それでもこの冷えた手が

風都

第1話 思い出のココア

 小学生だった頃、私は背が高いことで周囲から浮いていた。


 クラスの中でも1番のノッポ。6年生よりも大きいこともしばしばあった。

 久しぶりに会った親戚からは中学生に間違われたこともある。大人しい性格も合わさって、大人っぽく見えるらしい。

 けれど、私は背が高いとか、大人っぽいと言われるのは嫌だった。友達が私を見上げて話をするのも、男子にからかわれるのも、大人達がヘラヘラと背の話題を出すのも全部嫌だった。要するに、大人になりたくなかった。



 そんな面倒な時期にいつも一緒にいてくれたのが、その頃近所に住んでいた高校生のお姉さんだった。

 彼女の名前は、アカリ。字はどう書くかわからない。苗字は忘れた。でも、当時は「お姉さん」と呼んでいたから気にしてなかった。彼女も本名よりも「お姉さん」と呼ばれる方が嬉しそうだった。

 彼女とは月曜日と火曜日、そして金曜日に帰り道で会った。水曜日と木曜日は部活があって、帰りは遅くなるから会えないのだ。


 彼女はとても物知りだった。それはもう、私が見たら頭が痛くなるような計算をスラスラ解けていたし、通りがかった外国人に涼しい顔で挨拶するくらいには、頭が良かった。黒いセーラーの制服も相まって、私よりも断然大人に近い生き物のように見えた。

 だけど、私より馬鹿だった。猫を見つけてはデレデレした顔で写真を撮りまくるし、テレビで出てくる有名人の名前をいつも忘れる。そして、私が教えてあげれば、「ちさきちゃん、天才!」といつも笑顔で私を褒め称えた。


「はぁぁぁ、若いな〜」

 間違いなく、高校生であるお姉さんが言うセリフじゃない。

「顔良し、頭良し、性格良し、神は君に何個も与えすぎてる!ず〜る〜い〜」

 発言も仕草も、明らかに子供みたいだった。いや高校生はまだ子供ではあるけれど。

 だから、大人のように見えて、でも大人じゃない彼女といる時が、とても居心地が良かった。

また、彼女ははよく笑った。学校で笑えない時があっても、彼女の笑い声につられて笑顔になれた。それも一つの理由だ。彼女は私の相談に乗ることや、私を励ますのがうまかった。


 寒さが身に染みるこの時期に、私はふとした瞬間、小学生だった懐かしい自分の姿を見つけることがある。

 学校で笑えないことがあった日に、お姉さんはおそらく人生で10本指の一つに数えられる大切なことを教えてくれたのだ。


 その日、私は帰り道のアスファルトにポツポツと染みをつけながら、トボトボ歩いていた。いい天気なのに吹き付ける冷たい風が目に沁みた。袖でゴシゴシと涙を拭くものだから、目がヒリヒリしたし袖もビショビショだった。泣きっ面に蜂とはよく言ったものだ。

お姉さんに会って話をしたくってたまらなかったけれど、反面会いたくない気もしてて、それでも歩幅を小さくして歩いていた。

 俯いて歩いていても、耳はすましていた。

 ドタバタと足音が聞こえて、思わず涙で濡れた顔を上げると、お姉さんが不恰好な走りをしていた。相変わらず輝かんばかりの笑顔だった。

 私の目の前で減速して止まると、膝に手を当てて必死に息を整えていた。ヒューヒューと音がするのは、こんな風の強い日に走るからだ。

 足音の通り、お姉さんは走るのが超絶遅かった。

「ちさきちゃ……え!どうしたの!?ティッシュいる?」

 ようやく私の顔を見て、ギョッとしたお姉さんは慌ててコートのポケットから少しクシャクシャしているティッシュを差し出した。

女子力はどこ吹く風だった。

「どうしたの?イジメ?」

「違う」

「先生に怒られた?」

「違う」

「えぇ……あ!友達と喧嘩した?」

「違う」

「じゃあ、わかんないな!!」

 お姉さんはあっさりと涙の原因さがしを諦めた。私はムッとしてお姉さんにティッシュを押し付けた。お姉さんに構わず歩き出す。

「でも、お話は聞くよ?」

私の全力の早歩きに、お姉さんは小走りでついてきた。歩幅の違いは大きかった。

「……」

「私、相槌には定評があるよ?って今はそんな話じゃないね」

「……」

「公園に寄る?」

 私に悩み事があった時、いつも公園でお姉さんに話を聞いてもらっていた。

「ダメ!」

「え?」

 思わず大きい声が出てしまって、また涙が出てしまった。お姉さんはそっと私の頭を撫でて「わかった」と言った。

「そうだね。今日は寒いし、温かい所で話そっか」




 お姉さんの後をついて歩いていくと、一際大きなお屋敷についた。お姉さんがインターフォンを押すと、女の人の声が聴こえて、「おかえりなさいませ」とお姉さんに言った。思わずお姉さんを見上げ、お屋敷を見上げた。お姉さんは笑顔のままだった。

