消失の先に #2
*
「言葉の定義は社会通念から汎用的に定められているだけだから、実際にそれが何を内包しているかは、人の数だけあるものだよ」
そんなことを桂の目の前で言ったのは、奇妙な経緯で縁の生まれた友人こと村井瑞基である。彼は人文学部に所属するいわゆる文系学生であり、午後は学科必修の実験や演習に追われ、午前はその基礎となる分野をやっぱり学科必修で詰め込まれている桂のような理系学生とは、授業すら被りようがないため、サークルや部活でもなければそもそも世界が交わらない。しかし桂はそのどちらにも属しておらず、それは目の前の彼もまた同様だった。
「たとえば、俺が君と会って話すことと、ゼミの同期と会って話すことは違う。でも俺は二人とも『友達』だと思ってるし、そこに優劣や順位は当たり前だけど付いていない。俺という学生と、これから君と同じ教室で授業を受ける学生が、大雑把になるけど『君の同期』という言葉で括れるのも、まあそういうことになるかな」
何を学んでるかは全然違うし、違う専攻分野のことは何ひとつ理解できないのにね。彼はそう言いつつ、桂の前で優雅に温かい緑茶(学食に設置されたサーバーから無料で湧き出てくる)を飲んでいる。
「……ずっと思ってたんだけど、なんでわざわざ朝早くに来てんの? 飯は家で食ってんのに」
彼は、平日は必ずこの時間に学食にいて、しかし特に何を食べることもなく緑茶を飲んでいる。それは、平日の朝食はいついかなる時もここで食べる桂だから知っているのだが、まだもう少し眠りたいという欲求との戦いが一番激しい朝という時間に、敢えて少し早く起きることを選び学食に訪れるような人は、基本的には桂のように飯が目的である。朝食は家で済ませたうえで朝営業の学食にいる瑞基は異質であり、その奇妙な行為に興味を持った桂が相席を申し出たことから、交わるはずのない二人の友人関係は始まった。同期で同い年、性格もそれなりに波長が合うと分かったことで、今では気の置けない友人である。
桂に怪訝な顔で問われた瑞基は、空になったコップを手元に置いて、気怠そうに答える。
「八時半にならないと講義室も図書館も開かないし、授業前にどっかで遊んでいられるほど体力バカの自信もない。だったら、ここくらいしか場所がない」
朝活という単語がある。それは文字通り朝の活動のことで、忙しく不確実な日々を送らざるを得ない現代人にとって、睡眠時間をちょっと削れば誰でも必ず確保できる朝という時間は究極の余暇ですらある。ただそれは、ちょっと早く起きても後の予定に支障をきたさないだけの体力気力があることが大前提の活動であり、人によっては朝がそもそも向いておらず、無理に早起きした結果後の予定が崩れるだけ、ということもある。桂から見ても瑞基は朝からパワフルに動き回る人ではないし、それは本人も自覚しているらしかった。
しかし、朝活に向いていないタイプなら向いていないタイプなりに、朝をこれからの一日に備えて体力温存に充てる方が一般的で、その時間にわざわざ外で暇潰しという、あまり休まらないことをしているのも整合性が取れていないように桂は思う。
「体力温存派だとしても、家でゲームなり読書なりするくらいは平気でしょ? 今くらいの時間から支度始めても普通に間に合うんだし、家でのんびりしてる方が温存になる気がするんだけど」
彼は下宿組という特権を活かして大学の東門から徒歩五分の近所に部屋を借りて住んでいる。それなら、講義室などの鍵が開く八時半を待って家を出たところで席は選び放題で、遅刻とも無縁のはずなのだ。
他にすることがないと瑞基は言うが、通学に時間を取られて睡眠時間を確保するのも一苦労な桂にしてみれば、その時間も寝てれば良いじゃん、としか考えが及ばない。
そう思って投げた疑問に瑞基から返ってきた答えは、初めて聞く彼の生活だった。
「あー、そっか。言ったことなかったけど、俺、五時半には起きてる」
「は?」
曰く、地元にいる瑞基の恋人はスポーツマンで朝早くから練習に明け暮れる人であるため、相手の練習が始まる前に連絡を取り合うのが習慣なのだと言う。そのために、よほど切羽詰まった時でない限りは朝五時半に起床する、とのこと。そして、その後は眠かろうがなんだろうが意地でも二度寝はしないと決めており、ここに来るのも緑茶を飲むのも、二度寝予防策の一環だそうだ。
「……なんで? 寝ればいいじゃん」
「向こうは朝練してるのに、一人ぬくぬくと寝こけてるのはちょっと話が違うかなって。まあ単に俺の意地だよ」
桂はそれを聞いて、自分の表情筋が奇妙な動き方をしたことを察知した。多分いま、自分は目の前の友人に対してすごく失礼な顔をしていると思う。
