第36話 井津治は再び野々宮へ
外食を済ませてアパートに帰り着くと、聞き流していた店長の言葉が不安を伴(ともな)って蘇ってくる。彼女は家族の目をそらすカモフラージュに俺に接近しているのか。そうだとすれば永倉との不仲も演技で、喪が明ける直前に二人で婚姻届を出す腹なのだ。これが一番周りから一切干渉を受けずじっくり進められる、それに違いない。だが一方で叔父の長沼啓二との養子縁組み話しは流れるのだろう。どっちにせよおじいちゃんは永倉に会社を任すつもりで孫娘二人は嫁に出したんだろう。どっちに転んでもあいつには遺産が残る。娘のいる長男でなく子供のいない次男に好かれるようにしたのならあいつは腹黒い、その正体を知っているのは化けの皮を剥がすと言っていた礼子さんだけなのだ。イヤ待てよ裏であの二人は結婚の約束を取り付けているのなら? 。
考えれば益々ど壷にはまってゆく。向こうは二十年とこっち一ヶ月弱ではハンディがありすぎる。最初から勝負にならないのに彼女に惹き摺られている、いや盾にされてるんだ俺は。何のために? 。そんなことしないで、ふたりはさっさと一緒になればいいんじゃない、バカバカしいと最後は酒を呷(あお)った。
翌朝朝礼が終わり一服する野々宮に、ホールの受付事務の女の子が来客を告げた。会員に入りたいと云う客とちゃうか、と周りは囃し立てた。若い人だからその期待は当てはまらないわよ、と事務員は水を差した。それゃあそうだ、向こうから来る訳がない、とみんなは笑った。その声に押されて野々宮はホールのロビーへ行った。そこで待っていたのは永倉だった。
「こないだ話したおじさんの裏づけを取りに宇土原さんに会ったそうですね。なんで君らは僕以外にあっちこっち訊きまわるのか、それなら最初からぼくの話しを聞くよりそうすればいいんじゃあないか、なんかぼくの身辺を嗅ぎまわされて気分が悪い。一体どういうことだ説明しろ。話し次第では容赦しない。あの話しは母からの伝え聴きだ。だから母が冒涜されているようで不愉快なんだ。ぼくには唯一のかけがいのない人の尊厳を踏みにじるようなことは止めてくれ」
「わたしも礼子さんもただ真実を求めてるだけだ」
「それが気にいらないと言ってるのが分からないのか、母が嘘をつくと思ってるのか」
「お母さんでなくその大元が事実がどうか疑わしい」
「自決の話しなら聴いた母の心眼に狂いはない、事実だ!」
「だから裏づけを取っている、例えば位置情報と云う場合は距離と方角の二つが分かって初めて真実になる、ひとつではダメなんですよ」
「お前は俺を怒らせる気か彼女からお世話になった人間だと訊かされてるから今まで黙ってきたが場合によっちゃ容赦しない」
「ホウ容赦しませんか。だったらどうなんです気の済むようにしては」
永倉は薄笑いを浮かべて「お前の魂胆が見えた。俺を怒らせて彼女から見捨てられるように持ってゆく腹積もりか、正攻法で向かってきたらどうなんだ」
「今度は正攻法ですか。どう説明すれば解ってもらえるんでしょう。長沼さんとアレクセイの信頼関係が問題なんです。明日はどうでもいいと切羽詰まった状態でなければ、血縁以上の繋がりでも資産を全て譲る、預けると云うことはありえない。まして同性では絶対に起こらない。たとえ戦火の中でも民間人なら相手も同胞なら生命財産には幾らかの猶予があったでしょう。それでも無視して移譲がおこなわれた。その手段を問題視するのは当然ですから、やはり重複する証言を求めるのが人の常でしょう。礼子さんが納得するまで手伝うつもりですがこれに異議はありますか」
「俺はあのロシア人と生死を超えた繋がりが有ったと信じる。が勝手にするがいい。だがおじいさんはどっちに転んでもぼくの身の立つように計らっている」
永倉は叔父の啓二との養子縁組み話しが進んでいる。長沼啓二からの誘いである。永倉は兄の清一から疎まれる反面、子供のない弟啓二とは寄りが良かった。啓二にはもうひとつは養子縁組みによって、亡き父の孫娘への手厚い遺言状もホゴに出来て、遺産も正規の遺留分以上に受け取れる。もし礼子が拒んでも永倉をバックアップしてやれる目論見もあった。
長沼さんが永倉を長男の娘と一緒になるか、次男の養子に入るかと考えていた。そこまでして彼を後継者にしたい理由は何なのか、創業者としての自分の名誉を守りたいのか。とすれば過去のどこかにほころびが存在していたんだろうか? 永倉はそれより母の尊厳を守りたいただその一点に縮尺されていた。だが彼の主張の正当性はまだ維持されている。
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