或いはNo.110 #2
*
仁科杏璃には、昔から苦手なことがある。
「なんで一般人にはWikipediaがないんだろう」
「そりゃ一般人だからだよ。一般人のページ作っても、アクセスすらされないか悪い人に見つかってネットのおもちゃにされるかの最悪な二択しか待ち受けてないでしょうが」
「そうだけどさぁ」
放課後の教室に居残って勉強していた杏璃が吐露した意味不明な弱音に、同じくその隣で勉強をしていた杏璃の親友である川島千種は至極真っ当な返事を寄越した。
「普通に答えればいいじゃん、『何が好きですか』って質問くらい」
「それが出来る性格ならこんなこと言ってない」
神城と奇妙な友達関係が始まって一ヶ月経ち、季節は五月、初夏に突入した。しかし、四月の高校生は春の総体予選もあれば、新入部員の加入に伴い部活で世代交代が発生し、それが落ち着く間もなく中間テストもやってくるので、正直な話、同じクラスでも同じ部活でもない人と新しく交流を持つのは難しい時期である。ゆえに、杏璃と神城の関係は友達という肩書きこそあれど、あの日握手をしたきりのよそよそしい知り合いのままだった。
だが中間テストが近づき、勉強時間の確保のために部活動が一律で禁止されると、物理的な体力と時間の余裕が出来たからか『テストがんばりましょうね』という前置きと共に、『ちゃんと友達になりたいので仁科さんのことを知りたいです』と神城からメッセージが飛んでくるようになった。
そして杏璃は、自分のことを話すというのがとにかく苦手だった。教室でひとりずつ前に立つ自己紹介などは、学校生活でやめてほしいことぶっちぎり一位の行事である。
「だったらまだ答えたくないです、って逃げれば? たぶんあいつ、直球で言わなきゃ気づかないよ」
千種は容赦なく正論を並べていく。神城と千種は今年クラスが同じになったらしいが、曰く「真性のアホの子」で、とにかくすべてに正直で圧倒的に明るいキャラクターだという。また、杏璃が陸上部であることからその伝手で連絡先まで手に入れた割には、それ以上の情報収集をするような気配はないそうで、神城が杏璃本人よりも話を聞きやすい距離にいて、かつ情報源として信頼も出来る千種にも、調査が入ったことはないのだそうだ。
杏璃からしてみれば、連絡先を手に入れられたなら、その辺から多少の個人情報くらい聞いておいてくれた方がありがたいのだが、彼は直球でしか人を知る気がないらしい。それ自体は良い心がけではあると杏璃も思うけれど、「良い心がけだから」で解決出来るなら今頃杏璃は自己紹介くらい簡単に出来るようになっている。
「ええー……。ハードル高い」
「杏璃の気持ちも分からんでもないけど、それが出来ないならまず『友達』でもなくない?」
「千種さん、痛い一言出すの早いよちょっと」
「だってこんなとこで解決しない悩みを吐くよりよっぽど有意義じゃん。テストの点落としたら部活できなくなるような事情抱えてるくせに、そんな小さな悩みに時間が溶けるのも最悪の結果でしょうよ」
「正論ばっかり言いやがる、この人」
「そりゃあね。結局あたしは他人だもん、他人が出来ることは限られてるよ」
「ひどい、裏切りだ」
「どこが。裏切るならもっとちゃんとやるし」
「え、待ってそれはそれでめっちゃ怖い。例えば何」
「そのノートを、提出された後でこっそり新品と入れ替える」
いま杏璃と千種の手元にあるノートは、いわゆるテスト前課題のノートである。よほど頭のいい人が集まる学校でない限り、たとえ高校生だろうがテスト前期間の勉強を自主性に任せるのではなく、勉強したという軌跡を提出させることが一般的だが、この学校も例にもれずそんな課題が出ているのだ。勉強をしようとしても何から手をつけていいか分からない、勉強の計画を立てるのが面倒だという人には与えられたものをやればいいのは楽だし、得点が振るわなかったときの勉学態度に対する言い訳材料にもなるので意外と悪いものではないと杏璃は思っているのだが、それはそれとしてこれは課題で成績評価対象物なので、提出義務もあれば期日もある。
