恋小噺

内宮いさと

恋小噺

 庭に椿の花が咲き揃い、紅と緑と白とが並ぶ冬の日のこと。

 雪を溶かすような日差しの中、しんとした縁側でぼんやりと煙管をふかす姿がひとつ。

 紺の袷を着流した、頭に白髪の交じる男。家人はどうやら居ないらしく、物思いにふけったような顔でどこか遠くを見つめていた。

「おじさま、こんにちは」

 ぱちぱちと燃える火鉢に近寄って、若い女が姿を見せる。

 まだまだ珍しい洋装に、釣り鐘帽子のモダンなファッション。この界隈では有名な、変わり者の女学生。

 男は煙管の灰をとんとんと落とすと、火鉢を女の方へ押しやった。

「ああ、薫くん。また話を聞きにきたのかい?」

「ええ、おじさん。今日は北国のお話が聞きたいわ」

「そうかい」

 男が少し考えている様子なのを、薫は大きな瞳で見つめている。白い肌に映える赤い唇。かすかに笑みが浮かんでいた。

 薫が隣に腰掛けたと同じくらいに、男はぽつぽつと話し始める。

「越後という国を知っているかい? その国で出会った不思議な二人のことを話してあげよう。あれはまだ私が行商をしていた頃だ」

 男が話すのはいつも、行商をしていた昔のこと。

 あちこち歩いて仕入れた話、聞いた話をいつも薫に聞かせていた。これがいったいいつからだったか、もう二人とも覚えてはいない。

 ただ今は、ふらりと薫がやってきて、男はいつもの口調で話をする、そんな日常があるだけだ。

「さあ、最後までお話を聞いてくれたお嬢さんには、これをさしあげよう」

「今日は紙風船なのね、ありがとう」

 これもいつものお約束。男が売り歩いていたおもちゃを一つ、薫に渡す。薫はにっこり笑ってそれを受け取る。

 風車に紙風船、たまには手鞠、羽子板、折り紙、お人形。

 何年経っても変わらない、習慣のようなものだった。

「もうそんな年じゃなかろうが、何せこれしかなくてねえ」

「うれしいわ」

「そうかい」

 困ったように頭をかく男にかぶりを振って、薫は昔から変わらない笑顔でにこにこと笑う。

 姿形は美しく変わっていっても、その心根と笑顔はずっと変わっていないように男には見えた。 

 澄んだ空気が空に抜けていく。ぽっかり空いた言葉と言葉の間にぱちぱちと、炭のはぜる音だけが聞こえていた。

 薫が何かを決心したような表情で、少し声を詰まらせながら問いかける。

「ねえ、おじさん。たまには私がお話ししてもいいかしら」

「へえ、おもしろそうだねえ。ひとつ聴かせてもらおうか」

 男は心底興味深いといった表情で、薫の顔を眺めた。美しい瞳とかち合って少しばかり息をのみ、またいつもの困ったような笑い顔に転じる。

 薫は一つ微笑むと、澄んだ空を見上げて語り出す。

「あれはまだ、私が新潟に住んでいた頃のお話。まだ五つか六つかもわからない、そんな頃」

 おや、とでも言うように男は片眉を上げる。煙管をもう一度ふかして、煙を冬の空に溶かしていった。

「うちの町に毎月ね、行商に来るおじさんがいたの。いつもあちこちで仕入れたお話をしてくれて、最後に一つ、おもちゃをくれるの。私は本当になついていた」

 表情を少しも変えずに話を聞く男をよそに、薫はふわりとスカートの裾を揺らして立ち上がる。冬の空を見上げて続けた。

「でも、しばらくして私はこっちの祖母の家に預けられることになったの」

 薫が語るのは、今までの半生。男の半分にも満たない短い時間。

「会えないんだなって思ったら悲しかった。でも、こっちに来てみて驚いた。おじさんがいたんだもの」

 男は声を聞きながら、初めて薫が話を聴きにやってきた時を思い返していた。

 こっちに引っ越してきたのかという感想のほかには、何も思わなかったことをよく覚えている。

 今よりずいぶんおぼこい頃。当時は話をせがみに来る少年少女はほかにもいたから、特にこれといった感慨も抱いていなかった。

 そしてあの頃は、まさか薫がこんなに長く通ってくるだなんて思いもしなかった。

「たくさん恋もして、たくさんの人の話も聞いた。それでもやっぱり、何かが違っていたの」

 薫はそう言って言葉を切る。まっすぐに男を見据える瞳の中に、ほんのり色香が見え隠れしていた。

 これが恋い焦がれるからであることを男はとうに見抜いていた。そして今まで、知らぬふりをしていたのだ。

