消失の先に #6

 *


 それはまるで、捨て猫が精一杯人間を威嚇する細い声と同じくらい冷たくて、ついさっきまでの椎名とは別人のようですらあった。

「……はい?」

 桂はその変化に「自分は一体なんの地雷を踏んだ」と内心で慄きつつも、普通を装い問い返した。桂が覚えている限りの今日のやり取りは、地雷が含まれていたならそもそも腐れ縁が十年も続いていることが異常事態になるような、二人の「日常」と呼べるものしか交わしていないはずである。

 しかし椎名は完全に桂を帰そうとしており、まだ白い顔に血の気が戻りきっていないというのに、性急に立ち上がって桂のことをダイニングへと追いやった。

「もう良いから、帰って。今まで迷惑かけてごめん」

 そして、桂はサンダルと共に玄関からも追い出され、ドアチェーン付きで施錠をされた。こうなると、解錠番号を知っていようが桂は鍵を開けられない。なすがままに追い出され、とりあえずサンダルを引っ掛けているとき、桂はふと、ある可能性に思い至った。

「……もしかして、歴代の元彼とこうやって別れてたのか、この人?」

 人間が突然訪れた感情の衝動のままに何か行動を起こす場合、大抵はそこに論理は通らず、残念な結果を招くことが多い。まして今は椎名は体調が悪いため、判断力、思考力といったもののベースの最大値も低くなっている可能性が高い。

 だが、そんな通常の思考判断力にあるかどうかも分からない人が、『家から誰かを無理やり追い出す』というおよそ日常生活で体験しないような特殊な行動において、靴まで抜かりなく追い出せている。となれば「その行動に慣れている」という可能性は頭に浮かんでしまうものだし、無理やり家から追い出されるには一旦は部屋に上げてもらう必要がある。それができる間柄の人間は限られてくるし、少なくとも、桂はサンダルのことを履こうと思うまで忘れていたので、椎名がサンダルを一緒に追い出してくれなかったら、桂は温いアスファルトを直に感じながら帰る他なかっただろう。

 椎名自身は「好きじゃなくなった」なんて理由で恋人と別れられる人だが、相手が全員その理由だけで納得して円満に別れられているとも思い難い。どれだけ付き合いが短かろうが、相手は一瞬でも恋人だった人であり、恋愛に求めるものが人それぞれ違うように、恋人と破局するに足る理由も人それぞれ違う。数多いる彼女の元彼の中に「納得できない」と食い下がってくる人は割合多めにいただろうし、その話し合いの延長が家というテリトリーまで及ぶのもあり得ない話ではない。防犯的には褒められた行動ではないが、一旦そこに通されたうえで拒絶されるのは結構効くものがあるのだなと、桂もちょうど今体験しているところである。

 だが、そんな態度を取られたからと言って桂が大人しく帰るようなら、この腐れ縁は十年続いてなどいない。元彼たちと桂は、良くも悪くも彼女に対して肝の据わり方も知り得る情報も違うのだ。それに、桂がいま大人しく帰るわけにはいかない理由はもう一つあった。

「てか、今までごめんって何だ」

 椎名は『迷惑かけてごめん』ではなく『〝今まで〟迷惑かけてごめん』と言った。

 それは今の介抱だけでなく過去全てを対象にする精算の言葉で、訣別の言葉とも取れる。三日とか一週間とかじゃなく、十年をその一言で済ませようという魂胆がそこに含まれているのなら、なおさら理由まで訊かなければ桂も到底納得できない。

「……っし、やるか」

 決意を固めてひとり小さく呟くと、桂は己のスマホで、母とのトークチャットを呼び出した。


 *


 スマホの充電をフルにしてきてよかった、と思いつつ桂が取った行動は、単純至極、鬼電であった。

 最初は当然、椎名は応答することなく電話を切ったが、桂にとってそれは想定内であったため、気にも留めずにリダイヤルを重ねた。結果、二十分くらいしたところで、痺れを切らしたのか諦めたのか椎名は桂の電話に応じ、桂がまだ椎名の家の玄関前に居座っていると告げれば、玄関まで、という条件付きで再び迎え入れてくれた。女性が暮らすアパートの玄関前に男が居座っているという状況は、色々な意味でとても良くない。

「着拒しなかったんだね」

 通された玄関で、サンダルは脱がずに三和土に座り込んだ桂は、とりあえず思いついたことを口にした。一旦拒絶の姿勢を取った相手に、一問一答で本心を明かしてくれるとは思えなかったので、まずは氷を投げ入れた。人生、時に回り道も重要である。

