第十話 現実と悪夢

 眼の前にいたはずの桐絵の姿は雨の中に消えてしまった。まるで春が来れば溶けてしまう雪のように、そんな危うい存在感が手を握った瞬間感じ取れた。手の中には人のもつ温かみはなく。もう冷たい雨だれの感触しかない。

 今はその影も形も葉月の前にはない。先程までの公園と変わりがない。街灯もついている、肌寒い風も吹いていない。ただ公園には不釣り合いなブルーシートと黄色いバリケードテープだけが目立つ。

 唖然として未だに夢であったのかもしれないと思っているが、それは左手の中のがこれは現実なのだと強く主張している。

 左手をゆっくりと開くと、そこには見覚えのあるものがあった。それはそうだと葉月自身が思った。なにせ彼自身が店まで赴いて、店員と四苦八苦しながら購入して桐絵に送ったものだからだ。それは桐絵がいつも身につけていただった。光沢のある金色に塗装され赤の装飾が施された腕時計。


 それが何故か今、葉月の手の中にある。

 色んな意味で自分に危険が迫っているのかもしれないと思った。桐絵はいつも肌身離さずに腕時計をつけていたはずだった。転落死した日はたまたま外していたのかもしれない。あの正体わからない桐絵の形をした何かが持っていたのかが理解できない。それを何故自分に渡したのかも。

 もし転落事故が起きた日に桐絵が身につけていたのだとしたら、なんの加工もされていない腕時計などガラス細工をハンマーで叩き割るように粉々であったはずなのに。

 そんな事を考えていると、またあたりの様子がおかしくなっていることに気付いた。

 公園の街灯が点滅し、街から電灯がどんどん消え始めた。マンションの各フロアにある常夜灯も一斉にショートしたかのように消えた。先ほどまであった車の騒音もピタリと途絶えた。

 街は完全な静寂に包まれた。葉月はこの光景に見覚えがあった。見覚えというよりも知っている。だが今度は夢ではなく現実であった。

 葉月が真っ暗になった街を眺めていると、目の前に自分の影が浮かび上がるのに気付いた。そう街灯が消え去った街で唯一の光源。

 後ろを振り返るとやはりあった。夢で見た通りのものが。

 オレンジのような光を発して辺りを照らしている円柱型の塔。すでにビニールシートとバリケードテープはなく、はじめからその塔はそこからあったかのようの感じさえある。


 葉月はゆっくりと近づく。一度夢の中で見たことがあるからなのか、実物だからなのか逃げ出したいほどの恐怖心はあるのに、中に何があるのか確かめたい気持ちのほうが強くなった。

 外からエントランスホールを覗くと奇妙にも人の姿があった。後ろ姿の女性。

 何もかもが異常である。すべてが世界から切り取られここだけが独立して存在してる。だからこの世のことわりや自分の常識では測れないのだ。

 後ろ姿の女性がこちらを振り返ると、その正体がわかった。わかったというよりも、やはりと言う感想しかわかないが黒川桐絵だった。

 桐絵は外の葉月を見ながら微笑み、左手で手招きをする。葉月が知っている桐絵の優しい笑顔であった。だがその笑顔が特別に悲しみに追い打ちをかけている。

 葉月は桐絵の手招きに応じて、ガラスドアを押して中に入っていく。夢のときはただ引っ張られて体を嫌なものに鷲掴みにされている感触しかなかったが今は違う。全くといっていいほど何も感じない。暑さも、びしょ濡れになり寒さを感じていたのにそれも感じなかった。

 ただ早く桐絵のもとに行きたいと気が焦っていた。だからいつの間にか、地面に伏せて首を絞められていたときには恐怖の味がした。

 そう本当にいつの間にかであった。自分は二足で地面を走っていたはずだった。それが今こうして横たわり、桐絵が馬乗りになり首を潰そうとしている。

 気が動転するよりも前に、謂ができない苦しさのほうが先に目に涙をためた。もしかしたら桐絵の姿で首を絞められていた悲しみかもしれない。


 そしてとうとう桐絵が口を開いた。

「さようなら……ごめんね」消え入るような声で呟くと、最後の力を振り絞り葉月の首に全体重をかけた。

 あまりの苦しさに意識が朦朧としながら思った。これがやっぱり夢なら良かったと。

 そうか現実が悪夢だったんだと。桐絵に殺されるなんて現実そのものが悪夢でありただから目が冷めれば新しい現実が待っているはずだから、今は眠ればいいんだと。

 葉月は静かに目を閉じて、涙がこぼれ落ちた。その手には腕時計を握りしめて。

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