第35話 井津治は異母兄弟を訪ねた。
駅から環状線のガードをくぐり抜け、商店街を抜けて幾つかの路地を行きつ戻りつつして、兄と妹がひっそりと暮らす狭い古い木造のアパートをやっと見つけた。
兄は中学を出てから町工場で働いていた。井津治は女から聴いた時間、兄が帰って来る時間に合わせて尋ねた。かろうじてトタン張りの屋根が付いているが横殴りの雨に遭うと裾を濡らしてしまう階段を上がった。二階も同様に長い通路の片側は鉄製の手すりだけだった。女から聴いた表札のない部屋番号の呼び鈴を不安気に押した。二、三度押してから母親の紹介だと云うと、少し開いたドアから若い男の顔が半分見えた。
井津治はドア越しに、永倉の親戚筋でお父さんに会いに来たらお母さんが此処を紹介されたと伝えた。男は念を押してから井津治の顔を見極めて招き入れた。
狭いダイニングキッチンの奥に和室があった。その奥に更に狭い物置のような部屋があった。ここも女の家と変わりはなかった。女の言った時間に間違いはなかった。丁度食事が終わりくつろいだ時間だった。ホームセンターで売っている足が畳める簡易のテーブルが一台だけ置かれていた。妹が置いた座布団の上に勧められるまま座り込んだ。ただ母の紹介と言うだけで兄弟は突然の井津治の訪問に神経をとがらせていた。そうでなければ押し売りのように玄関払いを喰っていた。だがそれと変わらない雰囲気には違いない。
兄はどう云う親戚か聴いた。父方の遠縁に当たると答えた。妹も喋らず作り笑顔がぎこちなく変に見えた。兄も頬を崩すことなく淡々と受け答えをした。
中学生の妹もバイトをしていた。どうもここの家賃は母親が払ってるようだ。そして此の居場所は父親には知らされてない。やっとこれだけの事を兄から聞き出した。終始妹は傍に居ながら意見を挟まなかった。
「そのお父さんのことだけど今はどうしてるんだろう」
兄はどうも同じ苗字(みょうじ)じゃ呼びにくいから名前にすると言い出した。井津治は了解した。
「井津治さんが借金取りじゃないってことは分かったけど内の母から父の事を訊いてくれと言われたそうだから言うけどそうでなければ言いたくないが・・・」
そう言いながら兄は重い口を開けた。
「父は再婚だが母は初婚だったと言ってもクラブのホステスだから怪しいものだ事実母は浮気っぽい人だったが戸籍では初婚だった」
横合いから突然矢の様に言葉が飛び出した。
「お兄さんのその言い方だと誤解するでしょう」と妹がやっと意見を言った。兄は少し頬を緩めて妹を見た。
「此の人は母と話し合って来た人だから僕の口足らずなとこもキチッと見てくれるから」と妹を宥めた。妹は井津治を一瞥して黙った。
兄の口調からは父より母の方が倫理感はしっかりしているようだ。最初から言い寄ったのも父の方だった。前妻を罵倒して母から同情を惹きだして再婚したらしい。この辺りの気の惹きかたはみごとと云うか成り振り構わなかった。これは最近現れたあの男を見れば頷けた。まあ此の歳ならそこそこの条件が折り合えば男女はある程度の不満には目を瞑るらしい。若い井津治にはひとつの教訓になった。妹はなぜ此の人に家族の事を話すのかと云う疑問を時々ぶっつけて来て何度か中断した。二人の対話から母親は兄には伝えても妹には何も言ってないようだった。話しを訊く内に自分の母とあの男とは真っ当な人生を歩むと云う信念が欠如していることがハッキリした。これで完全に吹っ切れて井津治は退散した。そして話しの節々で二人は父への不満も知った。そこから父、永倉喜一の姿が浮かび上がるのは同じ思いだった。違いは此の二人は自立出来ても当時の井津治は幼すぎた。だが結果は少し違った。母が長沼のおじさんと巡り合ってなければ俺の運命は此の異母兄弟と重なっていた。どうしてもおじさんの意志を貫徹させなければと駆り立てた。
夕方には前日の葬儀の喪主から三千円の会員書が取れたが案の定この一件分だけだった。まあこんなもんだと桐山店の在る高野ホールへ戻った。店長は一件だけか寂しいのうと言いながら書類の点検を終えて受け取った。今月は出だし好調やったが、あの後は一件ずつか。今月は坂下の月間記録を抜けるかと思ったが、まあまだ日はある頑張れ、と可笑しなハッパを掛けてきた。
「野々宮、お前あの末娘と付き合ってるそうやなあ」と切り出してきた。
ーープライベートな事に口を挟む気はないが、あそこからはなんせ五件も入ってもらってる。そこやが、向こうが熱があるなら別やが、そうでないならお前の方からごり押しすんなと忠告された。あの娘は遺産を家族からそらす為に、お前を利用してるんちゃうか、と更に推測してきた。本命の永倉でなくお前なら期限切れで効力を失って本来なら貰うべき人のところに公平に分配される。だが永倉と娘が更に接近すれば周りは気が気でない。それで娘はお前を四十九日の喪が明ける前まで利用してるんちゃうか。それで喪が明ければおじいちゃんの道楽もこれで一件落着、でめでたしめでたしで終わりそうやないか、だから店長は本業に励めと言っていた。
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