「私には、あの人以上に好きになれる人がいない。だからいつまでも、違和感が消えないの」

 はっきりと断定してしまう薫。まだ短い時間しか生きていないのにそれを言ってしまうのは、きっとその若さゆえなのだろう。

 まだまだ時間はたくさんあるというのに、男以上に好きになる人にこれから出会うかもしれない可能性は、考えもしないようだった。

「私の中には、あの人しかいないの。おじさんしかいない」

 はっきりと断定をする薫が愛しい反面、不確かなものをつかむようで不安だった。

 捕まえるに、捕まえられない。

 ただ彼女の感情は、恋にとてもよく似ていると、思えた。

「参ったねえ……」

 薫には聞こえぬようにしてつぶやく。心底困り切ったような調子だった。

 男はうつむいたままくすくすと笑い、また額に手をやって、かぶりを振った。さらりと袷の袖がずり落ちる。

「変わった趣向のお話だねえ」

 とぼけたようにそれだけ言うと顔を上げ、また元通り煙管をぷかりぷかりやり始めた。

 口元は相も変わらず笑っているが、瞳の奥にはどこか優しいような、悲しいような色が浮かんでいる。

 言葉の代わりに煙だけを吐き出して、男は澄んだ空気を吸うばかり。

「おじさん」

「んん?」

「私が精一杯にかたったお話なの。お返事がなくちゃつまらないわ」

 少し機嫌を損ねたように薫は言ってみせる。

 男は口元から笑みを消すとうつむいて、煙管の灰を火鉢に落とした。

「……冗談言っちゃいけねえや」

「あら、私は冗談なんて言わないわ」

 挑むような調子の薫に、男は心底困ったように頭をかく。

 しばらく何か考え込んで、またいつもの苦笑を顔に浮かべた。

「お嬢さんも行商であちこち回ればいいや。世界が狭いから、私しか見えなくなってしまうんだろう。そいつは愛じゃなくてあこがれだ。まやかしのようなものさ」

「狭くなんてないわ。今までたくさん恋もしたの、それでもおじさんが好き、冗談なんかじゃないわ」

 まっすぐに見据える薫の瞳は冬の空のように澄んでいた。

 根負けしたような表情で、男は大きく息をつき、ゆっくりと座り直す。

「ははあ、困ったねえ……。そんな目をされちゃあ、おじさんも本気で応えなきゃいけなくなるだろう?」

 胡座をかいて、空を見つめる。相変わらずとぼけた調子で、独り言のように問いかける。

 まだまっすぐ挑むような視線を男に投げる薫に苦笑を返し、座るように促した。

 薫がいつもの場所に座ったところで、男はまっすぐ薫を見据える。口元だけが笑っていた。

「逃げ出せるのは今のうちだよ」

「逃げたりなんて」

「そうかい」

 男は煙管を火鉢の上に置くと、女に体を寄せた。

 するりと腰に手を回して引き寄せる。男の瞳にちろりと炎が宿ったようだった。

「薫」

 耳元に口を寄せて、枯れた声で男は女の名をささやいた。

 二人の間に、濃い煙管のにおいが漂う。袷がはだけ、男の胸元があらわになった。

 濡れそぼった瞳で薫を見つめる男の口元に、もう笑みは浮かんでいない。

 薫は息をのんだようだった。小さく震える薫に気づき、男は身を寄せより強く抱きしめる。

「……あんまり大人をからかっちゃあいけないよ。そうして怖い目を見る」

 いつもの語りとは全く違う静かな口調。触れそうで触れない距離のまま、唇だけを動かして低く忠告する。

「……」

 薫が何も答えないうちに、男は腰を抱いていた手をほどいてくすりと笑う。

 少し悲しそうな顔で薫の頭を軽くなでた。

「ほら、怖かったろう。すまないね」

 いつものどこかのんびりとした口調で男はつぶやいた。

「ささ、怖いおじさんが追いかけてこないうちにお逃げ。もしまたここに来たら、そのときは……わかるね?」

 振り返らずに歩いていく薫の後ろ姿を見つめて、男はもう一度煙管をふかす。困ったように笑って、寂しそうに煙を吐き出した。

 やがて彼女の姿は見えなくなり、二人はたったの一人になる。ぽっかり空いたむなしい空間に、静けさだけがしみこんでいく。

 空の色は澄んだ青から橙へと変わり、深々と夜は更けていっても、男はしばらくそこにいた。


 果たしてそれは雪が全く溶けた頃だったか、それともまだ雪の残る日だったか。

