消失の先に #3

 *


 朝の学食は、オンタイムであっても昼とは違って席数に余裕があるので、食事を終えた後に居座っていてもあまり目くじらを立てられない。だから二人はいつも、講義室の鍵が開く八時半を待ってから席を立つ。

「……『恋愛』は、延命出来ないのかな」

 食器を返し、講義棟へ向かう道すがら、桂はそんなことを思って声に乗せた。彼女が理想の『恋愛』を求めて走り回るのを止めるには、『恋愛』が長く続いてくれることが必須条件だ。

「どうしたの、ポエムなんか呟いて」

「いや、ちょっと。……けどまあ無理か、人の感情なんてのは特に」

 例えば反応性の高い物質は、すぐに何にでも衝突して反応し姿かたちを変えていくため、その物質として見ると、状態は不安定である。辞書を読み椎名を見る限り、そして世界に遺され生み出された数多の恋物語を見聞きする限り、『恋愛感情』もそれくらい不安定であろうというのが、現在の桂の推測だった。

「まあ俺も延命は出来ないと思う。人間も感情も、戻らないし戻れないからね」

「ですよね」

「けど、なくなりはしない。違う?」

「……え?」

 なぜ同意を求められたかが分からず、桂は間抜けに訊き返す。瑞基はその表情に「鳩が豆鉄砲喰らった、ってこういうことか」と些か失礼な感心を漏らしつつ、的を射られなかった桂のために解説をしてくれた。

「君の専門でしょ。質量保存の法則とか、物質収支っていうんだっけ。ああいうのって、反応の前後でなくなるものって一つもないでしょう」

 物理や化学の基本は、『そこにあるものはずっとある』である。そこにあるものがなくなったように見えても、それは外界から影響を受けて形を変えただけであり、変わる前だけの量を持って存在している。消えて無になってくれるなら、原子力周りの廃棄物も昨今話題のカーボンニュートラルも、そもそも問題にすらなっていない。

 瑞基が何を言いたかったかをやっと飲み込んだ桂は、その意見に対する見解どうこうの前に、率直な感想を述べた。

「そんなこと、よく覚えてるね。文系で進学するような環境にいたら、化学なんて縁がなくなるだろうに」

 少なくとも、桂が卒業した高校では「化学は理系進学希望者がやるもの」という線引きがされていたため、文系選択者は二年生の時点でカリキュラムから化学が消える。もちろん策を打てば自発的に学ぶことは可能だが、進学希望の生徒は自分が受験で使う教科に注力したがるので、実質、一年生で化学は卒業するのが文系のマジョリティだった。しかし、瑞基の母校は違ったらしい。

「俺が出た高校はお節介で、文系でも三年まで普通に化学の授業あったんだよ。今だって学問としては触らないけど、読み物としては好きだから図書館で適当に本漁って読んでるし」

「物好きな人がここにいる……」

「基本的に、文字がそこにあれば読むのが文学部だよ。英語か日本語で、活版印刷で、現代の文法で書かれた本は神様だよね」

「だからって、全然違う分野の本読む?」

「せっかく大学図書館っていう専門書の宝庫がすぐそこにあるんだから、読まなきゃ損じゃない? それに当たり前だけど理路整然としてるから、思考の流れとの乖離もなくて読んでてストレスがない」

「ええ、数式だらけの教科書なんてストレスフルなんだけど」

 学問の分野まで進めば、化学は数学とは切っても切れない関係になる。熱力学の反応エネルギー計算に始まり、実験データを扱う際の統計学的処理に、量子化学で出てくる波動関数やらハミルトニアンやらの計算処理など、数学的処理はどこまでもついて回る。計算化学なんて分野があるほどに化学は数学で出来ていることを、桂は教科書を開くたびに実感させられている。

「そりゃあ藤沢はそうなるよ、全部理解した上でその本の続きを作る人なんだから。俺はお客様気分で、出されたものから理解できるとこだけかいつまんでるからストレスがないってだけ」

「……なんか、カレーの中のピーマンみたい」

 話の中で桂がふと思い出したのは、幼少期に家で出されていたカレーだった。特に子どもがいる家庭のカレーは、カレールーの見た目や味のカバー力を信じて、子どもが嫌いだけど食べさせたい野菜などが細かく刻んで混ぜ込まれることも多いが、それは藤沢家も例外ではなかった。好きなカレーの中に、嫌いなピーマンが混ざっているが、細かく刻まれているので避けられない、という状況が、なんとなく今の話と似ている気がしたのだ。

 その一言で、それが何を意味するかを汲んでしまえるのは、さすが文学部と言うべきか。瑞基は正しく意図を捉えて、だから揶揄うような声色で言った。

「藤沢、ピーマン嫌いなんだ?」

「昔は、ね。今は人並みに食べられるからね」

「俺、いわゆる子どもが苦手な野菜って全部昔から好きだったから、その感覚よく分かんないんだよね。何が嫌いだった?」

「なんだろう……、匂いかな。あのなんか『ピーマンだぞ!』っていう匂い」

「それはカレーでも消せなさそう」

「うん、消えなかった」

 そんな話をしながら、二人は講義棟群が分かれる交差点に着いた。このあと、桂は右へ、瑞基は左へと向かっていく。

「今度ピーマン入りのカレー作ってみよっと。じゃ、また」

「うん、また」


 *


 椎名があの狂った恋愛観で人付き合いを始めたのは三年前、彼女が二十歳を迎えた年だった。成人式の式典は着る物がないから欠席するが、その後行われる同窓会には出席すると藤沢家一同は本人から聞かされており、まさにその同窓会のすぐ後にそれは始まった。

