第31話 井津治と野々宮2
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そもそも進駐軍の兵士を相手にロシア人の資産を増やす橋渡しをしたのはおばあちゃんだ。その功労者の妻は知代子と由貴乃と云う二人の女性の片隅に追いやられていた。そして祖父はその一方の忘れ形見である永倉を相続人として名指していない。そこに礼子の苦悩が見え隠れしていた。また彼女の考えをさまたげない為に、それに触れることを皆はタブー視していた。永倉の身辺は金で汚れてないし、本人も若さからか欲もない。第一、礼子は天の邪鬼で掴みどころがない。永倉以外の事には熱の篭もった議論になると平行線になるので、面と向かって言い争うことはなかった。しかしこの二人はどちらかが言い負かすまでやりあうからいつもケンカ別れになる。最近は歳と共に妥協点を見出し折り合いを見付け出した。聞こえは良いが問題の先送りである。それが自然と互いの見えない溝を成長させてゆく。
「おじさんはそれを見抜いて先手を打ったんだ」
二人の優柔不断な態度に業を煮やし介入した。勝手と言えば勝手過ぎるが、親の権威が失落とした今日に於いて、取りうる最大の行動を取った。そこに知代子に対する血筋を越えた長沼の執念が見える。
「健全な子孫が生まれるとは限らない。つまりおじさんはぼくに人の思いを受け継ぐのは血筋、血縁だけではない。永遠に生きられないなら、語れないならもっと深い繋がりを遺したい。怨讐を残さず、残された時間の中で迷いながらもただその事だけを考えた。美しい想い出を綺麗に繕うのに、最善の策を練って作られた遺言だった。二人の息子、清一さんと啓二さんにその面影はない、三人の孫娘ですが。佐伯さんに嫁いだ優子さんや宇土原(うどはら)さんに嫁いだ雅美さん夫婦にもその片鱗さえ見えてこない。消去法で残るは彼女ひとり、遺言の全てが彼女ひとりに託された訳ですよ、野々宮さん解りますかあなたにそれが・・・」
「礼子さんが受け継ぐ資産の基はアレクセイ・ラブリネンコさんのものですよね。アレクセイ・ラブリネンコさんは本当に自決したんですか? それだけの、二十年溜め込んだ物を戦乱の中とは云え長沼さんに託すでしょうか? しかも上陸した兵士は故国の人々、同胞ですよ」
「あなたは尼港事件を知らない。解放軍がどれほど恐ろしい連中か、同胞さえ思想が違えば皆殺しに遭わされる。そんな奴らが真岡までやってくればどうなる。それに由貴乃さんだってお父さんもいた」
「すべては亡くなっている」
「何が言いたいんですか!」
「汚れた金なら礼子さんは受け取らないと言いたいんですよ」
「どういう経緯で受け継いでも今の全資産から見れば些細な金額ですから大半は戦後稼いだ資産ですからどうって事はないでしょう」
「ぼくが言いたいのは、長沼さんの思想の源流が真岡の出来事にあるとすれば今の資産も当時と同じだけの価値がある、と言いたいんです」
「なぜそんなに拘るンです」
「拘ってるのは永倉さん、あなたでしょう。あなたはなぜおじさんの生き方に拘ってるんですか。大事なのは礼子さんの考え方でしょう」
「だから結婚相手は指定していないから自由じゃないですか」
野々宮はひとつ吐息をついた。
「元に戻りますが、アレクセイは自決したんですか?」
「信じるしかない。当時一緒だった由貴乃さんが、母の面影を曳いているその彼女を信じないでぼくもおじさんも生きていられないでしょう。それより礼子さんがそんなこと言ったのですか?」
「いや、訊いてないが大きな問題だ。樺太のクルーズ船の二等航海士だった宇土原さんは現地で一緒だったでしょう。何も聞いてないんでしょうかねえ?」
「さあ、直接本人に訊けば。急がないと次の出船が迫ってますよ。ついでにあなたの営業も出来て一石二鳥じゃないですか。まったく人の死を当て込んだ商法なんてハゲタカとどう違うんですか、彼女に本当に近づきたいんならもっと真っ当な仕事に就いたらどうなんです」
「人生最後のそれこそ有終の美を飾る仕事ですから」
「いいキャッチセールスですね、それでその葬儀費用の月掛けの会員を勧誘するんですか、困った人助けなんですね。その内、飽きられますよ彼女に」
永倉は皮肉たっぷりに言った。大きなお世話だ、この男が何と云おうとこっちの恋は進行形だ、その余裕からこっちも皮肉っぽく返してやった。
「じゃああなたの思いどおりに運ぶんじゃないですか」
「ぼくの言いたいのはおじさんの金の出所を探る資格があなたにはないってことですよ」
「悲しみに暮れる遺族の代行をしてるんですよ私達は世間から蔑まされる仕事じゃない」
野々宮にすれば自分の仕事をこれほど擁護と弁明に努めたのは初めてだった。永倉の言ってることは常日頃彼が抱いていた疑問に他ならないからだ。
その晩には本社待機の知らせが入った。明け方には担当する葬儀が決まり、通夜と翌日の告別式の担当が終わると、礼子から姉と会う承諾を得たと知らせが入った。
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