「……させる隙間を与えずに電話かけてきたのどこの誰」

「そうだね、僕とうちの母だね」

 携帯電話という電子機器は偉いもので、電話がかかってくると、何の操作よりもそれを優先させる。それに加え着信拒否という文化に馴染みがなければ、その番号登録に手間取るもので、幸運なことに椎名はそれに慣れていなかった。結果として、拒否設定が完了する前に再び電話がかかってきて拒否が間に合わなかったという。しかも桂は自分の番号が着信拒否された時のために母にも電話をかけてもらうように依頼しており、母は家の固定電話と自分の携帯の二台でかけると意気込んでいたが、椎名に投げられた携帯の着信履歴を見るに、どうやら本気で二台体制でかけていたらしいので、我が母ながら大したものだ。

「……なんで? もういいじゃん、ほっといてよ私のことなんか」

 椎名は「どうせもう私に売る優しさはないんでしょ」と発端となった桂の発言をなぞって詰る。確かにそれは信頼関係にあぐらをかいた失言だったので、桂はそれに対する謝罪を含めつつも、自分の言い分も展開した。

「病人に軽口叩いて余計不安にさせたのは申し訳ないと思う、ごめん。でも今の僕は一応あなたを救助した人だから、元気になるまで心配するのは当たり前だし、回復するまで見届ける義務があると思ってるから、追い出されても応じたくはないかな」

 今回は軽い脱水症状で軽症だったし、椎名の体調も順調に回復している気配があったが、椎名も桂も医療に関しては素人であるので、さっきまでの体調不良がただの脱水症状で、このあと急変がないとは判断できない。もし悪い方へ急変すれば病人が一人自力で医療にアクセスするのは存外難しいし、その事情を抜きにしても救助に関わった方も顛末まで責任を持たないと寝覚めが悪い。まずはフックとして一般的な意見として聞いてもらえそうなことを並べつつ、桂個人としてはこの先に話すことこそが本題なので、あくまで淡々と、いつも通り理屈っぽく聞こえるように続けた。

「それに、椎名さんはさっき『今まで迷惑かけてごめん』って言ったよね。僕はそれの意味も気になったし、そもそも十年分の感謝を込めた集大成があの締め出しだって言うなら、さすがに怒る」

「……黙秘権は」

「黙秘するなら、今日はおとなしく帰っても明後日くらいにタッパー返してって勝手に家に上がって待つかな。今日の僕は確かに無遠慮な発言をしたけど、それで『これ以降関わりたくない』なら処分が重すぎる気がするので」

「う、……」

 元来の性格として理詰めは桂の方が得意だし、椎名も本調子ではない状態だ。しばらくの呻くような葛藤ののち、椎名は諦めて理由を話すことを選んだらしい。

「——……私は、邪魔者だもん」

 そして喉から絞り出すようにそれだけ言うと、彼女は両腕で顔を覆った。どうやら泣いているらしく、体調不良という負の精神状態もあるにせよ、理由を語るのにひとこと言うだけで泣き出してしまうなら相当何かがありそうだが、生憎桂は超能力者ではないので、それだけで全てを察するのは十年付き合ってきた相手であろうと不可能である。

「それだけじゃ、さすがに話が見えないんだけど。邪魔って何?」

「私は、誰かの幸せを邪魔することしか出来ない。……うちの親だって、私の存在がなければ人生に苦労しなかったかもしれない。藤沢家だって、私っていう面倒な存在を知らずに済んだ。桂だって普通に恋愛して、可愛い彼女ができて」

「……いや、前半はともかく、後半は別に椎名さん関係なくない?」

 前半、椎名の両親については、確かに彼女の父はシングルの子持ちとして大変な生活を強いられていたかもしれないし、養育費は踏み倒していたという彼女の母にも、子どもを産んだという事実や離婚した履歴は残るので、そのあたりで何かを言われた可能性はあり、その実情は今では知りようもないことなので桂には何を言う権利がない。

 だが後半に関しては思い切り当事者であり、椎名が心配するらしいそれが思い込みと取り越し苦労でしかないと知っている。だから桂は耐えきれずツッコミを入れたが、椎名は桂本人の否定すらも否定した。