 世の中には同窓会マジックという言葉がある。同級生に久しぶりに再会したら記憶より大人になっていて、うっかりときめいて恋が始まる的なアレのことだが、彼女は家庭の都合もあって高卒で就職しているため思春期に色恋にうつつを抜かせる状況ではなく、その反動でマジックにしっかりかけられたらしい。藤沢家組は、当初から「その恋愛観は大丈夫なのか」という懸念を持っていたが、本人が意欲的だったこともあり、青春を遅れて(と言っても当時だってまだ二十歳なのだが)取り戻しているようなものだと割り切り、荒療治だと思って見守っていた。恋に恋するお年頃は早晩終わる、と思っていたから。


「……現状、終わってないのがなぁ」

「どうしたんだ、突然」

 帰宅が午後九時を回り、ようやく夕飯にありつけた桂は、同じく遅めの帰宅で夕食が重なった父と並んで食卓を囲んでいた。一時期は反抗期で会話どころか顔を合わせたくもないと思っていた父だが、今ではその辺がすっかりどうでもよくなって、むしろ今時の若い人の感覚を知りたいという父の希望のもと、適当な会話が出来るくらいには交流が復活している。

「昨日、また椎名さんが来てたから。椎名さんの行動についてちょっと考えてた」

「ああ、みたいだね。そういえばその後は大丈夫だった?」

 食卓の隣、リビングでひとりテレビを見ていた母に父が投げ掛けると、母は振り返って今朝の様子を答えた。藤沢家の男組は朝早くに家から消えるので、朝の彼女の面倒は、母に投げっぱなしになるのだ。

「体調はさすがに微妙だったみたいだけど、ちゃんと会社に間に合う時間に帰っていったわよ。しーちゃん椎名、そういうところはきちんとしてるのよね、ずっと」

 桂も本人と会うと昨日のように茶化すけれど、椎名は基本的に真面目な人だ。だからこそ、恋愛に関してだけとはいえ、あの無茶苦茶で走り続けるのは精神的に負担だろうということが想像できて、余計に怖い。

「父さんと母さんも、若い頃にはあんな無茶やったもんなの? お酒とか、恋愛とか」

「ないわねー。私はお酒で無茶しようにも先に頭痛がして無茶できないし、恋とかなんとかもどうでもよかった方だから。お父さんと会ったのもお見合いみたいなものだったのよ」

「えっ、そうなの」

 初めて聞く事実に驚いて父を見やると、父も似たようなことを言う。

「俺もそのへん興味がなさすぎたから、知り合いに騙し討ちみたいに母さんを紹介された。その結果が今」

「あー、『知人の紹介』ってやつ」

 結果気が合って夫婦になっているのなら、この二人はこの二人で似た者同士、ということなのだろう。

「そう。ある程度年齢いったら結婚するのが当たり前って社会だったし、実際母さんと会って話してみて、この人となら暮らせそうだって思ったから」

 今でこそ、多様性や個人の尊重など様々な理由で「一人でいる」ことへのハードルが下がりかけているが、それでもなお、何がなんでも結婚して子供を持ち家庭を築くことを人生の一つのゴールとする風潮は根強い。今より二十年以上前なら、その風潮はさらに強かったのだろう。

「最初からロマンチックな感情とかほぼなかったんだね。あっても聞きたくないけど」

「俺も息子には話したくないな」

 桂の感想には、父も苦笑で答えた。身内のそういう話なんて、どんな顔で聞けばいいのか分からない。

「だから私たちも、しーちゃんの恋愛観はいまいち分からないのよね。あれを単に『最近の若い人だから、私たちの世代とは違うわね』って括っていいものじゃないことだけは分かるし」

「若者代表として、その慧眼に敬服します」

 桂がわざと仰々しく言えば、母は「あらやだ、面白い」と笑った。渾身、というほどでもないが、ボケがきちんと通じてウケるのはホッとする。

「せめて、この家に気軽に来て、好きなこと吐き出せるってことが良い方向に働いてくれれば、とは思うんだけど」

「……だからいつも拒否しないんだ?」

 椎名が「別れた」だの「好きな人できた」だのの話題と酒を持ってくるときは、基本的にその日突然やってくる。一軒家暮らしの藤沢家だから、車があるか、家の電気が点いているかなどを見れば在宅状況はどうせわかってしまうし、彼女はこの家の合鍵の隠し場所緊急時侵入経路も知っているので、念を押してアポを取ってくれた試しなど一回もない。家に帰ったら勝手に上がっていた、なんてことも実際にあった。

「放っておいたら、いつか突然、取り返しのつかない場所に行っちゃいそうな気がしてね。なんだかんだでしーちゃんのこと邪険にしないのは、桂も同じでしょ」

「……まあ、うん」

 椎名は幼馴染だ。もう十年は付き合いのある幼馴染だ。だから幸せでいてほしい。


 ならば、彼女の望む幸せとは何なのか。椎名が追い求めている『恋愛』は、その幸せに何をくれる役目があるのか。


 それは、『恋愛』でなければ手に入らないものなのか。


「……わっかんねーなー、ほんと」

「ふふ、若いわねぇ。悩みなさい、若者」

 眉間に皺を寄せながらぼやいた桂を見て、母は面白そうに笑っていた。

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