゴにされると困るから」

「そこまでするんか、あのコは・・・」

 叔父さんと養子縁組みしても確実に相続できるかどうか、もし会社が倒産すればそれどころではない。この際、礼子さんに転けられない様に他の逆玉を排除する為には何でもする、のが普通でしょうね。野々宮は永倉の立場になってあらゆる推理を提示した。

「あなたもそうするのかしら」

「ぼくの場合は最初から何もないからダメで元々でしょうね、でもそんなものより本人の気持ちに拘(こだわ)りたい」

「ヘーエ、一文無しのお姫さまでもいいの」

「お姫様は余計ですけど他には何もいらない。ボロは着ててもこころは錦、なーんちゃってねー」

「バッーカー、・・・まあ前回どうよう参考にしとくわ」

「いつになったら採決するんですか」

「まだ会期末まで日があるでしょう」

「あっと云う間ですよ」

「じゃあ審議未了廃案ってとこかなあ」 

「じらしますね」

「それよりあいつをとっちめてやらないといけないわね。預かったのと略奪ではえらい違いよ。しかも大怪我させてるんじゃないの」

「親方がねぇ」


 此のお嬢さんはこうと思ったら節度がない。駅に着くなり永倉を呼び出した。とにかく喪が明けるまで此のお嬢さんを中心に動いている、いや振り回されている。仕事もそこそこに永倉はやって来た。

 彼は喫茶店に着席するなり機関銃の様な礼子の言葉を浴びた。

「嘘だ! 礼子さん、そこまでしてぼくを陥(おとしい)れるのかこの男の為に」

「何いってるの! 見くびらないで! 井津冶、私がそんな女だと思ってやしないでしょう。どうしてあなたはそんなにひねくれてしまったの。野々宮さんもあたしも嘘ついてると思ってるの、それとも真岡で一緒だった石崎さんが嘘を言ったと思っているの。だったらおじいちゃんがあのロシア人のお墓の前で許しを請うたと言った宇土原さんの証言も嘘なの。じゃ何が真実か言いなさい」

 礼子に頭ごなしに言われても二十年掛けて固めた真実が覆るなんてありえない。これが事実でないなら、今までの人生が全て嘘になり、己の生そのものも否定しかねない。

「あなたはこれ以外の事実を何も知らされてないのね」と沈黙する永倉に礼子は追い詰めず、逃げ道を作り、さあ新しい道を進みなさいと誘導した。

 ーー井津冶は沈黙してからポツリと言った。大きな川の堤防が決壊し、濁流に呑まれ追い詰められた人々が取った行動は、生きるためには全てが真実なんだろう。と盗人にも三分の利を説く。

 ーーそんな理屈はない。波に揉まれても、求める人に救命胴衣を与える人もいる。逃げないでまともに答えなさい。あくまでも真っ向勝負を挑む為に永倉と向き合った。

 だが彼は更にかわした。

 ーーここで引き下がるのは母の美しい想い出を切り刻むようなものだった。これは決してマザコンのように母に傾倒するものじゃない、一生懸命に生きた一人の女性を賛歌(昇華)するものなのだ。その女性に心底添えようとした男性を陥れる訳にはいかなかった。母さんがあんなに優しかった母さんが、嘘を云うなんてと崩れる思いを踏みとどまった。いや嘘じゃないこれは真実なんだ、母は嘘の中にある真実をぼくが見抜くと期待を込めて、そしてそれが長沼への恩に対する愛情の深さだと気付くと信じてたんだ。 

 ーーどこまでもあなたは主義主張を曲げないつもりなのね。あなたは何に取り付かれたの、と礼子はもう遠いところを飛んでいる永倉に子供をあやすみたいに言葉を掛けた。

 ーーなぜおじさんは略奪に手を貸したか、手引きをしたか。そしてそれを母にも偽ったのか、それだけは信じられないし信じたくない。母との間にひとつでも偽りがあれば二人の愛そのものが偽りになる。だからおじさんが嘘を言うはずがない。だから母さんがぼくを偽った。ぼくを真直ぐに育てる為に、枝葉を剪定するように言葉を選定した。母の性格からすればこれは辛い、だけど長沼を裏切ることはもっと辛かったのだ。血の繋がりは切れないが、愛はひとつの嘘で絆が切れてしまう。だからこの子が大きくなって物事を正しく理解する日が来る、と信じて信頼の大切さを母は身を持って知らせた。

双方に正義が有ると信じる以上もう結論は出ない。永倉の切実なる訴えに礼子は交渉を打ち切った。自分の主張を押し切って、いや母の名誉を守って永倉は退席した。だがその後ろ姿には勝利者としての誇りがなく、ただ哀愁だけが漂っているのに二人は胸を締め付けられた。そこに知代子さんと云う人物像が重なった。

 長沼から聞かされた真実を幼い息子に伝えるには生々し過ぎて彼女は苦しんだ。そしてこの子はいつか解ってくれると真実を少し歪ゆがめた。今、井津治は母の心に寄り添ってその事実を受け入れようと、必死にもがき心の浄化に努めていた。彼を見送った二人はその後ろ姿を見詰めた。母と子で屈折した事実を真っ直ぐに繋ぎ合わせようと彼なりに心を痛めていた。

「何かそれって嘘から出た誠って云うやつなんだろうね」

 主張し合った後の沈黙から野々宮が誰に云うでもなく紡いだ言葉だ。

「おじいちゃんが略奪に加担した。それでおじいちゃんの人格の全てを否定すれば亡くなった二人の女性は浮かばれない。それにこの二人の血は私には一滴も流れてない、でもその思想は大河のように流れている。野々宮さんどうすればいいの」と頼った。

 あなたが初めてぼくの陰に入った。女は恋したら負け、弱くなると云うけれどそんな時に彼の愛しさは増した。

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