ここはお姉さんの家だった。二階建てで、大きな庭があって、お手伝いさんもいた。

お姉さんがお金持ちだということはお母さんから聞いてわかっていたけれど、家に入るのはこれが初めてだった。

家が広すぎるからか、さほど暖かいとは感じられなかった。

「さあさあ、好きなところに座って」

 そう言うとお姉さんはパタパタとどこかへ消えてしまった。私は途方にくれた。

 なぜなら、椅子が多すぎるのだ。一人用と二人がけの豪華なソファと、高そうな猫足のテーブル。木の上等なダイニングテーブルと、四脚のやたら背もたれが高い椅子。カウンター席。一体、どこに座るのが正解なんだろう。まるで心理テストみたいだ。

 ぼうっと突っ立っていると、制服を着替えて私服姿のお姉さんが背後からワッと背中を押してきた。ワッと声を上げた私に、クックックと悪い顔で笑っていた。

「ごめんね。無駄に多いし、そりゃ迷うよね」

 いつも屈託無い笑顔のくせに、この一瞬だけ大人びていた。あれ?と思ったけれど、「こっちにおいで」とお姉さんに言われるがままカウンター席に座れば、先程の違和感はすぐに消えてしまった。

 カウンター席というと、大人が座るような華奢な椅子のイメージがあった。けれど、背負っていたランドセルを隣の席に置いて、実際に座ってみればなんてことは無い。私の背丈が高いからか、ふつうに座れた。

「さて、何に致しましょうか?」

 カウンターの向こうで、お姉さんは丸い皿に入ったクッキーを差し出した。まるでドラマに出てくる喫茶店のマスターだ。お姉さんがそれっぽくカッコつけた仕草をするので、わらいそうになるのを我慢した。

 真剣に悩んでいるのだ私は、と分からせたかった。

「うぅーん、コーヒーとカフェラテとレモンティーとミルクティーと烏龍茶と緑茶とワインとウイスキーがあるんだけど、何飲む?」

 そんな些細な事に当然お姉さんは気が付かない。私に背を向けてお姉さんは棚を漁っていた。自分の家なのに、勝手がわからないのがお姉さんらしいな、と少し思った。

「コーヒーでいい」

 お母さんが職場で貰ってきた缶コーヒーを一口飲んだことがあるが、苦い苦いと言う割にそんなに苦味を感じなかった。でも、美味しくもなかった。

 お姉さんは私の返答に満足がいかないらしく、まだゴソゴソと漁っていた。ようやく探すのをやめたと思いきや、「そういえば、ココアがあるわ!」とお手伝いさんにココアを持ってくるよう頼んだ。

「ほら、魔法学校の校長もおっしゃってたじゃない。元気が出る飲み物は、これしかないね!」

 そのシリーズはどれも分厚くて、私はまだ手に取ったことすらなかった。同じクラスのヒロユキくんが1巻を読み終えた時には、クラス中が彼を尊敬したくらい、手が届かないものだった。

 お姉さんはもう全巻読んだに違いない。

 すごいなと思っていると、何を勘違いしたか「ちょっ、そんな天才的な思いつきをしたからって、そんな眼差しで見つめないの!」とお姉さんは照れていた。


 電気ケトルがあるにもかかわらず、お姉さんはコンロをひねって、薬缶でお湯を沸かした。

「ほら、文明に甘えちゃいけないよ。大切なものはいつも変わらず1番近くにあるものさ……あれ?星の王子さまっぽい名言だな」

 ブツブツ呟くお姉さんは、急に私に向き直った。

「さて、ちさきちゃんは、どうして泣いていたの?」

 本題を忘れかけていた私は、慌てて不機嫌そうな顔をした。

「教えない」

 思わず、強がってしまった。

それをものすごく後悔した。

「ふぅん。じゃあ、なんでここまで付いてきたの?」

「そ、それは」

 目を泳がせた私を、お姉さんは真剣な顔で見つめていた。いつ笑顔が消えたんだろう?