「うわあ……」
桂のその微妙な顔と、どう返そうか悩んだ末に出たこれまた微妙な相槌に対して、瑞基は意地の悪い笑顔を浮かべた。
「分かりやすく複雑な顔するね、君」
「だって聞いてるだけで痒い、人のそういう話は」
「別に、命かけてトラックの前に飛び出してるわけじゃないのに」
「……そのネタ、通じる方が少数派だよ。僕ら世代」
「藤沢が分かるなら問題ない、今ここには俺と君しかいないから」
まあそんな言葉遊びは置いといて、と瑞基は一方的に話を切った。この友人は、人当たりよくなんでも聞くような態度でありながら、案外人の話を聞かない時がある。
「藤沢だって第三者から見れば同じだからね」
「え、同じって何が」
「幼馴染さん。他人から『よくそこまで付き合ってられるね』って呆れられること、してるでしょ。昨日も」
「……ソウデシタネ」
そして桂にとって、瑞基は『椎名の悪い癖』の話が出来る唯一の相手だった。瑞基とは、友人とは言いながら連絡先も交換していないので、ここで会えなくなったら縁が切れるという本当に奇妙な関係なのだが、その奇妙な距離感だからこそ、ともすれば揶揄われるような話をする相手としては最適だった。フィクションの影響なのか、異性の幼馴染と大人になっても距離が近いというのは要らない期待をされがちだ。
今日だって、昨日椎名がまた来たこと、彼女がこの期に及んで追いかけている『恋愛』とは何なのかという話を出会い頭にしていたし、冒頭はその桂の疑問に対する彼の見解の一端である。要は、「他人に聞いても君の望む答えにはならない」というのが瑞基の返答だ。
*
「けど、僕と椎名さんはただの幼馴染だよ。……同じなの?」
「そこまで付き合えるなら、関係の名前に意味はないね」
瑞基はきっぱり言い切った。
「そもそも、『恋人』という概念にも揺らぎがある。『恋人』である以上、それは『恋愛感情』をベースにした関係だと人は思いがちだけど、『恋愛感情』の一般的な定義要件と、実際に恋人関係を結んだ二人の間にある感情とが一致するとは限らない」
「……『恋人』なのに?」
いま瑞基が言った内容をまとめると『恋愛感情がない恋人関係もあり得る』ということになる。それは字面からして大きな矛盾を孕んでいるように見えて、桂は納得いかなかった。
しかし、その問いを予想していたと言わんばかりに、瑞基は立板に水を流していく。
「そう、『恋人』なのに。たとえば、俺はなずなさん……彼女のことを『恋人』だと呼ぶし、それは彼女もそうだけど、そこに世間が想像する『恋愛感情』があるかと訊かれたら、多分お互いないって言う」
ある辞書によると、『恋愛する』という動詞は、『特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情を抱き、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと』という意味だと記載されている。社会で『恋愛感情』と表現される感情や、椎名がやっていると思われる『恋愛』は、おそらくこの説明にあるような「世界に二人だけでいたい」「ちょっとでも疑念が生じると不安」という部分が核となる感情なのだろうが、瑞基曰く、彼と彼女の間には恋人関係になる前も後も、そのようなスリル満点で莫大なエネルギーを消費する、かつ非常に閉鎖的な感情は存在しない、とのこと。
「自分が自分の意思で心の内側に招いた人や存在は、その間にある感情が何であっても関係なく、唯一で大事だと思うでしょ。俺は彼女のことをそんな風に思ってて、たぶん向こうもそんな感じ。だけど今の社会でそういう間柄に異性の人間を置いていると、何故だかそれを『恋人』ってことにしたがる奴が多いから、便宜上『恋人』を名乗るだけ。俺や彼女の当事者感覚で言うと『パートナー』が近いけど、そう言っても『パートナー』も結局『恋人』なんでしょ、って丸められちゃうから諦めた」
「そんな横暴な」
「世界はいつでも勝手で、個人の意思なんて二の次だからね」
瑞基は呆れたような笑いを浮かべてそう言った。世界は頼んでもないのに勝手に誰かに期待して、そして勝手に失望し、失望をその『誰か』のせいにする。
「個人の意思は二の次だから、俺と彼女が『恋人』なのも、君と幼馴染さんが『幼馴染』なのも、世界が勝手にラベル分けしてるに過ぎない。だったらラベルが何であるかに意味はないし、一見ラベルの違う君たちと俺たちが同じでも、矛盾は起きない」
「……同じ、なのかなぁ」
瑞基の解説は、桂にとって分かったような分からないような、という中途半端な収まり具合で腹に落ちた。