「関係あるよ。言われたことあるもん、そのうちおまえは邪魔者になるぞって」

「誰に」

「友達、……かもしれない人」

「何その謎の肩書き」

「昔は友達だったけど今は連絡とってないし、でも縁を切ったわけじゃないから過去形にはできない人」

「……それ、昔の知り合いって言えばよくない?」

「ああ、そっか。知り合いか」

「うん。……まあ、それは置いといて確認ね。椎名さんは、僕達の幸せを邪魔する存在になりたくないから、僕達から離れなければと思っている。だから、もう放っておいてくれ、と言った」

 桂の確認に椎名は頷く。彼女の腕はまだ、顔からは離れない。

「……大体合ってる」

「じゃあ次の質問。どうして今、離れようと思った?」

「どうしてって、……そう言われた、から」

「でもそれ、言われたのは昨日今日のことじゃないでしょ。言われた相手は連絡も取ってない、友達とは言えないってさっき椎名さんが自分で言ったくらいだから、多分結構前だ」

「……桂、いまからでも刑事になれば……」

 桂本人としても重箱の隅の隅をつついている自覚があるが、それは椎名にもそう取られたらしい。だからそれを受けてのこの感想は、つまり肯定の返事である。

「体力的に向いてない。で、どうして」

「……桂が、今年二十歳になったなぁって、この前思い出したから。二十歳になったら成人の集いがあって、同窓会があって、そこで何かが始まると思ったから、その前に私はいなくならなきゃって」

「そこで始める気があるかは人それぞれ、個人の自由なんだけど」

「でも、始まらないとは言えないでしょ」

「そりゃゼロだとは言えないけどね、でもいまの僕が興味ないんだから、その可能性は限りなく低いよ。……まあでも、うん。椎名さんの言い分は大体わかった」

 桂は納得しつつ、次は僕の番ね、と挟んで話を続けた。対話の基本は、互いの立場を表明して落としどころを探る余地があるか、それとも決裂するしかないかを見極めること。たとえ共通言語を持っていても、人間は宇宙人とは対話ができない。

「椎名さんがいることが邪魔になる『僕達の幸せ』があるって、僕達は一度でも椎名さんに言ったことある?」

 そして桂がそう言えば、彼女の表情をずっと頑なに塞いでいた両腕が外れた。驚いて外してしまった、という具合なのだろう、椎名はかなり間抜けな顔をしていた。

「……聞いてない」

「でしょうね。うちは全員、微塵もそんなこと思ってないからね。……母さんなんか、椎名さんがうちにいて、台風みたいに色々巻き起こすことも含めて『生活』だって思ってるんだし。息子か娘かで言ったら娘が欲しかったらしいから」

「え、そうなの?」

「そうらしいよ」

 藤沢家は、両親の実家がともに隣県とはいえ他県、長子ではない者同士の結婚なのであまり支援は見込めないであろうこと、さらに経済的な事情も鑑みて、当初から子どもは持っても一人まで、という家族計画だったらしい。だから胎児検診で桂の性別が分かった時、娘が欲しかった母は若干落ち込んだと、桂はいつだかにそれを母から打ち明けられた。本人たる息子にそれを明かすのもどうかと思うが、時々謎の方向に思い切りがある部分も含めて母なんだな、と桂はその時にはもう思っていたので、「ああそう」と一言述べて受け入れたし、椎名の世話をまめに焼いていることにもむしろ納得できたのだが。

「もちろん、社会的にとか、一般常識的にとかの価値観と照らし合わせると、椎名さんが邪魔者に映る場面はあると思う。昔、椎名さんが邪魔者になるぞって言った知り合いってのも、多分そういう価値観を持っていた人だった」

 それこそ例えば少女漫画などの恋愛に重きを置いた物語において、恋をした相手に異性の幼馴染がいるというのは嫉妬を買う王道悪役ポジションであり、仮に桂がフィクション世界のヒーローであれば、椎名は主人公ヒロインにとって邪魔者だ。だがそれはヒロインにとっての邪魔者かどうかというよりは、物語を見る視聴者が邪魔だと判断するから悪役として描かれているだけで、当人の意思はしばしば無視されている。

 現実世界には主役脇役の区別もなければ、誰かを納得させなければならない脚本もないので、誰がどう思っていようと、本人の意思で行動することが最優先されてしかるべきである。ヒロインと幼馴染の気が合って親友になることだって当たり前に起きるのが現実世界だ。

「だから、椎名さんが今の理由で離れたいって言うなら、それは受け取れない……、というか、受け取る気はない」

 桂は椎名と目を合わせて、そう宣言した。

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