第4話 長沼家通夜当日
4
通夜の席には最初に長女の優子がご主人を伴ってやってきた。
「これはこれは旦那様ですか」
桐山が親しげに云うと、優子の返事と同時に黒の礼服の男は佐伯 (さえき)と名乗った。安らかなお顔ですよ一度見てあげてください、と桐山は祭壇前に安置された棺に案内した。丁度お顔の部分だけが観音開きになってご覧になれます、と説明すると佐伯は扉を開けて暫し眺めて閉ざした。
この人にかき回されたなあとポツリと云って佐伯は控え室へ向かった。桐山と野々宮は彼を見送った。
「おじいちゃんは手広く何でもやってましたからお気になさらないで」
そこへ入れ替わりにやはり喪服の着物に替えた雅美がやってきた。
「あら雅美ひとり。泰宏(やすひろ)さんは?」と優子が言った。
「今朝神戸に着く予定が海が荒れて今、潮岬の沖を航行中って知らせてきたの、もう直ぐ紀伊水道だから御通夜は無理みたい」
「ご主人、船に乗ったはるんですか」桐山が言った。
「二等航海士で神戸に住んではるんです」優子が答える。
「船乗りでっか、どう云う成り染めか知りまへんけど・・・、この街では余り聞かないお仕事ですね」
「そうでしょう、あの人が会わせたんです」と雅美は棺を指差した。
それから雅美は何かを念じるように、これは祖母から聞いた話だけど語り出した。
今から五年前祖父夫婦が八月に北海道とロシアを廻る四泊五日のクルーズ船に乗りました。夕方に舞鶴を発った船は翌朝小樽に着き、札幌を観光して夜小樽を出るとコルサコフ(祖父はコルサコフでなく大泊だと何度も訂正した)に朝着いてユジノサハリンスクへ(ここでも祖父は豊原だとまた同じように訂正した)祖父は樺太を尋ねることがこの旅の目的でしたね。お陰で同行させられた祖母は迷惑でした。祖母は同じクルーズ船なら南方の島々を廻る旅の方がどんなに愉しくて心弾むか知れはしないと、だけど夏は涼しいところが一番だと説き伏せられて同行したのですが。色とりどりの花に熱帯魚が群れる南国に比べて、ただ気候も天然のクーラーの様でもない。陽射しは強いし何より荒れた地に針葉樹ばかりだから、茶色と緑だけのモノトーンの世界に祖母は憂鬱になり塞ぎ込んだ。
コルサコフからカムチャッカのペドロパブロスクに向かう航海で、夏には珍しく発達した低気圧が通過したため海が荒れた。五千トンの船でも珍しく酔わない祖父達が、船酔いしてツアーの係の者もお手上げになった。その時にお世話になった船員があの人です。彼は船乗りだけあって酔いにくいコツをその後の航海で伝授してくれたのです。それが二人共えらく感激してどうしても孫娘に会ってくれと引き合わせたのです。その縁で一緒になったんです。
「それは良かったですね。おじいさんは恋のキューピットなんですね。そんな大切な人を亡くされてさぞかし旦那様もお嘆きでしょうね」
「どうでしょう巡り合わせてくれた人が危篤なら船は降りるべきでしょう、でも航海士がいなければ船は出港出来ませんもの。でも泰宏さんは仕事一途な人ですから私の葬式と出船が重なれば行ってしまうでしょうね。結婚してから近海のクルーズ船から祖父の勧めた北米航路の貨物船に乗り換えた人ですから」
「自分の葬式なんて縁起でもない。雅美どうかしてんの・・・」そこまで言いかけて優子は言葉を置いた。自分にも思い当たるものがあったからだ。
「お姉さん、どうかしたん。そう云えば佐伯さんを近づけたのもおじいちゃんだったわね」
「何いってんの。あたしが見出した人なのよ」
「でもお姉さんは迷っていた。それを焚き付けたのはおじいちゃんなんだから。過程はともかく結果は似たようなものよ。お姉さんもそれは認めるでしょう」
雅美と同じ様に自分の主人にも重なるところがあった。それはあの棺の主(ぬし)がやはり関与していた。佐伯から最近訊いて、自然に出会うように仕向けたのはおじいちゃんだと知った。最終的には自分の意志なのだが。その決定の過程でも祖父は自分の心の中に忍び寄っていたのだ。それは披露宴が終わり新婚旅行の時まで全身全霊で全てを支配していた。
ひとつの魂が姿を変えて感情をつかさどり、それは心でなく、知力を蓄える理性の中に飛び込んできた。自分の頭で考えても、おじいちゃんの言葉でしか体が動かないのだ。笑いながら姉から聞いたこの話が自分にも訪れ、このじれったさを雅美も後日苦しんだ。
