第17話 祖父の奇妙な遺言3

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 車はヘアーピンカーブが続く比叡山の坂道をゆく。曲がり角に差し掛かると彼女の身体が寄ってくる。余り傾斜がきついと彼女の両手は野々宮の肩に寄りかかり、そのたびにその甘い吐息も漂う。

「免許持ってないって云うから車が好きじゃないのかなあと思ったけど結構愉しんでますね」

「井津冶は歩くのが好きなのよ、だからいつも歩いてばっかり。だから」

 これはカーブのせいでなく永倉に対しての反動だ!

「ぼくも歩くほうが好きですけど仕事上走らないといけないからなあ」

「井津治も早く自立したから免許は必要だと言って取ったのよ。おじいちゃんねその時、彼に『車を買ってやろう』なんて言い出すのよもちろん彼は辞退したけれどそこまですんのかと正直思ったの」

「それは永倉さんじゃなくて彼のお母さんにたいして深い思い入れがあるんじゃないんですか。会ったことはないんですか。お母さんに」

「一度だけ会ったけど小学生のときだから。確かにおばあちゃんとは違う。・・・おじいちゃんの理想の人じゃなかったのかなあ」

「おじいさんの理想?」

「ひとことで云うとあたしたちの名前、優子姉さんと雅美姉さんとあたしの名前から浮かび上がる人を想像すれば井津冶のお母さんに重なるんじゃないの。一度もおじいちゃんはそんなことは言わなかったけれど。そう考えるとこの遺言は奇妙じゃないでしょう」

「確かにそう取れなくも無いですね。永倉さんのお母さんがそうだとすれば望みは叶ったけれど儚く散った以上やはり完遂せにゃあならないと思いなおした。・・・ひょっとして四番目の孫には女の子なら慈って云う字を考えていたんじゃないのかなあ」

「? 慈(いつくしむ)・・・まさか裕慈さんあなたなの」

「これは女の場合だ、だからお父さんは清一でしょう弟さんは?」

「啓二(けいじ)」

「おじいちゃんが求めた理想の女性像を男に付ける訳がない。だからぼくは関係ないしあくまでも閃き、インスピレーション。おじいちゃんは違うかも知れない」

「妹まで考えたことがなかったけどなぜ慈なの?」

「失礼ですけどこのお三人に欠けてるものと思って」

「本当に失礼しちゃうけどそれがおじいちゃんのメッセージだとしてもあたしにはあたしの生き方があるでしょう、祖父が何と云おうと。・・・だったら裕慈の慈を追求してみようかしら」礼子はそう言いながら一寸裕慈を見た。彼は正面を見ながらも視野の端にこの礼子の表情を捉えていた。

「で永倉さんはどうなんですか?」

「好意を寄せているけどあたしは迷ってる」 

 あの人とは長いお付き合い。幼い頃から兄弟のように育って今もその延長線上にある。要するに異性としてのときめきがないまま今日に至ってる。要するに本当の恋を知らなければ一緒になる意義が見つけられないと云う。  

「その人のもってるすべてを気に入ればいい」

「悪いところも?」

「当然そこが一番大事なところですよ。長所は皆が認めてくれますよ、傍らに居る人しか見えないものそれを育てるのが慈愛でしょう」

「慈愛か・・・」

 礼子は呑み込む様に言った。

「解りきった理屈だけど形が掴めない、見えない。どうしたら感動するのあの人の何に感動すればいいの・・・」と礼子は笑った。自分で答えを見つけなければ何の意味も無いのねと今度は寂しく笑った。

 何の前触れもなく行き先を訊かずに、野々宮は車を走らせたが目前の山はとっくに越えて湖岸道路を走っていた。次第に湖が大きくなり対岸が遠のいて、はるか向こうに見えだしても礼子は一向に気にするようすもない。それどころか良い気晴らしになるのか気持ちよさそうにいつまでも眺めていた。

 視野に広がる琵琶湖の風景から話題を変えた。彼女は井津治に本を勧めた。彼を追いかけ回した。それから彼は小学校では駆けっこが得意になったと聞かせてくれた。

「すべてあたしが引き出してあげたようなものよ」と帆を上げた船のように颯爽と彼女の心が動き出した。

 湖畔のレストランで昼食を終えるとさすがに彼女も時間を気にしだし「帰りたくないけど帰らなくっちゃ」と言い出し、今日は楽しかったわと添えた。帰りはもっと手前から京都に抜ける道はないの? と訊かれ琵琶湖大橋から西に曲がり途中越えから大原へと抜けた。

 彼女はなぜか、もう井津治が帰り着いてるはずの堅田を避けた。それを訊くと「だって今朝送ったばかりなのに彼の近くを通るのは冥加(みょうが)が悪い」と云っていた。この対象は井津治でなく、もっと俗世に滞留する取り止ない物を指している。とにかくなんで此処でこんな古い言葉を使うんだろうと思ったが行き当たらなかった。

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