消失の先に #8
「……え」
「だってそうじゃない? なんか色々と余計なこと考えてくれてたけど、その枠を椎名さんが埋めちゃうのが一番合理的で簡潔な解決方法じゃん」
椎名が恋愛にキュンだとかロマンだとか、そういうものを求めていたらこの提案は却下されるだろうけれど、そうではないと椎名本人が言った。だったら、椎名に刺さった棘を抜くのに一番手っ取り早い方法はこれだろう、と桂は思う。
「さっきも言ったけど、僕は今、恋愛という感情や現象に興味がない……というか、する意義が見出せない、っていう方が正しいか。だから椎名さんがその枠に来ようが気にならないし、むしろあんな無茶に今後も付き合わされるくらいなら、枠埋めて落ち着いてくれた方が平穏に暮らせて嬉しいかな」
「無茶って」
「無茶でしょ。どっかの誰かとの関係が終わるたびに正体なくすまで酒飲んで潰れて、こっちは世話焼かされるんだから」
誰のせいで、桂が基礎化粧の手順や肌手入れの留意点を覚えたか。お陰でこの夏から桂も日焼け止めを塗るようになったことや、それにまるで抵抗がなかったことは、椎名には一生言わないことだが。
「や、でも。……恋愛する気がない人が彼氏とか彼女とかって肩書つくるの、おかしくない?」
「まあ一般的な価値観で見ればおかしいだろうね。でも、恋愛の行きつく先だと思われがちな現行法制の結婚ですら、証明するのは両者の〝結婚への〟合意だけで、両者の間にある感情の説明ではないことを考えたら、それよりも拘束力の軽い口約束程度のことにまともな理由なんか要らないんじゃないって思うよ。何より僕はそれで良いって思ってるから提案してるんだし」
だからこの提案飲むか否かは椎名さん次第だよ、と言い添えると、椎名は頭を抱えてしまった。確かに、椎名は桂をその枠に入れて関係を壊したくない、でも邪魔もしたくないから離れなければと思って足掻いていたわけで、まさかその相手に「壊れるものには変化しないし、変な無理をしてるくらいならいっそ枠に入れてくれればいい」と言われることも、その選択を迫られることになるのも、本人にしてみれば青天の霹靂でしかないだろうが。
「あの、はい」
しばらくひとりで混乱していた椎名は、それを一人で処理するのは無理だと白旗を上げるかように挙手で発言権を求めた。
「どうぞ」
どうせなのでその茶番に乗って、桂も先生のような態度で椎名の発言を促す。
「そういう関係になったら、今は違くてもいつか意識が変わるかもしれないよね。それでも本当になくならない、の?」
「うん」
そして彼女の問いにきっぱり返せば、椎名は心の底から不服です、と思っていそうな渋い表情で桂を睨んだ。その目はどうしてそう言い切れるのか、と疑っている目で、直後に返ってきた彼女の言葉も桂の予想通りの内容だった。
「それはどうして」
「椎名さんは、恋愛って感情が消えた『後』について、考えたことある?」
「え、……ない」
「でしょうね」
彼女は、恋愛という感情のゴールは『消失』ただひとつだと思っているから、あのような人付き合いを繰り返していた。しかし、世界にあるすべてのものは、いつか不思議な友人が言ったように都合よく消えたりなんかはせず、消えたように見えてもただ形が変わっているだけで、存在自体は続くのである。それは情という実体のないものであっても同じであり、一度出会ったことのある人は、あとで疎遠になったとしても全くの他人には戻れない。当人同士が忘れていても『出会った』という事実は消せないからだ。
「僕は、その『後』に人が恋愛をする目的があると思ってる。それを通して得たいものがあるから、あんなに膨大なエネルギーを持つそれに、振り回されるって分かっていても身を投じるんだろうって。まあ渦中のスリルやドキドキ感だけを楽しみたいっていう、奔放で無責任な人がいないとは言わないけど」
椎名さんも傍から見たらそんな感じだったし、と昨日まで抱いていた感想を零すと、椎名は分かりやすく萎れた。
「……それは、はい。ごめんなさい」
「僕に謝られても」
桂は今日の椎名の話を聞いて、むしろよく今まで五体満足で生きて来られたな、と感心している側であった。人間関係のトラブルが起点の殺傷事件は、いつの時代も枚挙に暇がない。
「話を戻すけど。人は感情を大きく振り回されると、それがたとえ前向きの楽しい感情だったとしてもストレスを感じるようにできている。そしてストレスを感じれば人間は馬鹿になるし、突拍子もないことをやらかすこともある」
椎名だってまさにそうで、破局すると浴びるように飲んでは潰れる彼女だが、普通、趣味で酒を飲む人は楽しくなりたくて飲むのだから、後で気分を悪くしない程度に配分を考えたりするものだ。たとえ飲んでいる最中に楽しくなって走りすぎることがあっても、毎回律儀に同じことをして潰れるのとは訳が違う。彼女が今までやっていたのは、潰れるために飲酒をする、というおよそ危険な行為である。
「なのに、人を良くも悪くも振り回す代名詞の恋愛が、冷静になって考えるべきの人生設計にすらひっついているのが世の中の主流。だったら、多くの人にとって恋愛っていうものは、そのものを楽しむアトラクションというより、何か目的を持って乗り越える荒波なんだろうって」
