消失の先に #4

 *


 生物は時に、失いたくないものを守るために、別のものを犠牲にする。それは蜥蜴が自ら尻尾を切って逃げるような、兎が己の脚の骨を折る出力で敵を蹴飛ばし難を逃れるような、そんな生命活動とよく似ている。


 *


 栗平椎名の両親は、物心ついた頃には片親だった。母の浮気が原因で離婚したのだと聞かされて、椎名は父の手一つで育った。

 だがその父も、椎名がランドセルを卒業したばかりの頃に帰って来なくなった。貰い事故だったと言う。父は、向こうの勝手で出て行った元母に何も残さないように、全て椎名に遺せるようにと、知らない間にいろいろな用意をしてくれていた。椎名が望むなら、当然年頃の贅沢はできないし大変だけど、父と暮らしたこの家で暮らしていけると聞き、椎名は迷わずそれを選んだ。しかし、それを知らない母親だった人は、どこから聞きつけたのか椎名を訪ねて、そして言った。


「あんたなんか、生まれて来なければよかったのに」


 父と元母は授かり婚だった。……今でこそ授かり婚と言うけれど、当時はデキ婚という蔑称で呼ばわれていたそれは、奥方による井戸端会議での格好のネタだった。だから椎名はご近所が丸ごと嫌いだった。自分と父を悪く言っていることを知っていた。だからなのか、元母にそう言われたところで、涙も出なかったし、むしろ父と別れてくれて良かったと思った。

 父が亡くなったあと、悪口は全て椎名に向くようになった。表向きは可哀想だと言いながら、裏で自分は消費されていた。週刊誌の記事のように、下品なワイドショーのように、好き勝手言われ放題で、真実なんかどうでもいい、そんな営みに消費された。だが悪口を言う人は詰めが甘い。人の往来のある前で、平気で悪口を言ってしまうのだ。だから、椎名は自分の悪口をたくさん聞いた。でも全部、聞き流した。彼女たちは、反論されると喜ぶからだ。火に油は注がない。椎名はその術を身につけた。


 いつの日だったか忘れたけれど、でも夏だったことは覚えている、下校中にやっぱりそんな噂話をしているらしい集団に出くわして、道の端で動けなくなったことがあった。そんな時、ひとりの女性と男の子が通りかかった。顔立ちがどことなく似たその二人は、どこからどう見ても親子だった。つまり、その女性は男の子の母親だ。井戸端会議をしている奥方のような、奥様で母親なのだ。

 あの人も、クソみたいな汚い話を聞いて喜ぶんだろうか。自分を捨て置いた元母のように、自分のことを侮蔑の目で見るんだろうか。

 そんなことを思っていたら、なぜか女性は椎名の顔を覗き込んだ。そして目線を合わせて言う。

「うち、来ない?」

「……へ?」

「今日ね、うちで鍋するのよ。だったら、人数多いほうが楽しいでしょう?」

「……夏なのに、鍋?」

「そう。クーラーを効かせた部屋でやる鍋も良いものよ。おいで」

 その女性は藤沢さんと言った。息子は桂と言って、学年は三つ下らしい。わずかながら椎名の父と生前に交流があったと言い、椎名のことを気にかけていたと教えてくれた。悪口を言う集団は、ここの地主に近い、要は「強いおばさま達」らしい。藤沢家は桂が生まれるちょっと前にこの地域に移り住んだそうで、椎名の父とは、越してきた時期が近いから知り合いだったのだそうだ。彼女は「私が新参者のせいで、子どもに聞かすものじゃない、の一言すら言えなくてごめんね」と、椎名のために泣いてくれた。悪いのは百パーセント「強いおばさま達」なのに、藤沢さんは謝ったのだ。椎名も泣いた。父が亡くなったあと、初めて声を上げて泣いた。自分はずっと泣きたかったのだと、その時にやっと気がついた。


 椎名の帰るべき家は、間違いなく藤沢家だった。家族ではないけれど、でも、家族だった。


 大人になって就職しても、椎名は同じ家に住み続けていた。そして二十歳を超えて、初めて同窓会に出席した。ある程度の年齢を越えた知り合いと集まれば、良い人いないの、とはもはや社交辞令だけれど、その時、旧友だった人に言われた。

