或いはNo.110 #1

 *


 高校二年生の四月が始まって一週間と少し。昼休みの教室にこだまする喧騒を抜けて、仁科杏璃にしなあんり神城樹かみしろいつきという名前のほぼ接点のない同級生を、教室棟の非常階段で待っていた。

 その発端は向こうから寄越されたメッセージアプリの連絡である。接点がないはずなのに連絡が来ているという原因にもなった二日前のある事件の際、杏璃はその場にタオルを落としてきていたらしい。神城から「忘れ物? 拾ったから洗濯して返したいんだけど」とのメッセージを受け取り、洗濯を待って今日になったのだが、なぜか向こうの指定場所が非常階段だった。

 教室棟の非常階段は、非常用ではあるものの想定ユーザーが生徒であるから、生徒が勝手に鍵を開けて出られる仕組みで、杏璃も部活のメンバーと内々の話をしたい時にこの階段の踊り場を使ったことがある。なぜならそこは非常事態が起きない限りは誰の通行の邪魔にもならないからで、ちょっとした機密話にもちょうどいい場所だからだ。だからこそ、知り合って三日の人間にそんな場所に呼び出されるのは普通なら警戒するところなのだが、生憎彼には「普通」が通じなさそうなのもこの三日で——というか初対面で分かってしまったので、警戒することも諦めて、杏璃は応じることにした。


「あ、仁科さんもういる! ごめん」

 杏璃が非常階段で待つこと五分、息を切らして神城がやってきた。クラスの配置上杏璃の方が非常階段に近いし授業が延びれば出発も遅れるので、それを咎める気は全くない。杏璃はそんなことよりも、この状況の謎をさっさと解明したかった。

「そんなに待ってはない。それより、なんで非常階段? タオル返してもらうだけなのに」

「だって、こないだすごく嫌そうだったじゃん。だから、人目がない方がいいのかなって」

 こないだ、が二日前の事件、つまり初対面の日のことを指しているとはすぐにわかった。面と向かって会うのは二日前が一度目、今日が二度目だからである。

 ただ、「嫌そう」に気を遣ってこんな状況を作ったとしたら、やはり彼は杏璃がその時何が嫌だったかに気付いていない。それこそ「普通」なら気が付きそうな簡単な話で、だから杏璃は諦めるしかないのだ。

「……誰だって、友達やらクラスメイトやらの前で突然知らない人から『あなたと友達になりたいです! 友達になってください!』って言われたら引きます」


 *


 二日前。

 高校二年生を始めるための始業式が終わり、体育館から教室への移動中に杏璃は目の前の神城樹に呼び止められて、なんの前置きもなくそう言われた。しかし、去年も今年も杏璃と神城はクラスが違うし、部活だって向こうはバスケ部(だと二日前聞いた)、こっちは陸上部。部そのものが違うにとどまらず、外部活と体育館部活という活動場所なのでそれすらもかすっていない。杏璃は声をかけられるまで、神城樹という同級生がいたことすら知らなかったのに、突然『友達になってください』である。しかもその後、パニックで何も言えなくなっている杏璃を置いて彼は立ち去り、どこの脈から手に入れたのか(多分彼と同じクラスの陸部)杏璃のメッセージアプリに自己紹介付きで、忘れ物の連絡がきたのだ。

 正直なところを言えば、そんな初対面だったのでタオルのひとつくらいは人質に出して関わらないか、せめて連絡先を辿ったのと同じルートで物だけ返してくれれば、ということも考えはした。しかし、公衆の面前で『友達になってください』の一言だけを言って満足げに去るような人にそんな回りくどい対応をしてくれと人伝に頼んで聞いてもらえるともあまり思えず、渋々杏璃は承諾したのだ。


「え、そうなの? でも友達になりたかったら、『友達になってください!』って言うしかないじゃん。クラスも違うし」

 杏璃による本人解説があっても、神城にはいまいちピンと来ていないらしく、不思議そうに首を傾げている。彼と杏璃は違う人間だし、人間が違えば常識も違うとは杏璃もわきまえているつもりだが、ここまで互いの【常識】がずれている相手とは、互いに空気で『合わないな』と察知して距離を取ることができるのも人間だ。つまり杏璃の交友関係にはいない、かつ自分とはかけ離れたタイプであり、とにかく打っても響かない。

「だとしても、もう少しやり方があると思うんですよ。何も、あんな場所で叫ばなくたっていいでしょ」

 お陰で杏璃は、「何事だ」という有象無象の好奇の視線に二分ほど晒されたのだ。たかが二分でも、されど二分。高校二年生の二分は、人生の中でもおそらくまあまあ大きいウェイトを占めるのだ。