「なぜおじいちゃんがそれほど私たちにおせっかいなのか分かる?」と雅美が言った。
「あたしたちが生まれた時にこの子はこうありたいと願って名前を付けた。それが勝手に育ったため修正する相手を探したのよ。祖父から反発して自由に育ったつもりでも三つ子の魂をしっかり掴んでいたのよあの人は」と優子は棺に顔を向けた。
「そんなこと此処でべらべら喋ってよろしんでっか」
「いいのよ野々宮さんの人柄で祖父の葬儀を任せたから知っておいてほしいと思って」
「ホウ、良かったなあ野々宮。お嬢さん方に信頼されて」
「幸か不幸か一番下のお嬢さんはもう影響されずに済んだのですね」野々宮が訊いた。
「・・・ウーン。そうでもないのよ。礼子は祖父が昔、連れて来た人と半年前から付き合ってるのよ。おじいちゃんはあの箱の中で今も念力を唱えてるから早いとこ火葬にしなくっちゃ。そうでしょう」と優子は茶化した。そこへ礼子が着いた。
「井津冶さんも一緒じゃないの?」
「連れて来る訳ないでしょう」
「残念ね。でもあなたも話しておいたら。あたしも雅美もお披露目したのよ、おせっかいな祖父のことを」
祭壇を背景にして祖父の棺が在りその前に居るのは姉達と野々宮と桐山の四人だけだった。姉はこの人たちに何を語ったと云うのだろう。
「何言ってるのよ! 何を話したと云ってるの」
「礼子、今朝あなたが言っていたでしょう、おじいちゃんの葬儀を担当してくれる人にはもっとおじいちゃんの事を知ってほしいわねって」
「そんなこと言った覚えないわ!」
彼女は野々宮の視線を浴びてあからさまに否定した。そして二人の姉に喰って掛かった。
「こんなところで喋るもんじゃないわ。恥を知るがいいわ。お節介な祖父の道楽に振り回されるのはもうゴメンだわ。私はもう姉さん達のようにならないわ。あの老人はもう亡くなったのよ。今まで独り占めしていた財産がやっと分配されるのよ。その意味ではこの葬式は新しい一家の門出になるのね、そうだとしたらもっと華やかなものを野々宮さんに頼んでみたら。佐伯さんは優しい人だから優子姉さんはこれから羽目を外せるし、雅美姉さんだっていっそシアトルへでも行ったら、泰宏さんが移住したいって云ってるんでしょう。この家はあたしが相続するから安心して」
「そうかしらみんなあなたの事を心配しているのよ。あなただけは染まってほしくないと」
「何に?」
「あの箱の中の人の、生き方、考え方に」
「どう云うこともうおじいちゃんはこの世にいないのよ」
「とにかく葬儀が終わって遺骨になって自宅に戻るとおじいちゃんの顧問弁護士だった岩佐さんから遺言が公表されるの」
「おじいちゃん、遺言残してるの?」
「さあ、それもあるかどうか分からないけど、無ければおばあちゃんとお父さんに大部分行くわね。でもあれば、あれほどあたしたちに干渉したのだから大部分は飛び越えてあたしたちのところへくるはずでしょう。おじいちゃんの性格だから此処まで干渉したのだから、それ相当の資金援助も惜しまないはずよ。礼子、あなたはラッキーなのよ祖父の呪縛が解けてもお金は貰える」
「優子ねえさんはどうかしている。内輪の話をこの人たちの前でどうして公表したがるの」
「私たちの事でしたらご心配要りませんよ絶対他言いたしませんから。特にこの野々宮は口の堅い男ですから。お前もなんとか合わさんかい」
「ア、ハア」
「野々宮さんのことは心配しておりません。それよりこの先、一寸ご相談するかも知れませんから、そうでしょう礼子」
「なんであたしに訊くのよ。いったいこの葬儀は何なの誰が取り仕切ってるの」
「もちろん喪主のお父さんで、私どもはその意向に沿って動いてるだけですから、もちろん相談を受ければアドバイスもします。それが気に入れば早速そのようにしてますが、何分お父さんは不慣れなのは当たり前ですが、やはり経験豊富な私どもの意見に同意された結果に基づいてますから・・・」
「もういいわ」礼子は桐山の講釈を遮った。
「分かっていただければ恐縮です」
なぜ入り口のこんな目立つところに会場を設営したのでしょう。よその葬儀に来る人の目に留まるから動物園のパンダのように落ち着かないわ、そう云って礼子は控え室に行った。
