第六話 過ぎ去りし日

「昨夜未明、黒川桐絵さんがお亡くなりになられました」


 そう告げる警察官の声は、とても事務的な機械のように聞こえた。

 葉月は数秒か、数十秒かは分からない短い間、全身が硬直してしまい全く声が出せなかった。頭の天辺から足の爪先まで強張り、ぼんやりと桐絵の後ろ姿を思い出していた。


 短い髪の毛をいつもシュシュのような髪留めで後ろで束ねていた。淡いピンク色のシュシュに申し訳なさそうにチョンとたれている髪型が大好きだった。その華奢な身体つきによく似合うよなハンドバッグを肩に掛け、手首にはきれいに装飾された腕時計を付けていた。いつか夕食を一緒に摂ったときに気づいたのは、その横顔に映る表情は普段の明るさとは、また違った影があるような感じがして少しドキッとさせられたことだった。そのことが一番印象的で、それから彼女の横顔を覗くときは、見てはいけないようなものを見てしまった背徳感によく襲われた。

 葉月が彼女を最後に見たのは、夏休みに入る少し前のことであった。今となっては何を話したのか、もう覚えていないが、別れ際に「さようなら」と言われ振り返ったときの、後姿を見て寂しいとおもった記憶だけだった。

 葉月は過ぎ去ったものはもうもとには戻らないということを、思い知らされた。


 そんな記憶が、その数十秒に一気に頭の中を駆け巡った。

 携帯を持つ手が震えて、力が全く入らない。その手から携帯が滑り落ちていく。

 走馬灯のように巡っていた思い出の数々が、激しい悲しみと虚無感に変わっていく。それらが今度は心まで押し寄せて、身体を押し潰そうとして無意識に過呼吸になる。


「オェェ……ふぅ……はぁー……」

 何度もえづき、吐きそうになりながら、深呼吸をしてようやく、呼吸を整える。

 布団の上に落ちた携帯電話の奥からは声が聞こえている。

「あの、大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」こんな調子で何度も声をかけていてくれたのだ。

「は、はい。大丈夫です。ありがとうございます」葉月は声がかすれかすれになってはいたが何とか答えることができた。


「朝早くから、申し訳ありません。本来ならば早朝からお電話を差し上げるのはルール違反なのですが。」

「それは、どういう―――」ことですか、と言いかけた瞬間。電話の背後から警察官を呼ぶ声がして遮られてしまった。

「失礼しました。申し訳ありませんが、今日お時間取れますか?」警察官は矢継ぎ早にこちらの予定を聞き出した。

「いつで……いや午後からなら」

「わかりました。では十四時に、そうですねぇ……フリーデンという喫茶店はご存知でしょうか?」

 フリーデンは、駅前にある喫茶店だ。喫茶店、数あれど本物の珈琲を飲みたいならフリーデンに行けば良いと桐絵に教えてもらったことがあった。

「ええ、わかります」

「申し訳ございませんが、十四時に喫茶フリーデンで、お願いします」


 警察官との会話はそこで終わった。葉月は電話が切れた後も少しの間、放心状態で電話が切れていたことも気づかなかった。

 待ち合わせの時間など本当ならば、いつでも良かった。何なら今すぐにでも。

 それでももう頭が、いっぱいいっぱいになっていた。桐絵の死をどう受け止めれば良いのか分からなかった。


 時刻は午前八時四十分。数十分しか経っていない、時計の針を睨みつける。

 どんな思い出も悲しみによって汚れていく感じがして、何かを深く考えたくなかった。

 葉月は携帯電話を枕の端に放り投げて、身体を横にした。眠れないかもしれない、それでもただ目を瞑っていたかった。ただ目を瞑り、心の中を空っぽしにして、何も考えないようにしないとと思った。


 午後十三時五十三分。約束の時間まであと七分。

 葉月は喫茶フリーデンの前に立っていた。駅に近く、レンガ風の作りになっていた。中からはとてもスパイスの効いた匂いが漂ってくる。

 スパイスの匂いを嗅いで葉月は朝から何も食べていない事に気づいた。空腹があるわけではないが、なにか体に入れておけばよかったと思った。

 昼下がりで、気温はどんどんと上昇し今や二十八度。予報ではこれからまだまだ上がる予定である。流石に体力が持つかなとかいろいろと考えていた。

 体調は万全ではないし、寝不足も疲労も溜まっている。しかし、それでも来ないというわけにはいかなかった。

 そんなことを炎天下の中で考えていると、こちらに近づいてる男が一人。男は白い半袖のシャツに黒いパンツ姿であった。男は葉月のそばまで近寄ると、ゆっくり会釈をする。

 「こんにちは、葉月陵さんですね?」

 男の声は電話口から聞こえてきたものと一緒だった。

 「はい、そうです」葉月はは小さく答えた。まさか自分が本物の警察官と話す日が来るとは思わなかった。自分とは無縁のものだと思っていたが、まさかこんな形で関わり合いになるとはと正直なところ驚きを隠せなかった。


 「今日は来ていただいてありがとうございます。まだ大変なことと思いますが……」

 「…っ……いえ、」葉月は警察官である男の問に対して、気丈に振る舞おうとした。それでもうまく対応できていない自分がいた。

 男はそんな葉月を見て、話題を変えようとして、店の中に入ろうとするめてきた。

 喫茶店を待ち合わせにしながら、外で話しているなんて確かに可笑しいななんて思いながら、二人で店の中に消えていった。



 

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