第39話 井津治の失踪

 永倉は翌日、会社に一週間の休暇を出して忽然と消えて部屋はそのままになっていた。このまま時効まで消息不明のままだと遺言は白紙になる。もっとも残り一週間で私との結婚が成立すれば遺言は実行される。でもその望みは薄く直近の配偶者に行き渡る公算が高まる。まだ無効になった訳ではない。井津冶が一時姿を消しただけだ。彼は真っ向勝負を避けてただ旅に出ると云う口実で失踪した。

 早朝、礼子から慌ただしい呼び出しの電話で知った。二人は喫茶店で落ち合った。彼女は説明を終えると少し困ったように沈黙した。

「一週間ギリギリまで留守にするはずがない、多分二、三日して今日は何日なんだろうってとぼけて帰ってきますよ」

 沈んだ彼女に野々宮は明るく切り出した。礼子は一寸的外れな彼の気遣いに少し笑って応えてから言った。

「無理にも何かしたいのにあたしが動かないからあの人、もう精神の破滅の限界に達したのよ、だから旅に出てしまった」

精神の破滅は大袈裟すぎるが、彼女には落ち込む暇などなかった。

「精神の破滅、それって失恋じゃないですよね、もっと大事なもの、後はお母さんへの思いだろうか」

野々宮は永倉の立場で物事の行き着く先を考えた。それは彼の母の立場に置き換えてこの問題を考えれば・・・。

「今までの経過からすると長沼さんの遺言の意味は礼子さんに譲ると云う単純なものでなく、もっと深いものが託されている様な気がしますね、永倉さんもそれに気付いて動かれたのではないだろうか」

「だとすれば、おじいちゃんが残した最後の言葉、つまり遺言だけど、この文面を今まで額面通りに受け取っていたけど、それに気付いたあの子はもう遺産なんてどうでもいいのよ、それよりおじいちゃんの真意を知れば、この遺言に託された真意を祖父が成仏するまでに実行したい、それであの子は居ても立ってもいられなくなって動き出したのよ、多分・・・」

「とすれば・・・。彼はどこへ行ったんだろう礼子さんひょっとしたら知ってるんじゃないの?」

「心当たりがひとつだけあるわ」

「何処?」

「多分、亡くなったお母さんの実家。行ってみる?」

「遠いの?」

「能登半島」

「でもお父さんの方かも知れない」

「行くはずが無いでしょうお母さんは夫の暴力から逃れて来たのに ・・・。でもその男、最近うろつき出したと言っていた。あのコの遺産を目当てに、今まで見向きもしなかった男が手の裏を返したように迫ってきているのよ、それから逃れるのもある。期日が迫るのに肝心の金づるの息子は行方知れず、それはもう地球が引っくり返る出来事であの男も必死で懸賞金を付けてヤクザに捜さしているかも知れない、で遺産が当て外れになれば今度はあの男がヤクザに追われる、そうなればお母さんの恨みも晴らせる、判る? 母の成仏か自分の出世か、さあ井津冶はどっちを取るでしょう」

 茶化す彼女は苦しい時ほど自分を誤魔化す行動に出る。その笑顔の裏側を知る野々宮も辛くなってくる。だがピエロは悲しんだらいけない。

「呑気ですね、そのキーポイントは礼子さんあなたでしょう」

 彼女はNO、NOと人さじ指を立てて左右に振ってその手を裕慈に向けた。

「でもこれを逃してもあのコには叔父さんの養子としてあたしの世代には多少の財産は多分、入るでしょうね。でもあの男はそんな余裕はないから、だから息子を金づるにする為に今度は邪魔なあなたが狙われる番よ。それでもあたしと能登半島へ行ける?」

「ご一緒ですか?」

「今、余計な事、考えたでしょう、勘違いしないでレンタカーを借りるから運転手がいるのよ」

「まあそれはそれとして。そんな事情を知れば永倉さんはお母さんの実家には行かないでしょう」

「ご名算。鋭いはねえ、でも兄弟同然のあたしにはそこへ行けば行き先が分かる。能登にはおじいちゃんが贔屓にしていた旅館があるのよそこへ泊まるけど期待しないで部屋は別々よ」

 即断即決、定職のない彼女はともかく、野々宮も店長の桐山へ電話一本で済む。二人は北陸線の特急「雷鳥」で金沢から七尾線に乗り換えて能登へ向かう。

 サブロクの規定では本社待機は月三回パス出来た。しかし旅行に出ると訊いて桐山は「今月はもう五本。二十三万取ったとはいえ来月解約されてもいいようにこれからの稼ぎが本当の実入りやから旅行どころやない」と釘を刺された。それでも相手があの娘と知ると店長は絶句した。

「あの娘にちゃんと説明したか。こう云う事情で生活に困ると」

「何も言ってません恋の道行きにそんな野暮なこと言えますか」

「向こうは遊びやどッ、それで一銭も払わんとお前の金で遊ぶんちゃうんか」

 店長は止めとけの一点張りを振り切った。二十万の天引きで生活が頓挫する、と云う事情を彼女に説明しても、ピンとこないから言うのを諦めた。

 京都駅で待ち合わせる。彼女はスカートでなく用心したのか珍しくジーンズ姿で裾を少し折り返していた。軽快な服装だねと辺りを見回しながら冷やかし半分な言った。

「何をキョロキョロしているのさっき言ったのを気にしていてもあいつらはそう簡単には姿を見せないわよ」

「やっぱりさっき言ったことは本当なの?」

「怖じ気づいた。そんなことで家(うち)の御曹司になれると思ってんの、甘いわね 第一あなた覇気がないのよ、そこが井津冶と違うわ、まあ育ちが違うからしょうがないか」

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