 いつものように煙管をふかす男の耳に、薫の声が届いた。

「おじさん、今日はここのお話をして」

「この場所かい」

 いつもと変わらぬ口調で応え、火鉢を女の元へやる。

 男は澄んだ空だけを見上げて、白い息を大きく吐いた。ぎしりと軋む床を確認して、男は訥々と語り始める。

「私がここにきたのは果たして何年前だったかもわからない。ただ一つだけ、変わらないことがある」

 庭の景色と、澄んだ空、住んだ人。どれもこれもすべて表情をくるくると変え、移ろいゆくものばかり。

「小さな女の子が毎日ふらりとやってきては、お話をしてとせがんでくれること。そして私はお話をして、その子の喜ぶ顔を見るのが好きだったこと」

 たったひとり、静かな縁側で空と庭を眺めるばかりの毎日だったらきっと、男も空に溶けていただろう。

 薫が毎日変わらずここへ来て、ふたり話をすることはほとんど当たり前のようなことだった。

 手を伸ばせばきっと逃げ出すことは知っていた。だから手を伸ばしたのか、それでもと手を伸ばしたのか男は未だにわからない。

「眺める間に美しく、愛らしく、女性へと彼女は成長してゆく。それでもいつものように微笑んでくれる。彼女をずっとそばで見ているうちに、気づかぬうちに愛してしまった」

 愛しているのだと気づいて、薫の瞳の中にも同じものがあることに気づいて、ひたすらに焦った。

 彼女を捕まえることはためらわれた。

「こんなおじさんが、どうして愛や恋など口にできよう」

 不相応な愛。不釣り合いの恋。

 何よりも、何も知らない彼女を、自分なんかが捕まえるのはあまりにかわいそうだった。

 そして恋なのかさえあやふやな彼女の感情に身を任せるのも、恐ろしかった。

「仕方がなかったから、おじさんはその女の子を逃がそうと、でも捕まえようとして手を伸ばしてみた」

 焦がれる心を抑えて、寂しさと空しさだけを愛でることはできるから。一度逃がして、それでも戻ってきたならば捕まえようと試したのだ。

「それで逃げられて、おしまいさ」

 寂しさに慣れてはいた。いつかこうなるだろうことも知ってはいた。

 不思議と苦しくはなかった。ただ、静かな空間にひとり残された空しさだけを愛でるだけ、彼女がいないこと以外は何にもかわりやしない。

 彼女を愛していることだって、前と一つも変わってやしない。

「それはおかしなことなの?」

「ああそうさ、笑い話さ」

 数多ある話の中で、もっともおかしくて、もっとも愛しくて悲しいお話。

「でも私は、こうして」

 薫の言葉を制するように、男はいつもの困った顔で笑いかける。

「いいや、これはどうしたって笑い話なんだ。だって君は」

 薫は続きを促すように小さくうなずいた。

「もうここにはいないのだから」

 その言葉で、ざらりざらりと、薫の姿が消えていく。

 ここに薫が座って居たのは、いったいどれくらい昔の話だっただろう。

「ほらごらん、笑い話だろう」

 たったひとり。話を紡ぐ哀れな男。

 薫が若い男と夫婦になったと風の噂で聞いたのは、つい数年ほど前の話だったか。

 子供を連れて一度だけ遊びに来たその姿は、昔と変わらず美しかった。

「世界が狭いのは、私の方だったねえ」

 違う、忘れていたのだ。いくら世界を知っていたって、恋をしてしまえばその人しか目に入らなくなるなんてことは。

 あの子にとっては、昔々。

 わたしにとっては、今のお話。

 時間は男を置いていき、男はひたすら老いていく。

「仕合わせだったかい」

 何度も何度も、冷たい風は悲しい噂ばかりを運んでくるものだ。

 衰えない美しさは、すぐに儚くなることの前兆であったのだろうか。

 変わらないものは壊れやすいから、きっと彼女も早かったのかもしれない。

 男は懐から、少し時勢に取り残された、それでも色鮮やかな櫛を取り出すと、夜空の月に掲げて見せる。

「思った通りだ、よく似合うねえ」

 煙管をぷかりと吹かしては、花椿の色を目に映し、静かに寒い縁側で、男は噺の続きを咲かせはじめた。

「さあお嬢さん、今度は南方の話を聞かせてやろう」

 冬の寒さが身にしみる日だ。

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