「なるほ、ど?」
「……今の顔と台詞のちぐはぐさはいっそ見事だよ」
桂の意見にどうにか頑張って頷こうとしている椎名だったが、その表情はどう見ても理解できないものを見るそれである。回りくどい話し方をしてしまうのは桂の性分でもあり、『分かりやすく簡潔な解説』と自分は一生縁がないという自信すらある。
「だって難しいし、こっからいい話になるとも思えないし……」
「まあ、いい話にするには結構ひねくれた考え方をする必要があるのは認める」
とりあえず続けるね、と桂は椎名に構わずに持論を進めることにした。
「椎名さんも言ってたけど、恋愛感情ってのは短命で、それ自体はすぐ寿命を迎えてしまうものだと思う。それは多分、長く付き合って、今もパートナーと幸せに暮らしているような人たちの『恋愛』でも同じ」
「じゃあダメじゃん」
「それがダメじゃないんだよ」
「……なんで。死んだら終わり、じゃないの?」
「じゃないの。化学では、物質の寿命を表すのに半減期って言葉をたまに使うんだけど」
半減期って『半分に減る期間』って書くんだけどね、と、桂は漢字も一緒に説明した。この言葉は、物理や化学をそれなりの期間、もしくはそれなりの深さで学ばない限り出会わない単語であるが、漢字を知れば直感で意味を掴みやすくなるためだ。
「この世界にある物質のうち、少し不安定な物質には、その物質が持っている粒子が時間経過とともに勝手に外に飛んでいくっていう現象がある。半減期はそういう現象が起きる物質にあるもので、『ある物質が最初に持っていた粒子を半分喪うまでにかかる時間』のこと」
「だから、半分に減る期間」
「そう。それで、最初の物質視点で見ると『自分を構成していた粒子を半分も失えば、それは失う前のものと同じとは言えなくない?』ってなるから、イコール物質の寿命って意味で使うんだけど。でもこれ、粒子半分がなくなってるだけで、全部が綺麗になくなるわけじゃないでしょ」
「……ほんとだ」
身振り手振り、というか主に両手で示しながら説明したそれは、どうにか専門外の椎名にも伝わったようだ。これが伝わらなければ、この先桂が話すことは魔法の呪文にしかならない。
「で、ここからが本題で、この残った物質は基本的に、最初の物質よりも安定したものになる。飛んでいきやすい粒子を喪ったあとの状態だから」
「……えっと、付箋で貼った紙より、のりで貼った紙の方が飛んできにくいとか、そういう感じ?」
「んー……、まあ強さのイメージとしてはそれでもいいか」
半減期を本当に詳しく解説するなら量子論の範囲に片足を突っ込むことになるが、あの世界は大学まで行って本気で向き合っていても、理解に向く人、向かない人がいるような分野だ。それを入門知識もない椎名に話したところで混乱させるだけであるし、話したいことの本質ともずれるので、雰囲気を掴んでくれればそれでいい。
「この『残った物質』が僕の思う恋愛の目的で、その中身は安定した人間関係……概念としての『家』だと思う。だから僕はこれまで、『恋愛しなきゃ!』って思ったことがなかったんだろうなって」
帰巣本能がそうさせるのか、人間が社会性を選択して生き延びてきた種族だからか、帰る『家』——つまり帰属される集団を持っている人間は、そうでない人に比べると安定している。それが仕事の集団であれば経済的な安定だし、私生活の集団であれば精神だとか、人間性の安定だ。
恋愛を通じて獲得できる可能性のある関係はいわずもがな私生活の集団で、私生活を構成する『家族』という最小単位の集団を、血縁の外で、自分の意思で作ることが一般的な着地点である。不思議な友人との会話の中で「だから自分は今まで恋愛的な意味で人を好いたことがなかったのだ」とこの理由に思い至った時、桂は自分に対してひどく納得した。
桂の場合、既にそこに椎名がいた。ただそれだけの話だった。
「この前提で僕と椎名さんの関係を考えると、少なくとも僕の側からはもう恋愛ってものを通す理由がない。通す理由がないなら変化させる意味もないってことだし、変化させないのならそれが理由で壊れることはない。ただラベルがひとつ増えるだけ」
椎名が桂たちのことを家族のように思っているのと同じように、桂たちの側も椎名はとっくに家族の枠の中に入れている。その安定した状態から、わざわざ不安定な状態に関係を励起させる理由はないし、ラベルをひとつ増やすことで椎名の奇行が収まるなら、桂にとっても安い買い物だ。
「椎名さんが外へ出て行くための前向きな恋愛なら僕も止める気はなかったし、一生こんな提案はしなかったよ。でも変な気を回されたうえ毎度酔いつぶれてるんなら、行く末の責任持つ方が僕は楽」
「ご、合理的というか……。ほんと、今までごめんなさい」
「本当にね。——で、どうする?」
「え、と。……じゃあ、よろしくお願いします」
この椎名の表情を、きっと死ぬまで忘れないんだろうなと、桂は頭の片隅で思った。
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