つまり、千種は今、杏璃の義務を果たすための努力を無にしてやる、と言ったのだ。
「そんな極悪非道なこと、よく思いつくね!?」
「だって、裏切るなら手心なんかこれっぽっちもいらないでしょ」
「……わたしは今、千種が親友でよかったって喜ぶべきなの? 悲しむべきなの?」
「お好きにどうぞ?」
*
この学校のこの時期にはもう一つ、「友達関係」に関わる一大イベントがある。
「今日のLHRは来月の修学旅行についての説明と話し合いです」
と担任の先生が宣ったので、普段は寝ている人が多発する体育後の六時間目というコマでも、今日は全員がしっかり起きていた。現金だが、人間なんて大人も子供もそんなものである。
「基本的に旅行中は、クラス全体で行動するかこちらで決めた班で行動するか、人数制限なしの自由班で行動するかです。自由班は最終日しかないですし、教員側が班を把握する意味もないのでこの時間には決めません。それは各自、休み時間にでもやってください」
まあ高校生だからどうにかできるよね、ということなのだろう。単独行動をしたい人だっているだろうし、かといって常識はずれの単独行動をしでかすほどの知識も資金力も高校生は持ち合わせていない。加えてこの修学旅行は制服、もしくは指定体操服がドレスコードなので、下手に抜け出そうとすれば一発でバレる。
「ただ、面倒なのが部屋割りです。一日目と二日目で、一部屋あたりの宿泊人数が違います。二日間で多少同室になる人間が変動するので、今からはその部屋割りの話し合いをしてください。十分で決着がつかなかった場合はこっちが名簿順で勝手に割るんで、それが嫌なら適宜協力しあうこと。ではスタート」
つまり、両日とも友達同士で一緒の部屋とかいうのを望むなら手短にまとめろ、ということだ。このクラスは文系選択の生徒が集まっているので女子が多い。話し合いに時間制限をかけないと、うまくまとまらなかった場合に、誰が割を食うかで泥沼になるのは容易に予想がつく。いい条件だ、と杏璃は思った。
クラス内において誰がどのグループに属しているか、なんていうのはもうすっかり決まりきっているが、杏璃はどちらかと言えば流動的な立場にいる。例えば誰とお昼を食べるかとか、誰と移動教室へ向かうかとか、それくらいは決まった人と行動するけれども、こういうときまでいつもいる人と一緒じゃなきゃ嫌だ、みたいなことはあまり思わないし、誰か一人でも気楽に話せる人がいれば、あとは正直なんでもいいと思っている。悪く言えば便利な人だと思うけれど、たかが一年限りのクラスメイトにそこまで深入りするのもな、というのが正直なところだった。
「えー、微妙な人数分けだ」
暗黙の了解で教室は昼休みのような分布図、つまりいくつかのグループに綺麗に分かれ、部屋割りの人数に苦言を呈する声があちこちから上がっている。杏璃のいるグループでも、先陣を切って話し始めるキャラクターである一人がそう言った。当然と言えば当然かもしれない。
だから、杏璃は遠慮合戦で変な空気にならないうちに、自分の希望を伝えた。
「あー、わたし一日目は一人でどっかに混ぜてもらうよ。その方が丸く収まるでしょ」
「いいの?」
「いいよ」
部屋割りは、一日目が四人、二日目が五人になっていて、杏璃が今いるこのグループは五人である。そのため一日目はグループを分割する必要があるのだが、二人と三人で分かれると、特に三人になったそこに招く一人に申し訳がないし、だったら自分が投げ込まれる側として、どこかの三人グループの部屋の埋め合わせをした方が気楽である。寝るとき以外で部屋にいることは少ないはずだし、二日目に同じ部屋になれるならそれで、と杏璃が根拠を言い添えればそれ以上食い下がる人もおらず、ちょうど三人グループで、あと一人をどうするかに困っていそうなところに声をかけると、とんとん拍子で部屋割りが決定した。おかげで話し合いは七分で終わり、無事にそれぞれが平穏で楽しいと思われる未来の夜を手にしたのだった。
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