第18話 野々宮と井津治

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 礼子を送って野々宮がホールに戻ったのは四時近かった。二口分の契約しかない、残りの契約書はどうしたんやと店長は問うてくる。夕べのうちにあの家の者以外は全て帰ってしまい、喪主夫婦の二口分しか用意できず残りは後日だと告げる。弁護士が遺言書を開封したがみんなは期待外れで帰るとはどう云うこっちゃと店長は説明を求めた。

 何! そんな人権を無視した遺言がどこにある、と店長は言いながら一度も会った事のない、あの老人のしてやったりと云う、憎めん顔が浮かんできた。あの故人だと有り得るかもしれん、と勝手につまらん納得をしてしまった。

  

 それから二日後に礼子から、伯父さんが持って来た契約書を預かってますので会いたいと連絡してきた。指定の場所へ行くと、彼女の隣に永倉が同席していた。彼とは通夜式の晩に一度目を通しているが、もっともあの時は葬儀の担当者だった。平素の今日はまた印象も幾分変わってもよさそうだが、此の男はあの日と変わらなかった。葬儀に感情を露わにして焼香する者もない、みんな猫を被ってるもんだ。今も表情の乏しいこの男はどうなんだろう。不幸な生い立ちからくるのか、煙草を吸う細かい仕草に神経質な性格が垣間見てとれる。最初煙草を取り出したときには、彼女はどうして紹介する前に吸うのと嗜めていた。まるで保護者のようだった。あの屋敷では吸う者はいなかったのか? それじゃどこで味を覚えたのだろう。

「家族全員の素性を紹介したのに、この人だけまだだったから連れて来たの」と礼子は言った。果たしてそれだけだろうかと野々宮は思った。

 野々宮は挨拶もそこそこに叔父さんが入ってくれた会員書をまず尋ねた。

「今日の用件はそれだったのですか」と渡された伯父夫婦名義の二口分の書類に目を通した。

 やはり月々の掛け金三千円で満期三十万の会員書だった。もう一度説得してみると云った喪主へのささやかな期待は崩れた。それでも月初めで上出来だった。坂下がどれだけ粘って苦労しているかを知っているからだ。棚からボタ餅式に会員が取れない事は重々承知していたからすぐに仕舞った。

「このためにお葬式でおじいちゃんの寝ずの番までして頑張ったのね」

 礼子は労いの言葉を掛けたが「そう云う仕事なんですか」と永倉は少し軽蔑の眼差しを見せた。間を置かず礼子は永倉を諫めた。

「この人、根は良いんだけど・・・。もっと素直になればいいんだけど。上辺に拘る見栄っ張りなんです」 

礼子のトーンが少し下がった。

「別に気にしてませんよ」

「好かった。・・・野々宮さんが云うにはおじいちゃんがあんな遺言を作った要因、背景にはあなたのお母さんの強い影響を受けているって云うから」

 突然永倉は遮った

「何も知らないからあなたはよくそんな突拍子も無い事を考えるんだ! 礼子さんに可笑しな考えを詰め込まないでほしい、部外者のあなたにかき回されたくない」

「だから井津冶、あなたの口からどんなお母さんだったか言ってあげてよ、それで呼んだのよあなたを」

「母のことをなぜこの人に話さなけゃあならないの。礼子さんはどうかしてる」

「偏らない、左右されない無関係な中立な人だからよ。そんな外部の人の意見も必要でしょう」

「なら岩佐さんがいる。彼は仕事柄絶対中立だから彼の意見を聞いたら」

「弁護士なんて所詮商売よ。当てにならない。罪の重さより自己満足なんだから、まして自分の裁量でお金がどっちにでも転ぶとなれば怪しいものよ」

「弁護士よりこの人を信じるのかい」

 勉強らしい勉強もしていないずぼらな野々宮にとって、弁護士は雲の上の存在である。その人より上に挙げてくれた礼子が頼もしく見える。

「突き詰めれば法でなく情で人は決めるべきなのよ。もういい、理屈じゃないのよ」

 世の中理屈道理に行かないから苦労するんだ。特に男女の問題は謎だらけだそれで人類の発展があるんだろうか?

「そう理屈じゃない、それは愛でもないと云いたい。結論を言えば礼子さんはぼくと結婚しなければいけない」

 この男の主張こそ理屈な気がする。愛は結果でなくて握り合った手を通じて伝わるものだ。

「なんであなたは人事みたいに云(ゆ)うの! 心から望んでいるのならそんな言い方はないでしょう!」

「それがおじさんの希望なんだ」

「祖父の希望がどうしてリンクするの」

 礼子の主張は益々感情を帯びてきた。井津治は反対に観念したように落ち着いて語りだした。

「ぼくの母さんとおじさんは金の絡んだ愛人と思われてるが、本当はプラトニックな純粋な恋だった。財力のある者の常としての愛人でなく、天使として菩薩として扱ってくれた。だがおじさんは母を愛したのであって決してぼくを愛したのではない、それも五年間だけでそのあと母は亡く十五年もぼくを養ってくれた。母は肉体でなく精神で結ばれたからだ。愛情だけでは語れない絆が出来た。それはもう理屈じゃないんだ、おじさんの意思は習慣のように染み付いている、だからこの人に話すんでなく礼子さん、君に話してるつもりで聴いてくれ」

 礼子の慈愛に満ちた笑顔で重しを取り払われた永倉は実に子供の様に警戒心を解いた。が野々宮でなくほとんど礼子と対面していた。

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