「えー、でもクラス戻ったら友達と話したりとかして忘れそうだったんだもん」

「だもんって」

 男子高校生がその語尾を使うのはいかがなものなのか、と思いたかったが、残念ながら彼にはそれが似合っている。彼はかなり身長が高い方だろうし、杏璃とは性別も違うのに、その差による威圧感を今のところ杏璃が微塵も感じていないのは、多分そういったところのおかげなのだろう。彼は人たらしの才能に溢れているのかもしれない。

「あ、そうだ。もう一つ、仁科さんに言いたいことがあるんだ、おれ」

「は?」

「こっち来て。学習室」

 神城に促されるまま、杏璃は廊下へと戻った。二日前も今も、なんだかんだで向こうのペースで話が進んでいるのが悔しいが、かといって杏璃にはどうすることもできない。暴走機関車のブレーキは他人にはかけられないのだ。

「待って。学習室、鍵開いてなくない?」

 学習室とは、教室棟のフロアの端にある予備の教室のようなもので、端にある非常階段と同様に人通りなどはない場所である。しかし、学習室は例えば体育の更衣や、レベル別少人数指導をしている数学の授業で使うための部屋であり、使用しない時には鍵がかかっているし、その鍵は職員室だ。当然、昼休みである今も。

「そこはほら、田舎常套の不法侵入で」

 廊下に接した窓の、黒板から見ていちばん後方。当然その窓にも内鍵はかかっている。だがその窓を枠ごと上下に揺らして十秒ほど。

「よっし、開いた」

 回してかけるだけの簡易的な鍵は、それだけで重力に負けて開いてしまうのだった。

「……手慣れてる……」

「去年七組だったから、学習室の掃除当番してたんだよね。そん時に見つけたの」

 悪びれなく言い放ちながら、神城は上履きを先に学習室に投げ込み、身を屈めて窓を潜った。

「仁科さんも、ほら」

「え、はい」

 まだタオルも返してもらえてないし、ここまで来たら最後まで付き合うしかないと、杏璃は腹を括った。もともと小柄な杏璃にとって、この窓を潜ること自体は造作もないことである。

 そして、窓を潜った先にあったのは。

「……さくら?」

 学校の東側を流れる川の河川敷、桜並木が映った窓。その桜並木の道は、杏璃にとっては通学路であり、部活で使う道でもある。

「ここからなら外に出なくても見えるんだよね、四階だからだと思うけど。仁科さんと話すなら、この景色もセットで必要だなって」

「え、なんで?」

 人との距離を詰める手段に、花見という選択肢はある程度一般的だ。しかし、そこで想定される花見とは、もっと大人数で桜の下でやるもので、このような状況はあまりに変化球がすぎる。驚いて聞き返せば、神城は窓の外を見つめたままで、話し始めた。

「おれさぁ、去年の四月、ちょっと部活で絶望してたんだよね」

「……絶望?」

「おれ中学でもバスケ部だったんだけど、狭い世界で上手いぞって持ち上げられただけのことを間に受けて、まあ結構調子乗ってたんだよ。で、鼻伸ばしたまんま高校きてみたら、ガチなやつしかいなくて、おれ、なんか浮いちゃって」

「……高校きてまで運動部やる人って、本気でやる人が多いからね」

 高校生という身分は、選択肢が増える。有名な大学など、背伸びをした進学を目指す人は部活に入らないことがままあるし、遊びたい人は部活に入るよりバイトして、小金を稼ぐ方に行くのが高校生という年代だ。部活で青春を送ることももちろん可能だが、それには「部活を本気でがんばる」という前提条件が付随する。

 杏璃が同意を示せば、神城は杏璃を一瞥して口角を上げた。笑う時に使うはずのその仕草がどこか寂しげに見えたのは、おそらく杏璃の気のせいではないのだろう。

「でしょ? だからどうせついてけないだろうし、って入部やめようと思って。体験入部も早々にサボって、なんとなく教室から外見てたの。そしたら、陸部の練習が見えて。ずっと一年が、あの並木通り走ってんの」

 神城が言及したそれには、杏璃も覚えがあった。あの時、体験入部で陸上長距離を志望した一年生は、延々と桜吹雪の下を走るだけの日々だった。校内はインターハイ予選を控えた上級生で緊張感が高まっているので、外しか走る場所がなかっただけ、という裏事情もあるのだが。