「ずっと地元ならさ、近所の仲良かった子……桂君だっけ、あの子はどうなの」

 『どうなのって何が?』と思った。そのまんま声に出して聞き返したら、「彼氏として、だよ〜!」なんて無邪気な返事が飛んできた。

 椎名は彼を、そのような対象に考えたことはなかった。ずっとそこにいる人で、これからもずっとそこにいてくれると、無条件で信じていた。だって、彼は家族だから。

 要領を得ていない顔をしていたらしい椎名に、旧友達は次々に言った。捕まえておかないと、今に向こうに彼女ができるぞ、さすれば椎名は邪魔者になるぞ、と。

 邪魔者は退散しなければならない。自分が理由で、桂の自由を奪ってはいけない。親離れのような感じで、幼馴染離れをしなければならないのかと考えた椎名は、考えただけでどうにも心が苦しくなった。でも、だからと言って旧友たちの言うように「捕まえておく」のも、椎名にとっては頷けない提案だった。ここで言う捕まえるとは、恋人という枠に彼を置き直すことだからだ。椎名は恋愛というものをまるでゴミのように思っていた。

 恋愛とは、父と元母がかつて経験したであろうこと。自分はその果てに、元母の言葉を借りればうっかり生まれてしまった不用品。恋愛感情が消えてしまえば、たとえ間に子供がいようが関係なく、その縁は切れるものらしいと、椎名はその生まれによって刻まれてしまっていた。

 恋愛は消えてしまうもの。藤沢家のみんなとの縁が、幼馴染との縁が、そんな風に消えてしまうのは、椎名にとって何よりも避けたい不幸だった。帰る家を、二度も失うなんて嫌だ。彼らを、桂を失ったら、椎名は本気でこの世界を生きていく自信がない。

 椎名が無茶苦茶な恋愛観を持つようになったのは、それからすぐのことだった。まず少女漫画や恋愛系の映画で、「好き」という感情を勉強した。そして、それに近いものを感じた相手にはとりあえず距離を詰めて告白する。幸か不幸か、打率はかなり高かった。しかし、「好き」という感情は、どうにも長続きしなかった。やっぱり続かないんだ、と椎名は一度目のそれですぐに学んだ。自分の親もだめだったのだから、その子どもである自分もだめなんだ。その諦めはすぐに訪れ、なんの違和感もなく、椎名の腑に落ちた。

 そして、ただひたすら「好き」を探しては、消えることに安心していた。無茶苦茶なそれは、椎名が安心するためにやっていたことだったのだ。


 彼と椎名の間にあるものが恋愛なんかじゃないと思うために、必要な儀式だった。


 そのためなら、自分が物理的に殴られようが、精神的に切り刻まれようが、それは些事だ。取るに足らない被害だ。それよりも、彼らとの関係が変わらないことの方が椎名には大事だった。


 *


 椎名の頭上で目覚まし時計が鳴っている。その時計は父の形見だった。手荒く扱えば二度と帰って来ないそれは、人の目を覚ますという役目をするのに存外適任で、携帯のアラーム機能よりもきちんと起きることができる。そっとボタンを押し込めてアラームを止めると、椎名は布団から半身を起こしてぐんと伸びた。そして一言。

「……うーん、まだだるい」

 一昨日、椎名はまた藤沢家に散々迷惑をかけ倒した。その記憶はしっかりある。椎名は、どれだけ酩酊しても記憶がきちんと残るタイプだからだ。今日のだるさの原因は当然アルコールの残留ではなく、昨日体調が悪いまま出勤して仕事をこなしたことによる疲労である。無理をするとガタがくる。それは機械も人間も同じだ。

「仕方ないか……二十三だもんなぁ」

 女性の身体的能力のピークは、十代のうちに来てしまうという。フィギュアスケートの世界トップで戦う女子選手が軒並み十代なのも、そのせいだとかそうじゃないとか。椎名本人はこの年齢でおばさんなどと自称する気はさらさらないが、同じくらいの年代でも「もう歳だから」と言う人はいる。実際、同僚にそのタイプがいる。

 思い出すのは、三つ下の幼馴染の呆れた顔だ。椎名が毎回うざい絡みをするのに、言葉では邪険にするのに、でも最終的には突き放さない。

 そんな彼は、いつか誰かのものになってしまうのだろう。だってあんなにも優しいのだ。

「……寂しいなぁ」

 彼らから離れなければならなくなるのは、そう遠い未来ではないのだろう。でも、離れるための解決策を、椎名は未だ見つけられずにいる。

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