第3話 長沼の遺児・永倉井津治

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「おじさんが亡くなった」 

 今朝、長沼の死を伝え聞いた永倉(ながくら)井津治は会社を休んだ。だが何もせずにただ琵琶湖が望めるアパートの窓に肩肘だけ乗せていた。開けた窓からはやけにうるさい蝉の鳴き声だけが響いていた。

最後に会ったのは四日前の休日だった。倒れる前に会った時より急激にやつれていた。それは飛ばし過ぎた車が急に整備不良でエンストして動かなくなったように。覚悟が足らなかったのかおじさんを見て呆気に取られた。それだけにこの日は知らせを受けても、湖面のさざ波を朝からぼんやりと眺めていた。そんな時に突然玄関ブザーが鳴った。それは折り重なる亡者の群れから起き上がろうとする者を見つけた時の様な戦慄が走った。恐る恐る井津治はドアに向かって誰何した。

 中年の男が突然に永倉喜一(ながくらきいち)と名乗って尋ねて来た。奥底にしまい込んだ記憶を呼び戻すのに時間が掛かった。その間に男は労(ねぎら)うような眼差しで暫く佇んだ。

 二十年もの歳月が目の前に一気に現れた事実に最初は戸惑った。二十年もの隙間を埋める為にやって来た男を門前払いするほど理性は狂ってはいないから招き入れた。腰を下ろして対面すると遠い過去を連れて来た男は立派に成ったと井津治を褒め称えた。

最初は愁眉を開いて聴いていたが、その内にこう云う結果を招いたのは全て妻の千代子のせいだと喋る辺りから、この男のネチネチとしたその口上がむかつくようになった。後は一方的に男に対する怒りばかりが溜まりだした。終に自己弁護に終始するこの男に怒りをぶっつけた。

「別にあんたに褒められるいわれは無いし母を罵倒する資格もあんたにはない! もうその辺で帰ってくれ」

「お前の気に障る事を言ったのなら謝る」と男は頭を下げたが濁りきった目はぎらついていた。

「あんたが勝手にやって来たんじゃないかそれにとうの昔に縁は切れている」

「遠来の者にそう言ってしまえば身も蓋もないじゃないか」

 この辺りから男は本性を現してもう一時間近くも井津治に遺産の質問攻めを繰り返していた。

 最近親同様の人間が亡くなってその遺産目当てに男はやってきていた。この男になんと言われようと亡くなった人とは、親子以上の付き合いは有っても法律上は赤の他人だ。だから目の前の男に何を言われても遺産の話は進めようがなかった。

だが男はあれほど大事に育てられた以上は認知されているのは当然と思い込んでいた。井津治が幾ら否定してもだった。それどころかびた一文も渡したくない腹積もりだと、男は思っているから話は平行線だった。

「最近の生活はどうだ」と男は話題を変えたが、諦めたつもりでなく仕切り直しをしただけだった。葬式が終わって一段落すればまた出直す腹だった。

 男は今まで葬儀場へ下見に行っていたらしい。寺でも借り切ってするかと思えば庶民的な葬儀ホールだった。あれじゃ安上がりでそんなに金を残して遺族もがめついもんだと言いふらしていた。

 そうじゃない使うところには使う、無駄なものには金を使わないだけだと井津治は反論した。この違いで長沼は一財産築いた。そう云う目を持たないこの男を井津治は蔑んだ。当然遺産なんてこの男に分ける気もなかった。しかし相続権がないのも事実だったが、男は鼻から納得しないでまといつく魂胆だった。

 話が尽きてからもう随分と対面していた。男はいっこうに帰りそうもなかった。部屋へ招いたのが間違いだった。

「だからもう話すことはない」

 としびれを切らした井津治は最後通告をした。

「法律がどうだろうとお前との縁は金輪際切れねぇからなぁ」

そんな捨て台詞を残して男は去った。

井津治は男が去ったドアを暫く眺めた。

 よくもヌケヌケと今更やって来たもんだ。あの男にはプライドや意地ってもんがないのか。そんな厄介なもんがありゃあ今の世の中あの男はそんなに上手く生きられねえか。とにかくあいつは母の美しい想い出を掻き回す為だけにやって来たもんじゃないか「ハゲタカみたいな男だ」考えれば考えるほど腹の虫が暴れ出した。しかし湖と向こうの山を眺めていれば腹の虫はおとなしくなる。それほど湖西の風景は彼に多くの安らぎを与えてくれる。更に湖北に足を伸ばせば琵琶湖に突き出た岬が、湖を世間から隔絶するように孤高の境地に誘ってくれた。今朝は湖北に思いを寄せておじさんを偲んでいたのに、なのにあの男はまた俗世間に引き落とした。

幾ら縁が切れたとはいえ二十年ぶりに尋ねて来てくれた。懐かしさの余り此の時はいやな過去を一瞬脳裏から消し去っていた。突然の思いもよらない出来事に、大恩ある長沼さんのお通夜まで記憶の外にはじけ飛ばしてしまった。それが我ながら未熟で不徳な人間だと己を呪った。

「とうに別れたとは云え、なんで母はあんな男に気を許したのだろうそれが若さだったのか、いや恋は盲目で他に何も見え無かったんだきっとそうに違いない」

だが母は二十年も前に亡くなっていた。それを確かめられた相手は何も無い男だった。長沼のおじさんだけが母の本当の価値を知っているはずだった。しかし母が徳の有る人だったのか確かめるべき人も昨夜に見罷(みまか)った。今日がその人の通夜だった。


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