「私に出来ることがあったら、教えて」

 私よりもお姉さんの方が切羽詰まっているような、そんな気がした。

「いじめっ子を殴る事も、先生にカチコミに行くのもどうってことないよ」

 全然違った。真剣な顔で子供っぽいことを言うのはやめてほしい。

 さすがに小学生を殴るのは大人げない。

「……っ大した事じゃ、ないんだよ」

 そう前置きをして、ようやく私は今日の出来事を打ち明けることができた。

 バレンタインデーに、好きな男の子にチョコレートを渡したこと。

 渡すときに手が触れてしまったこと。

 緊張で手がとても冷たくなってしまっていたこと。

「手が冷たい人は、心も冷たいってサエちゃんが言ってたの……サエちゃんは友達なんだけど……それ思い出しちゃって……どうしよう、ヒロユキくんに嫌われちゃったかもしれない」

 枯れを知らない涙が、また溢れ出た。

 泣きじゃくる私に、お姉さんはふかふかのハンカチをくれた。それに顔をつけると、ほのかにみかんの匂いがした。お姉さんのハンドクリームの匂いだった。


「そうだね。手が冷たいと心が冷たいって言う人もいるね」

 お姉さんは非常に言い切った。

「でも、私の友達は手が冷たい人ほど心が温かいって言っていたよ」

 お姉さんの言葉に、パッと心が軽くなった気がした。

「なんでかと言うとね、手が冷たい人は他人のために行動を起こせる人だからなんだって。自分の手を温める暇もないほど、誰かのために行動するから」

 お姉さんはゆっくりと言葉を切った。

「でも、その友達が私の手を握ったとき、

 お姉さんはマグカップにココアの粉とお湯を入れた。辺りにココアの優しい匂いが広がった。

そして、薬缶をおくとお姉さんは私に向かって手を差し出した。恐る恐る握ると、当然お姉さんの手は温かかった。

「ほら、私は心の冷たい人間だよ」

 いたずらに微笑んだお姉さんに、私は言い返した。

「だって、今薬缶を触ったからじゃん!」

「そうだね」

 悪びれもせず、お姉さんは笑ったまま。

「結局は、手が冷たかろうと温かろうと関係ないんだろうね。私が思うに、その人のことを大切に思えば、その人の手のぬくもりさえも愛おしく思うんだよ」

 普段のおどけたお姉さんではなかった。そういう時のお姉さんは、私よりもずっと大人びていて、ずっと遠い存在に感じるのだった。手が届かないことが、とても寂しかった。

「手が冷たければ、温めてあげたい。逆に自分が温めてほしい時も、あるじゃない?」

 お姉さんがカップを口元に運ぶ。私もそれに習って、ふぅとココアを一口飲めば、舌の痺れとともに身体中がポカポカしてきた。

「だから、手の温度関係なく、私は大切な人の手はいつまでも握っていたいと思うね」

 満面の笑みを浮かべたお姉さんを見上げて、私もにこりと笑った。



 それから間も無くして、お姉さんはこの街を去っていった。それは本当に前触れもなかった。

 当時高校2年生だったお姉さんの家庭は崩壊寸前だったと、お母さんは切ない顔をしてそっと私に教えてくれた。誰にも言わないようにね、と前置きをして。

 会社のお偉いさんだった彼女の父親は、仕事で忙しくてあまり家に帰ってなかったそうだ。そのせいか、彼女の母親は他の男の人と仲良くなってしまったそうだ。彼女の両親は父親が働く会社の経営が危うくなり、母親の浮気が発覚したことで離婚、一人娘だった彼女は父親に連れられてどこか遠いところへ引っ越してしまった。

 急に現れなくなった彼女のことを、始めこそ恨んで、寂しがって、恋しく思っていた私だったが、時が経つにつれて忘れていった。


 今になって思えば、彼女の言葉は結構深かった。温かさになれれば、それをぬるく感じてしまう時がある。そして、新たな刺激ぬくもりを求めてしまう。逆に、自分の体が冷たければ冷たいほど、相手の優しさが身に染みる。

 せめて、彼女が高校を卒業するのを待ってからでも遅くはなかったのではないか。私はそう思ったし母もそう言っていたけれど、きっとそういう問題じゃないってことも薄々わかってきた。

 彼女は、今も笑顔で暮らせているのだろうか。幼かった自分を思い出すたびに、彼女の幸せを願わずにはいられない。


 公園のベンチに座って空を眺めるのをやめて、ふと隣で本を読んでいた彼を見つめた。彼はすぐに私の視線に気がついた。

「何?」

 少し怪訝な表情も、声も何もかも愛おしいと感じる。

 何年か越しの長い片思いが実った。

 実は彼も同じだったらしい。

 周りと違って大人びた容姿を今は好きになれそうだ。

「手が冷たい人と、温かい人、どっちが心の温かい人だと思う?」

 パタンと本を閉じた彼は、しばらくの間宙を眺めていた。

 そして、徐に私の手を握る。しばらく本を読んでいた彼の手はほんのり冷たかった。

「温かい、人かな?」

 それじゃあ、彼は心が冷たい人だというのだろうか。

 いいや、違う。

 それでもこの冷えた手が、私の心に火を灯すのだから。

「私も君のように、こうやって、心を温められる人になりたい」

 指を絡めた先から、ほんのりと熱を伝わって、彼の頬は赤く染まった。


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