第三話 直前夜
八月十二日、午後十時。
涼しい風の吹く静かな夜であった。いや、新たな嵐の前の静けさであった。
その日、朝方から降り始めた雨も夕方には止み、夜には心地の良い風が街に吹き込んでいた。きっと低気圧が去り、その尾っぽがあとを引いているのだろう。
道路には大小様々な水たまりができていて、夜の街を映し出してその色を変えてる。走り去る車の列が波紋を起こすが、誰にも気づかれず、もとに戻り色が変わり始める。
しかし街の中心街から離れた住宅街には変える色がない。家の中には人の温かみがあり、優しさがある。しかし夜の静けさの中にある外にはそんなものはない。ただ冷たさと暗さがあり、そこに映し出されるのは街灯の明かり静寂、そして月の明かりである。
その闇の中を一人歩く葉月の姿がある。
黒い無地のTシャツに黒い眼鏡、ジーパンという格好をしている。その右手にはコンビニの袋を持ち、ジーパンのポケットから伸びたイヤホンから流れる音楽に夢中になり外に広がる闇などには一切目もくれない。むしろ人がいなくて鼻歌を歌えてマシくらいにしか思っていないのだろう。
葉月が丁字路の左の角を曲がり、五メートルほど歩くと自宅である二階建てアパートの影が見えてきた。築二十年ほどの物件ではあるが、それを感じさせないほどの綺麗な外装をしており、こだわりがない人が見れば何も困ることはない。勿論、葉月にはそのようなこだわりがあるはずもなく、ただ静かに眠れる部屋がほしいという理由だけで郊外の中に位置する物静かなアパートを選んだだけだった。
アパートの一番奥、一〇五と書かれたプレートの前で立ち止まるとジーパンのポケットから鍵を取り出そうとする。しかし鍵を取り出そうとすると、危うく携帯電話、小銭、コンビニのレシートなどが一緒に出てきてしまいそうだった。そんな葉月の癖を知っている桐絵からは、ちゃんとバッグを持ちなさいと。入学以来ずっと小言を言われてきたがここまで治らなかったら今更、直せないだろうと思っていた。
ようやく鍵を取り出して、ドアの鍵穴に差し込み鍵をひねるとガチャという音がする。中に入ると、ムワッとした暖められた空気が玄関まで流れ込んでくる。夏には珍しく外よりも部屋の中の空気のが暑いという状況ができてしまっていた。葉月は生温い風を浴びながら買い物に行く前に、部屋の窓を開けておけばよかったと心底後悔して、早速それに取り掛かる。
靴を脱ぎ明かりもつけずに、部屋の奥に進む。部屋の中は思っていたよりも暑く、息をするたびに体から汗が出ているような感じがしている。ワンルールの部屋の中に入ると更に熱くなっていて、途中、本棚かラック、机の角に足をぶつけたが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。早くこの不快感をどうにかしたいという苛立ちと焦りで、足の痛みのことなどどうでも良くなっていた。自分のどこが痛いのかわからないし、痛みを感じなかった。
ようやく窓にたどり着いて、ガラス戸を開けるとひんやりをした風が部屋中を満たし、満足した葉月はその場に座り込んだ。額に浮き出た汗は風ですぐに冷たくなり、特別痛みもなかった、ぶつけた足のことも忘れていた。
冷たい風の吹く暗闇の中、部屋の照明の電源スイッチの場所まで手探りをしていたが、月明かりが部屋中を照らしてくれていたので案外簡単だった。部屋の中には角にある本棚、位置のずれた四角い机が一つ、ノートパソコンというなんとも質素な部屋であった。
葉月は思い出したかのように、コンビニの袋からオレンジジュース三本、サンドイッチ二つ、バナナの束を取り出すと急いでキッチンにある冷蔵庫に放り込んだ。傷んでしまっては朝ごはんがオレンジジュースだけになってしまいそうだと心の中で恐れた。
そしてようやく、落ち着きを取り戻してみるとやはり不快に思うのは汗だくの服と体であった。そしてこんな状態では一分一秒もいたくないという
思いから着ていたものすべてを洗濯機に放り投げて浴室に消えていく。
葉月が汗と体の汚れを落とし、浴槽から出たのは午後十一時三十分を少し過ぎてからのことだった。顔は真っ赤になり、フラフラと部屋に倒れ込んっでしまった。夏場であるのに四十度近くのお湯に三十分以上、浸かっていれば自然にのぼせてしまう。
ただあまりの気持ちの良さに気づいたときには、ゆでダコ状態であった。
葉月は強烈な眠気に襲われていたが、あまりの喉の渇きに逆らえず、冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出して一気に体の中に注ぎ込んだ。乾きは満たされた、オレンジジュースが体の中に溶け込んでしまうような甘さが眠気を刺激した。
あとはもう寝るだけと考え、押し入れから布団と枕、薄い掛ふとんを取り出して、
倒れ込んでしまった。睡眠に意識が刈り取られる前、最後に思ったことは、今日はよく眠れそだということだけだった。
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