「まあ、あくまで俺の持論だけど。例えば幼馴染さんは、今の俺の話に納得はしないと思うし」
「うん、それは僕も想像できる」
二週間で「好きじゃなくなった」という杜撰な理由で恋人と別れてくる彼女であるが、それが彼女にとっては重要な理由になるほど、椎名は『恋愛感情』があることが大前提の価値観をしている。その人に今の話を聞かせても、端から端まで異世界語のようなものだ。
「ただ、それはそれとして。君の幼馴染さんは大丈夫なの、いろいろと」
「えっと、まず二日酔いは確実ですね」
瑞基によって椎名へと話が戻され、その問いから椎名の状況を思い浮かべた桂は、重めの溜息を吐いて答えた。昨日の何度目かの突撃は何度目かであるので、いちいち椎名のその後に対して気を揉んだりはしない——具体的には、二日酔いが酷そうな悪酔いだと傍目に分かっていても、そのまま放置していつも通りに家を出て、学食で朝食を食べている程度には慣れている。だが、大丈夫か、という問いには、そろそろ頷けなくなっている。
「……精神的に大丈夫かどうかも、正直怪しい」
何度目の突撃かを数えるのをやめた頃、桂はふと思ったことがある。
どうして彼女はそんなことを続けているのか、と。
彼女が『恋愛』に特別強い憧れを抱いていることは、側で見ていればすぐにわかる。憧憬ほどの強い動機がなければ、あんな無茶だらけの恋愛観で突っ走ることこそ不可能だ。
しかしこの世界は残酷なことに、憧れほど手に入らない仕組みになっている。実際、「好きじゃなくなった」と関係をやめるのは憧れたそれを失った証だし、長く続くそれがないから、桂は頻繁に振り回される。
恋に焦がれて手を伸ばし続けて、届いたと思ったら蜃気楼。椎名はこれを繰り返している。桂の懸念には、瑞基も頷いてくれた。
「だよねぇ。そろそろ誰かにこの負の連鎖止めてもらわないと、幼馴染さんの心が壊れるよ」
『恋人』に許すような行為の中には、簡単に相手を殺せる性質が含まれているものもある。彼女はその判断や攻防も含めた人間関係のスクラップアンドビルドを回し続けているのだから、心理的には相当負担があるはずで、しかし彼女はそのめちゃくちゃな恋愛をもう三年近く続けている。しかもインターバルなしのノンストップで。
「良い人と巡り合ってくれればって願ったところで、一番のネックが椎名さんの意識だしなー……」
恋愛は人を拗らせるもの、といつの時代も言われるが、拗らせ方にもレベルがある。たとえば「惚れ込んだがゆえに相手のダメさを見抜けない」なんてケースも拗らせた人の部類に入るだろうが、それは外野がチェック体制を作るなどすることである程度改善を期待できるため、拗らせレベルとしては軽い方だ。
椎名の場合は椎名の意識がぶっ飛んでいるので、「治そう」と思うなら彼女の意識改革が必要になるが、それが出来ていたら今頃桂は困っていない。
「しかも幼馴染さん、『恋愛』に対してよほど何か固執してるでしょ。固執するってことはそれだけ精神の中で重要な柱なのに、やってることはガンガン斧ぶつけてへし折る行為なんだから、どう考えても不健康だよ」
「……やっぱ、第三者からもヤバめに見える?」
「それ以外にどう見ろと?」
椎名は『恋愛』に強い憧れを持っている。と言えば聞こえはいいが、実際は憧れどころでは済まない、取り憑かれているような負の影響が見て取れる。でなければ、関係をやめるたびに飲んだくれて倒れるような無茶をしてまで、即座に次だと踏み出すなんてことはしない。無茶をするくらい消耗しているなら、人間は本能で休みを取る。
「どうすれば諦めてくれるのかな……」
彼女が恋愛、それも辞書的な『二人だけの世界』に固執する理由は、以前から考えてはいるし、なんなら本人にも訊いたことがある。しかし、彼女はその問いを「恋愛したことない人には言っても分かんない」と答えてくれなかったし、実際その経験がない桂には理由を思いつくこともできていない。打てる手がない今は、ただ柱が折れるのが先か、彼女が諦めるのが先かを見守ることしかできないのだ。
うっかり漏れた思考の端は、瑞基に笑いながら拾われた。
「なんかそれ、恋人いる人に恋情寄せてる人の台詞みたいだね」
「……まあ、報われない一方通行だし、確かに僕は片想い中かな」
『額面の言葉には意味がない』とは、ついさっき瑞基が言ったことだ。それを踏まえて桂がそう返すと、彼は満足げに笑った。
「飲み込みが早いね、さすが。俺も藤沢と友達でいられて嬉しいよ」
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