「桜が咲いていたら、人は足を止めて見上げるもの。なのに、桜の花にも目をくれず、真摯に走りと向き合ってる人がいる。でも一方で自分は、なーんの努力もせずに、綺麗な桜になれなかったことを花見上げながら勝手に絶望しててさ。自分ががすごいちっちゃくてカッコ悪いやつなんだなってことを、おれはあの時仁科さんに教えてもらったんだ。だからお礼を伝えたくて、伝えるには『友達になるしかない!』って」

 神城は叙情的な言い回しで、杏璃にコンタクトを取ったきっかけの話を披露する。だが、それを噛み砕いて自分の中に入れようとしたとき、杏璃はあることに気づいて「うん?」と首を傾げた。

 ……だって、それなら。

「どうしたの?」

「待って、……あのとき陸部の体験入部者は他にもいたでしょ?」

 神城の話をまとめると、陸部の体験入部に来ていた一年生の姿を見て自分の心境が変わったという話である。その陸部の体験入部生は当たり前だが杏璃だけではないし、その陸部のいい話が、なぜ杏璃という個人に収束し、この奇妙な状況に至るのか。それを聞きたくて質問を挟めば、彼は言い忘れてた、と戯けて続けた。

「だって仁科さん、陸部の中でいちばん背が小さいでしょ?」

「……人のコンプレックスを二度目ましてで指摘するとは、いい度胸してますね」

 杏璃が睨むように見上げると、彼は「違うって! ていうか気にしてたなんて知らないしごめん!」と慌てながら手を横に振る。

「背が小さいってことは、人よりストロークが狭いってことじゃん。なのに、他の人に全く遅れを取らずにずっと走り続けてた。それって、並大抵の努力ではまかなえないものじゃん」

 スポーツをする上では、運動神経のみならず、生まれ持った体格、体質全てが「才能」に含まれる。杏璃の背が小さいという特性はどんなスポーツでも不利だとされがちで、努力で賄える量が多い(と杏璃は思っている)長距離種目でも例外ではない。たしかに小柄であれば風を受ける面積は少なく、風の抵抗も少なく走れるのだが、単純に足の回転数が人より多くなるので、天秤は結果的に損に傾く。

「……それ、初めて人に言われた」

 体格の小ささをカバーするだけの体力づくりは、続けていくには必要だから取り組んだ。でも、けして他人に見えることはない努力だと思っていたし、実際「走れるようになったね」とも言われないような努力だった。なぜなら、マイナスだったスタートラインをゼロにするための作業だから。

「え、そうなの?」

「ていうか、たまたま見ただけの人のことそんなに分析するの、気持ち悪いよ」

「うっ……知ってます……」

 神城は、そこには流石に自覚があったらしい。正論で杏璃に突かれて、気まずそうに肩をすぼめて縮こまってしまった。

「……でも、そこまで知られてるなら、友達って枠があった方が安心する」

「へっ?」

「いいよ、友達。なろう、ちゃんと」

 一周回って、面白くなってきた杏璃は、気づけばそんなことを口にしていた。神城も戸惑っていたが、杏璃自身でも理由は説明できないので、もうここは戸惑いを押し切ってやれ、と方針転換することにした。もとから、この暴走機関車を止めることはできないと諦めていたのだから、諦めるついでに並走することもまあ、許されるだろう。

「そういえば、タオル返してよ。本題それじゃん」

「あっ、はい。母に頼んで、それだけで手洗いしてもらったから、粗相はない、はずです」

 タオルは、綺麗に洗われ畳まれた上にどこかの服屋でもらえそうな上等な袋に入って帰ってきた。この気遣いはきっと、彼の母のものだろう。

「そんな丁寧に扱ってくれなくても。たまに部室の洗濯機で回すし」

「え、部室に洗濯機あるの。いいなぁ」

「体育館の部室棟はないの?」

「まず水道がないし、建物もそこまで丈夫にも作ってないだろうから、重さ的にも無理なんじゃないかな。だから、ビブスとか持ち回りで洗濯するんだけど、忘れないかヒヤヒヤする」

「へー、面倒だね」

「うっわ、すっげえ他人事の声だよそれ」

「だって実際他人事だし。『友達』っぽいでしょ、こーいうの」

 そう言って杏璃が空いている右手を差し出せば、意図を察した神城が右手で握り返す。

「うん。えへへ、ありがとう仁科さん」

「うん。これからよろしく……神城、くん?」

「樹でいいよ。くん呼びが似合うキャラじゃないし」

「……じゃあ、とりあえず神城で」

「えっ、なんで??」


 かくして、杏璃の嵐のような高校二年生は幕を開けた。

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