第八話 真夜中の謎

 その二枚の写真には克明に死が切り出されていた。どうしようもない現実だけがそこに存在していた。二人の間には沈黙だけが漂い、時間が凍ったように固まっていた。

 店内に響くのは時計の針を刻む音、数人の客の声と足音だけ。

 もはや写真からは焦点を外して、裏返しにしてしまった。それを水城の方にずべらせる。変わり果てた友人の姿など葉月には到底見ていて気持ちのいいものではなかった。

 すでにアイスティーの氷が溶け始めて、小さくなっていく。しばらくそれを見つめながら沈黙を最初に破ったのは葉月だった。

「水城さん……」葉月は水代の顔と目をしっかりと見ながら喋り始める。

「失礼しました。本当は友人に見せるべきものではないのですが……ただね、黒川さんの死には疑問というか、おかしな点がいくつかあるんです」水城は葉月の方に乗り出しながら葉月の目を見て答え始める。

「おかしな点?」

 葉月は裏返しにした写真をもう一度手に取り、よく見た。相変わらず朱色の映像が脳内に流れ気持ち悪くなりながらも、よく観察したが何もわからない。当たり前だ素人が何かを見て分かるのはドラマの世界だけだと思いながら写真をテーブルの上に放り投げあきらめた。

「はい。これは明らかにおかしいんです」水城は放り投げた写真に人差し指を立てながら言い放つ。

「いいですか、黒川さんの死因は先程もお話しましたが、転落死です。それはもう疑う余地が無いくらいに。我々もプロですから……」水城はそこまで自慢気に胸を張って言う。そこで区切り深呼吸をするととを言い始めた。

「しかし、自殺か他殺かがわからないんです。それどころか黒川さんがどうしてあの状況になっているのかが我々にはわからないんです」

 葉月は数秒、この警察官が何を言っているのかがわからなくなり、途中から全く耳に入ってこなくなった。水城もわからないとか言っていたが、いきなりこんな事を話し始められるこっちの身にもなってほしいと心底思った。


 水城は葉月の反応を見ながら話していたが、どうやら葉月が混乱しているのを見ると話すことをやめてアイスコーヒーに口をつけはじめた。すっかり氷は溶けきってしまいぬるい。一緒に頼んだはずのサンドイッチのことも会話に夢中で忘れていて生地がパサパサついているのが見えた。今すぐにでも食べてしまいたいと心の中で思ったが、眼の前の少年を前にしてそんなことが出来るほど刑事になりきれていない自分がいた。

「順を追って、お話しましょう」水城はぬるくなったアイスコーヒーをコップ半分ほど残して葉月に助け舟を出す。

「黒川さんは本日未明にはあの――写真のような状態であったと思われます。少なくとも午前五時よりは前ですね。第一発見者の方が通報されたのが午前五時二十分でしたので……ここまでいいですか?」水城の説明はゆっくりと進んだ。声は淡々としているが感情がこもっていないのが葉月には助かった。感情的になるのは自分だけでいいと思ったからだ。

 葉月はコクリとうなずく。

 水城も葉月の理解を確認しながらまた話し始める。

「問題はここからなんです……」水城は深妙な顔つきになる。「黒川さんは飛び降りたのでしょうか?」

 水城の疑問で葉月はようやく納得した。葉月は目の前の写真をもう一度手に取り、ようやく水城の言うおかしな点に気付いた。マンションと公園は隣接しているが噴水までは十メートルも離れている。仮に桐絵がマンションから飛び降りても公園の噴水までは飛ぶはずがない。葉月は顔を上げて水城と目を合わせる。

「マンションとの距離の問題ですね」

「そうなんです転落死というからにはそれなりの高さから飛ばなければならない。しかし仮にマンションの屋上から飛び降りても公園の真ん中にある噴水には届きません、だから……」

「自殺か他殺かわからないと」葉月は水城の言おうとしていることを先に言葉にしていた。

「はい。そのとおりです。だから今日貴方にご足労頂きました。黒川さんの自殺する動機にこころあたりがないか」

「ちょ……ちょっと待ってください。自殺か他殺かわからないのはわかりました。じゃあ他殺の可能性は?」葉月は焦りと困惑が入り混じった声を荒げながら水城を制した。葉月の中では黒川桐絵の自殺の理由など思い当たらなかった。自殺するような人間だと思っていなかったから。

 水城は思い出したように、ああと言いながら答え始める。

「これも確かなことはいえません。捜査上の秘密のためではなく我々もわからないからです。ですが他殺の可能性も低いのではないかと我々も考えていま――」

「それは――?」水城の曖昧な言い方が気になり、葉月は言葉に割って入ろうとしたが水城に手で制され仕方なく黙り込む。

「もし誰かが、そうですね仮に"A"という人物が黒川さんをどこかで転落死させて、あの噴水まで持ってきたとしましょう。しかしね、どこかで転落死させればどこかで痕跡が残ります。それを通報しない人間はいないでしょう」

 水城のはなしは論理的な回答そのものであった。葉月には反論する余地がなかった。ただダメ押しで問うてみた。

「もし誰かがあの噴水まで持ってきたとしたら……その可能性はないですか?」

 水城は葉月の質問をコクコクと頷き、答えた。

「もちろんその可能性はあります。ただ黒川さんの遺体の状況から見て黒川さんは地上四十から五十階の建物から飛び降りています。押されたとも考えられますが。そうすれば体にはものすごい速さになりますし、その状態で地面と激突すれば体は無事では済みません。地面と遺体を引き剥がすのにも時間はかかります。遺体の一部は欠損――つまり体の一部がなくなっていてもおかしくはありません。しかし発見された黒川さんの御遺体には欠損した部分がありあせんでした」

 こうして見事に葉月の疑問は水城に回答されてしまった。葉月は最後に水城の質問に答えた。

「僕は、黒川の自殺の動機なんて知りません。あいつが何に悩んでいたのかなんてわからないです」


 背にしていたので気づかなかったからか、すでに夕暮れになっていた。もう二時間以上も話し込んでいたわけだ。

 水城という警察官はサンドイッチを二つとも飲み込むように食べて、葉月の分の伝票も持ってとっくに消えてしまった。今日の水城との会話から何かをしれたということはなかった。きっと自殺の理由を知りたいと言うのは建前だったんだろうなと思った。本心は取り調べをしていたんだなとあとになって気付いた。黒川の死の理由もどうやって死んだのかもわからないまま。葉月は昨日の夢のことをぼんやりと思い出していた。

 ぬるくなったアイスティーはとてもまずかった。


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