「妹の気分が優れないのは私達のせいでも、もちろん祖父の死とは関係ありません。あの男と問題を起こしているからです。あの男とはさっき口に出した永倉井津冶です。彼がどんな男かまだご存じないでしょう。多分この会場にも顔を出すからじっくり品定めをしてほしんです。特に桐山さんはなかなかの千里眼のようですからひと目見て大方の見当を付けられるんでしょう。あたしたちはもう長い事、身内のように見てるから第三者の厳しい評価が必要なんです」
野々宮は優子の推測が案外的外れでないことを見抜いていた。店長は確かに大ざっぱな所はあるが人の本質を見抜くものがある。その人がどんなにすぐれても、或いは金に困窮しても身内の葬式だけは挙げる使命感のある人を見出す。この嗅覚には野々宮も感じ入っている。だが此の人でも恋の好き嫌いの裏を読むのは苦手らしい。
「当てになるかどうかぐらいですよ大雑把(おおざっぱ)な見込みですよ」
「そうでしょうとも初見で細かな分析が出来れば精神科のお医者さんになれるわね」
「医者ですか、きょうびは機械ばかり信用して心の内を見抜けないヤブが多いですからね」
「野々宮さんは特定の人の心は読めても一般の人を読み取るのが苦手なようですね。特にご自分に素直な人はそう云う傾向が強いです、想い詰めたら他の人が見えないタイプ」
「他が見えないかどうかは解りませんが真面目がとりえの男ですから、あっそろそろ来訪者が来ましたね。・・・会員のほうよろしく頼みますよ」とアピールして桐山と野々宮はその場を離れた。
三階建てのこのホールは葬儀の規模に応じて、三階は三つの会場に二階、一階は二つにと区切る事が出来た。弔問客と祭壇の大きさから一階は区切らずに設営された。
深夜に亡くなり、その日の内にお通夜と慌ただしいかった。その分、今は広い会場には限られた身内しか居なかった。一寸広すぎないかしらと云う遺族に対して、野々宮はこれぐらいないと住職の読経が終わるまでに、弔問客が百人以上のご焼香はご案内が出来ません、と説明して豪華に設営していた。
広い会場に用意された椅子に夕暮れと共に、弔問客が順次着き始めると遺族は納得した。棺を囲んでいた娘達には、献花や弔電の確認作業が加わり、更に訪れ始めた弔問客の応対に追われると、桐山たちも案内に奔走し始めた。そしてとどめはA社の制服を着たホールの女の子が、住職の来訪を告げてから私情を挟む余地のないほど忙しくなった。
住職の控え室は用意されていたが、長沼家の菩提寺の和尚さんゆえか、向こうの控え室に行ったきり戻ってこない。桐山はそろそろ和尚さんにこちらの控え室で待機してもらわんと進行に差し支えるからと野々宮に呼びに行かせた。
祭壇の前に遺体が安置され、その前に住職の席があり、その前が親族席で次に焼香台によって分けられた弔問客用の椅子が百ほど並べてあった。それが三十分前には八割ほど埋まっていた。店長が応援に頼んだ山岡と篠田がやって来た。薮内と福島は本社待機が迫っていた。
「野々宮さんすごい式ですね、これじゃ会員は入れ食いじゃないですか、営業放棄して来たんですから七千円取れたら何かおごってくださいよ」と山岡は顔を合わせるなりたかってくる。
何言ってんね仕事やないか野々宮、訊くことはないぞと桐山は弔問客の誘導に二人を立たせた。
山岡の営業活動は葬儀の翌日までで、あとは次の本社待機までパチンコ店で、営業と云う名の時間つぶしだった。篠田は己の領域をはみ出さず底辺に留まろうとするが、山岡は留まらず他人の領域まで平気で踏み込んでくるやり手だ。油断するとなんぼでも隙を衝いてくるからヤクザみたいなもんだ。巧く立ち回らないととんでも無い事になる。
増員されたバイトの女の子が会場内で増える弔問客を案内する。やがて野々宮は十分前には親族を席に案内した。七時に野々宮が祭壇の脇で通夜式の開始を告げて、ご導師の入場着席をもって通夜経の読経が始まった。
通夜式が始まると導師が退席して終了を宣言するまで野々宮は席を動かず、ホールに配置された関係者に指示をするだけになる。これによって会場の全ての客に彼が取り仕切っていると云う印象を与える。これで式の後には担当者が会員勧誘をスムーズに出来る。これがA社の会員獲得のシステムになっていた。死亡通知の待機から骨挙げまでキツイ仕事を社外の人間にしかも無給で担当させ、ホール内の客の前では一番頼れる存在にさせるのもそこにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます