消失の先に #5

 *


 均衡は、ある日突然崩れるものである。


 その日椎名は、桂の通う大学の近くに用事があった。幼馴染は電車通学のため往復にかなりの時間をかけているが、実は車なら半分の時間で済む。ちょうど自分の運転する車でその大学の前を過ぎた時、椎名は見知った影を見つけた。言わずもがな桂であるが、その隣には、当たり前だが椎名が知らない人がいた。同級生なのだろうか、綺麗な女性だった。

 もちろん、それが彼の彼女だと決めつけるのは早計である。単なる友人をそうだと思い込むのは、フィクションにもよくある勘違いだ。

 しかし椎名は、そこに可能性を見てしまった。

 いつか彼にもそういう相手が出来て、自分がいる場所がなくなる可能性。頭で理解しているつもりでも、覚悟を決めたつもりでも、実際にそれを目の当たりにするか否かの理解力の違いには、目を瞠るものがある。

 人の葬儀を出す時、必ず「最期のお別れです」と蓋を開けて骸を見るのも、百聞は一見に如かずという諺が今も生き残っているのも、それを実体験として感じる人間が多いからだ。時流に合わない風習や言葉は、時代から淘汰されていく。それが残っているという事実が、人間という生物を表しているのだ。

 彼ももう二十歳を超えた。今度の冬には、いつかの椎名と同じように成人式や同窓会に出向くのだろう。彼はきちんと家庭で愛されて育った子だ、親のためにもそういう式典を欠席することなんてしない。そして、そういうタイミングで何かが始まることは、往々にしてあるのだ。それこそ、かつての自分のように。

「……タイム、リミット」

 もうそろそろ、椎名は彼らから離れなければならないらしい。この先、自分はどうやって息をすれば良いのだろう。その日を境に、いくら呼吸を繰り返しても酸素が足りないような息苦しさが、椎名にはついて回るようになった。


 *


「……そういや最近、椎名さん来ないね」

 あの襲撃から二ヶ月経って、季節は春から初夏をすっ飛ばして夏に入った。ここ数年は初夏という概念も無いに等しい気候だが、二ヶ月も椎名が藤沢家に現れないなんてことも、ここ数年ではあり得なかったことだ。

「便りがないのは良い便り、ってやつかしらねえ」

「でもあの人、恋愛方面でどうにもなってなくても、仕事で殺される人じゃん。生活が」

 椎名の恋愛に関わる行動がおかしくなったのは直近三年のことである。しかしその前から、彼女は何かに困ったり疲れたりしては藤沢家を訪れて、世話を焼かれていた。その様子を見ていれば、椎名が困るのはどんな時なのか、困ったらどうなるのかを藤沢家一同はすっかり知っている。つまり、彼女が何も言ってこないようなとき——便りがないのは平穏なのではなく、便りが出せないほど消耗している、というだけなのだ。

「あら、分かってるじゃない。はい、おつかい」

「何?」

「しーちゃんに差し入れ。持ってってあげて」

 その言葉と共に桂の目の前にでんと積まれたのは、野菜がメインの常備菜たちが詰まった保存容器の塔だった。ここ最近はコンビニ商品や惣菜などにもビタミンやミネラルが摂れるものが増えてはきたが、食事のことに意識を向ける余裕がないとすぐ欠落してしまう栄養の二大巨頭は、野菜の副菜で摂ることが多いビタミンとミネラルである。サプリメントを飲むのが社会的に当たり前になってきたのは、それだけ社会には余裕がないからだ。

「まめだよねぇ、母さんも」

「料理してないと息が詰まって死んじゃうもの」

 母は、ストレス発散方法が料理という、経済的で合理的な性質の持ち主である。だから時々、山のように野菜を買い込んでは数時間キッチンに立て篭もり、このような救援物資を作る。それは自宅の救援物資でもあり、椎名の救援物資でもあった。

「もう八時だし、そろそろ帰ってるでしょ」

「わかった、面倒になる前に行ってくる」

 繁忙期であれば休日出勤も当たり前らしい椎名だが、例えば残業が立て込んで午前様、というようなことは滅多にない。どんなに忙しくても家で横になって休む時間は取るように配慮してくれる職場だそうで、それなりの時間には家に帰されている。また、椎名が藤沢家の合鍵の場所を知っているように、藤沢家も全員彼女の家の解錠方法を知っているため、仮に不在だとして一筆添えて置いて来れば良い。この家から歩いて十五分、築年数は四十年ほどを数える、玄関ドアがナンバー錠方式のアパートに、今は椎名が一人で住んでいる。

 夜とは言っても夏なので、救援物資たちは保冷剤を詰め込んだ保冷バッグに収納し、あとは携帯だけを服のポケットに突っ込んで、桂は家を出た。

「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。しーちゃんに会えたらよろしくね」


「……出ないな」

 渡る信号は一つだけ、きっかり十五分歩いて目的地にたどり着いた桂は、まず家の呼び鈴を鳴らしたが、それに対する応答はなかった。駐車場に車があること、ベランダの掃き出し窓が開いていること、風に揺れるカーテンの隙間から部屋の灯りが漏れていることは道中で確認していたので、在宅であることには間違いないのだが、ドアの向こうに人の動く気配はない。

 仮に疲れ果てて寝ているのだとして、今は夜だって暑いのだから、窓を開けるよりクーラーをつけた方が良いのではないか、電気代が勿体無いのならまず先に電気を消せば、などと余計なことを考えながら、桂はナンバー錠の操作盤で暗証番号を入力していく。家主が寝ているのなら、いちいちその安眠を妨げるよりは、桂が一方的に親切な小人さんをやった方がお互いに楽だ。

「椎名さん、いるんなら入るよ?」

 解錠の手順を踏み玄関を開けた桂は、一応中に一声かけてから、引っ掛けてきたサンダルを脱いで、裸足のまま三和土に上がった。椎名の暮らすこの部屋は、手狭なアパートによくあるダイニングキッチンが廊下を兼ねる間取りだった。だから冷蔵庫も玄関から五歩で着く場所に鎮座しており、運んできた救援物資を詰めようとドアを開ければ、冷やすものを待っていましたとばかりに冷気が流れ出た。中には飲み物が数本と調味料しか入っておらず、ろくに食事を作っていないことが伺える。

「冷蔵庫がこんなになってるってことは、忙しいんかなぁ」

 健康的に生きていられて、そしてお金に無理がないのなら、自炊なんてしなくてもいいと桂は思う。しかし椎名は違うようで、意外にもきちんと料理をし、家で食事を取る人だった。そもそも、椎名が家で食べる習慣がある人だからこそ、常備菜が『救援物資』になるのであるが。

 椎名の状況を冷蔵庫から勝手にプロファイルしながら、桂は救援物資をしまい込み、居室の方へと歩を進めた。この部屋は二DKの間取りで、今灯りが付いている部屋が椎名の居室、もう片方は今は簡易的な仏間になっているため、人が入る時だけしか灯りが点かない。

「椎名さーん、……生きて、る?」

 そして灯りが漏れているドアを開けてみれば、そこで伸びている椎名がいた。


 *


「熱中症のちょっと手前だろうって。換気するのは偉いけど、動けないほど疲れてるなら冷房もかけておきなよ」

「車の中は涼しくしてきたから油断してた……」

「バカなの? 今の夏は簡単に人が死ぬんだよ」

 伸びた椎名を発見してから三十分、桂はずっと椎名の世話を焼いていた。椎名は帰宅後、換気の間に数分のうたた寝程度のつもりで寝ていたらしいのだが、この暑さで身体が茹って、起こすや否や「気持ち悪い」と言って床に伏した。桂は素早く母に連絡して、藤沢家に常備されている経口補水液と冷凍済み保冷剤の余りを持ってきてもらい、手のひらと首周りを氷漬けにしながら窓を閉め冷房をかけて、飲めるなら、と給水を促しつつ、椎名の体調が改善するのを待っていた、というわけだ。酷くなるようなら、と携帯に#7119も準備していたので、それを使わずに済んだことは辛うじて良かったこと、なのかもしれない。

「バカなのは認めるけど、なっちゃったのは仕方ないんだから優しくしてよー……」

 桂の遠慮会釈ない言動に、椎名はしょぼくれた様子で歯向かってきた。体調が悪い時、人は誰しも寂しさや孤独を覚える生き物で、特に普段から体調不良とは無縁であるほど、そのギャップに苦しみ弱ってしまうことが多い。椎名も普段は割合元気でエネルギッシュなタイプなので、ちょうど谷間に落ちているのだろう。

 桂もその感覚には覚えがあるので、これが例えば椎名以外の相手であれば、優しくするように努めるところだ。……相手が椎名以外、であれば。

「そう言えるってことはだいぶ復活してるでしょ、だったら優しさを売る理由はないね」

 もちろん母の貢献も大きいけれど、桂だって暑い中この家に常備菜を届けに来て、そして危機を救った上で落ち着くまで介抱している。そうでなくても気心が知れすぎている仲なので、病人だからと優しくする方が桂としては調子が狂うし、それは椎名も同様じゃないかと思ったこともあり、桂はいつも通り辛辣な額面で茶化して答えた、のだが。


「……だったら、何で来たの?」

 桂の予想に反して、椎名は冷たい声でそう言った。

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